八佾10~13 其の媚を奧に與うらば寧ろ竈に媚せよ

10


子曰:「禘自既灌而往者,吾不欲觀之矣。」


 孔丘こうきゅう先生は仰る。

の儀礼は、酒を地面に

 こぼすところまでは良い。

 だが、そのあとは

 とても見れたものではない」



11


或問「禘」之說。子曰:「不知也。知其說者之於天下也,其如示諸斯乎?」指其掌。


 ある者が魯の儀礼、

 その意義について問う。

 孔丘先生は仰る。

「さてな。この天下に、その意義なぞ

 わかるようなものがおれば、

 それこそ全てを、

 ここに把握しておろうよ」

 と、ご自身の掌を指さされた。


 禘については、ちょっと調べるだけですさまじく深い議論がなされている代物なので、ここは逃げます。逃げるよ! あたりまえだ! そしてここでは趣旨の違う二条が並んでいるのだけれど、一緒くたにします。わかんないからな! いや、あるいは一緒なのかなあ。いずれにしてもこういう「よくわからないもの」に対して語っているものにうかつに判断を下してしまうのは危なそうです。



 

12


祭如在,祭神如神在。子曰:「吾不與祭,如不祭。」


 先祖を祀る祭礼とは、

 そこに先祖がいるがごとく

 行うものである。

 神を祀るのであれば、

 そこに神がいるがごとく

 祀るのである。

 故に孔丘先生は仰っている。

「何らかのアクシデントで

 祭礼に参与できないでおると、

 先祖や神を奉じた気になれぬのだよ」


 まー、これは、何つーか、「いますがごとく」やらねえなら意味ねえですわよね、ってゆうね。これまでさんざん語られてる礼や楽は心性が伴わなきゃ意味がないってのとまったく同じ話でしょう。逆にそこを改めて書かなきゃいけなかったあたりに、どんだけ祭礼がこの当時ですら形式だけになってたのかってのがうかがえるよね。




13


王孫賈問曰:「『與其媚於奧,寧媚於竈。』何謂也?」子曰:「不然。獲罪於天,無所禱也。」


 衛国えいこくの権臣、王孫賈おうそんかが言う。

「ことわざにも申しておりますな。

 奥に媚びるより、かまどに媚びよ、と。

 これはどのような意味なのでしょう?」

 孔丘先生は仰った。

「おかしなことわざです。

 天よりお叱りを受けておきながら、

 何を祈るのでしょう」


 当時はかまどに神が宿るとし、その神をかまどの前と、家の最も奥との二か所で祀るようにせよ、という風習があったそうだ。で、より念入りに祀るのはかまどの前。なので「かまどの神を祀るのであれば」奥よりかまど、と言われたそうだ。

 が、王孫賈、家の奥を上座=一番偉い人がいる場所=魯公、かまどを玄関口=国の窓口=権臣とみなし、意味合いを「国公よりも権臣に媚びた方がいいんじゃないのかい?」に切り替えてきた。怖いな王孫賈さん。近寄りたくない。

 で、孔子の切り返しは、わざと底意に気付かぬふりをして「奥の間の神」、つまり、より上位の神をないがしろにすれば、神よりのお叱りがある。そんな状態でなす祈りに、いったい何の意味があるのだい? となる。

 以上をまとめると「俺に媚びろ」「やだよバカ」が本条の内容となる。世・説・新・語・かっつうの!(※こっちが先です)

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