後編
さっきまで右手にあったサンドは、今はもう僕の腹のどこかに詰まって、後はもう僕にあの快感を寄こすこともなく、ただ静かに分解されるのを待っているという訳だった。
分解された後は腸で吸収されて、それらが僕を形作るための新しい材料となるんだ。吸収しきれなかった分と劣化した僕の一部は、明日の朝またあの喧しい音と共にトイレの穴の奥へと吸い込まれていくのだろう。そして、僕はそれをじっと見送るんだ、きっと。
それにしても、欲求がアレの色形を絶対に一度は確認させようとするのはどうしてなのだろう。ちょっとした健康診断のためなのかな。
「どうしてだクリエイター…」
ぽりぽりと首の後ろを掻きながら僕はそう呟いていた。こんな風にいつもの現実逃避を惜しみながらシャツを着がえるのが、僕が毎朝繰り返しているお決まりのパターンということ。これが僕の意識にとって、唯一の外側であり情報の源、現実というものだ。
どうしてこうしているのかって?決まってるだろう、仕事に行かないといけないからだよ。行かないとボスに怒られるだろうし、もしかしたらクビになるかもしれないんだから。
そうさ、クビになったら、また別の仕事を探さないとならない。快適な生活の為にさ。そこのディスプレイやコーヒー、それからピーナッツバターサンドで快楽と安心を得るためにはそれが必要なんだ。
僕はテーブルの上の鍵を取って外へ出た。階段を降りると、そこにはたくさんの人々が駅の方へ向かって、ぞろぞろと通りを下ってゆくのが見えた。ちょうど今僕のアパートの前を抜けていく、このメガネをかけた小太りの男も何かに突き動かされているに違いない。こんな風に何事も無い様な顔をしているとしてもだよ。
例えば家のローンや子供の教育費なんかさ。毎月の支払いが払えなくなると、言うまでもなく困ったことがたくさん起こりそうだよね。つまり、このおじさんの中では損を何とか避けたいという欲求が強く働いているんじゃないだろうか。
通りの向こう側を歩いている、あの綺麗な人だって、持っている小綺麗なバッグやピカピカのヒールなんかを身に着けるため、…ええとあとは、それを皆に見せる快感のためなのかもよ。仮にそうだとしたら、この人には特に、何かを得たいという欲求がぐいぐいと効いているのかな。
近所の公園の時計が誇らしそうに煌めいている。少しぴりっとした感じがしたと思うと、僕はポケットに手を突っ込み少し早足で歩きだして、そうしてすぐにさっきのメガネの男を追い越してしまった。
とにかく近頃は、人々がさっきの物理的な法則上で動作する欲求のプログラムに動かされているように見えるんだよ。それで、少し考えているのは、これから逃れる方法はあるのかってことなんだけど、行動のどれを選んでも、それを選ばせるのは実は欲求ってことになっちゃう。利を得る場合でも、損を回避する場合でもね。そんでもって、欲求を否定することはつまり―
突然パァーっと大きな音がして、僕の目の前をトラックが埃っぽい風を残してすり抜けて行った。通りの皆がそれまでの欲求を中断して僕の方を見つめている。
これは、彼らにとってさらに強力な命令が下されたってことを意味するんだろう。ローンやバッグをそっちのけにしても従わなければならない最重要命令、それは何が何でも生存せよというものだ。このつんざく様なホーンが唐突に本能の核心を突いたんだろうさ。こんな時なんかは、改めて僕たちが動物ってことを思い出すよ。
当の僕の方も、今まであれこれと考えていた全てが一旦頭から吹き飛んで、眠気で少しまどろんでいた感じすら、もうすでにどこにもない。
間違いない。これが最後の砦。僕たちを生き物として動かしている最も重要なプログラムに違いない。そうなると、反対に欲求を欠くという事は生命力を失う事なのかもしれないね。仮に一つずつ欲求を取り除いていったなら、あるところで必ず生命は成立しなくなるんだから。
つまり、結論としてはだね、このシステムから逃れられる唯一の状況というのはつまり、死ということなのかな。
もう少しだけ、この先を見てみよう。生きている間は欲求のプログラムに沿ってきたわけだけど、じゃあ、死んだその後も僕らは何かに従うのだろうか。
じゃあさ、さっきのトラックに轢かれていたとして、誰一人それに気づかないとするね。そうなるとここで野ざらしになっている僕の身体は、蛆や細菌なんかの食料になったりして分解されてゆく。もちろん彼らも欲求の命令通りにそれを実行させられている訳だ。食べられる所が無くなった後は、もう他の生命たちも去ってしまって、そこから長い時間をかけて骨も最後には雨や土に溶け込んでしまう。よく土に還るなんて言うけどさ。
これは物理法則に従って化学反応を引き起こした結果としてそうなるわけだから、結局のところ僕の全ては欲求が手綱を握っているさらにその裏で密かに糸を引いている物理法則の独断によってこの星の一部に還元されてしまうということなのかもしれない。
物理法則が黒幕だと言ったのはね、この惑星内で循環している材料を元に、また新しい人間やその他の動植物達は構成されていくからで、僕の身体だって前は他の植物や動物、それに勿論他の人間の一部だったことがあるに違いないのだから。
それはつまり、生命を始めたり終わらせたりっていう循環はこれに基づいていて、その循環の一部分で欲求という回路が機能しているのかな。
