八佾14~16 郁郁たる文かな吾れ周に從わん

14


子曰:「周監於二代,郁郁乎文哉!吾從周。」


 孔丘先生は仰る。

「周は夏、殷二代を参考とし、

 その盛んなる文治を築かれた!

 私は周に従おう」


 孔丘センセー、たぶん周って殷放伐してますけどオッケーなんですか……いやまぁセンセーが周に忠誠を誓われるのは、それはそれで結構なんですけど……。




15


子入太廟,每事問。或曰:「孰謂鄹人之子知禮乎?入太廟,每事問。」子聞之曰:「是禮也!」


 孔丘先生が歴代魯公を祀る廟に入ると、

 あらゆる物事について質問してくる。

 ある人が問う。

「鄹の役人の子ガキは礼に詳しい、

 と聞いたが、どこがだ?

 質問だらけではないか」

 すると孔丘先生は仰った。

「問うのが礼にかなうからです」


 孔子の父、叔梁紇が鄹の町の役人であった、とのこと。魯の首都から見れば片田舎であり、そんな町生まれのガキ、というのは、侮蔑感むき出しにもほどがある。田舎出身のガキが俺らに偉そうに礼を語ろうってのに、自分自身は礼に全然詳しくないじゃねえか、というわけだ。それに対する孔子の回答は、ある意味「郷に入っては郷に従え」、なんでしょうかね。

 いや、つーかまじで響くぞこれ。リーダーは新しい場所の仕事をなすときに、最初にするのは現地風土を把握すること。そこを踏まえずにあれこれ変えようとしても、現地の文脈を破壊するだけで効率がクッソ悪い。最悪の場合離反を食らう。うるせえな普通に食らってんだよこちとら!

 そんなわけで、「その場のやり方」をきっちり把握しようと動かれる孔子の動き方にのたうち回ってるのです。そ、それ……ほんそれ……つらみ……。




16


子曰:「射不主皮,爲力不同科,古之道也。」


 孔丘先生は仰る。

「礼射では矢を的に当てることのみが

 問われるわけではない。

 射手一人一人の筋力に応じ、

 なすべきことが変わる。

 画一的に射方を言うのではなく、

 その人に応じたやり方が生まれる。

 これらを尊重していくのが、

 古のやり方である」


 朱熹以前は「射的は弓の腕だけでなくその振る舞いも重視される、また力仕事はその人の筋力に応じた仕事が課せられる」みたいな解釈だったのだそうだが、どうも一つの条にはめる解釈として接続がよろしくないように感じた。と言うかこの短い条で二つの要素を並べるなら対置するだろうし、句形ももう少し揃えてくるだろう。そう考えるとひとつながりの文章とする朱熹の解釈のほうが腹落ちしやすい。

 上の条との接続も感じられやすいしね。「すでに、そこにある文脈」は、場だけじゃない。ひとりひとりについても言える。極力他者の文脈に対しては敏感でありたい。というのも、その辺に対して鈍感である自信があるんだよね。そんな自信火にくべちまえって感じではあるんだけれども。

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