やっぱり全ての生命のコントローラーは物理法則と言えるのかもしれないよ。そうなると、欲求というものも見方を変えると、ケミカルな連鎖という領域を出ないってことにならないかな?平和が何時までも続かないのは、それが欲求レベルの善で、その上のステージには逆らえないからなのかも。ほら、人間の善を通すと何処かで循環に反することもあるでしょう?ええと、ってことは―
突然、自転車が僕のすぐそばを走り抜けて行った。すると、またこんな風に頭が空っぽになる。
…まあ、僕の意識、僕自身が自由になるには結局死を受け入れる他に無いという結論に達したもんで、ちょっとばかり悲しい気になったよ。
つまり、存在するということは、それ以前から存在する何かに依存するってことで、物質が存在する以前にも何かしらの法則が存在し、その法則下で存在が始まる。そうなると、やっぱり僕たちの空間の最初に関わった設計者を仮定してみるのは自然なことだろう。それとも、延々と法則の法則の法則の…なんていうことになっていて、辿ってゆくその内に、ちょうどメビウスの輪みたいに何処かでループでもしようもんなら、それはそれで今度はちょっと拍子抜けしちゃうのかもしれないね。
そう思いながら、ずいぶんとすり減った石造りの階段をとんとんと踏んで、駅へ繋がるこの古い歩道橋へ上がった。駅の屋根と空の境界が気持ちのいい黄金色で瞬いている。
「悪くないね…」
僕は誰に言うでもなく、そう口を開いていた。皆はその黄金に吸い寄せられるようにこの歩道橋へ集まって来る。そんな光景を見てしまうと、こんな風に天邪鬼な人間だってね、その時だけは、もう何でも許してしまえそうな気になるもんなんだよ。
法則、そして欲求がこの感情をプロデュースする。そんなことは勿論わかっているさ、わかっていることなんだよ。でもね、僕らが知る限り一番貴重な感情をこんな風に導く仕組みにしてやろう、なんて考えつくというのは、なかなかセンスあるなあと感心してしまったんだよ単純に。
うん。あのゴールド…。あれはね、拳を握れば握るほど、歯を食いしばれば食いしばるほど遠ざかる純粋な幸福そのものだよ。
気付くと、僕は次の一歩を繰り出すのを放り出して、なんてことはない駅の屋根の方をそうしてただ見つめていた。視界の隅の方では、ゆらゆらと前を行く頭が途切れることなく蠢いている。
欲求は息を荒くしながら、次々に人々を電車に詰め込んでゆく。当の本人はというと、何時でも人々の眼の後ろに潜んで、ずっと気持ちが良いか悪いかなんてことばかりを貪るように考えているんだよ。
僕の裏側にだってそれはいるんだろうけど、何故だろう?その時はすっかり大人しくなって、快・不快の品評をしている様子もなかったな。
ひょっとするとさ、何とかすると、死以外にも欲求のプログラムから自由になる術ってのが本当にあり得るのかもしれないね。ほら、これはあれだ、例の悟りってやつかもよ。
僕は滑り込むような格好で、何とかこの淀んだ空気が充満した車両に収まった。ドアの外では締め出しを食らった何人かが不満そうに僕を睨んでいる。
あの時僕は歩道橋の上で、もう一度あの不思議な感覚を得ようと試してみたのだけど、時間経過に紐づけられた、典型的な不快がじわじわと沸き起こって来て、それで、とうとうゴールドの幸福のことは諦めなければならなくなったのさ。だけど、そのせいで僕ががっかりしたと思うかい?
いいや。それどころか、益々このクリエイターってやつの才能に感服したくらいなんだよ、実は。いや、何がってね、あんなにも嫌がっていた明日を、つい待ち遠しく思ったんだからね僕は。
ああそうだよ、欲求がそれをさせているって言いたいんだろ?そう、そこなんだよ、僕が感服だなんて大袈裟な言い方したのは。何とも素晴らしいのはね、欲求が自らの支配からの解放を許した、という点なんだよ。つまり、主従関係にある僕らが、たぶん生まれて初めて合意したってことになるんだよ、きっと。
ああ、当然そのさらに外側にはまだ物理法則の支配がある訳だけど。いや、べつに欲求に味方するって訳じゃないんだよ、これはただ理想的な人間の状態についての話なのさ。
生命の意識の中に芸術的な調和が発現する。それを見越して〝始まり〟を設計したのなら、これはもう僕が知る限りで最も優れた才能と言わざるを得ないね、まったく文字通りの宇宙一ってところだよ。そして、気まぐれな思い付きで沸き起こった最近のポップアートとは対極にあるような、まるで計算しつくされた超緻密な幾何学的デザインの中に僕たちはひっそりと組み込まれているのかもしれない。
駅の外へ出た所で人々が放射状に散っていくのが見えた。そこには見覚えのある顔も混じっていたのだけれど、僕は自分の歩幅を変えるつもりはなかった。
どこか不満そうな彼らはみるみるうちに小さくなって、今はもうずっと遠くの方でもがく様に揺れている。
…うん。ほら、だから言ったんだよ、みんな聞きたがらないって。でもさ、今なら彼らの後ろで待ち構えているものがはっきりと見えるでしょう?
ディア クリエイター SI.ムロダ @SI-Muroda
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