爲政18、19 擧すに直を諸もろの枉に錯さば則ち民は服さん

18


子張學干祿。子曰:「多聞闕疑,愼言其餘,則寡尤;多見闕殆,愼行其餘,則寡悔。言寡尤,行寡悔,祿在其中矣。」


 顓孫師せんそんし殿が、宮仕えでの

 地位を得ることを学んでいた。

 ここで、孔丘こうきゅう先生は仰っている。

「多くのことを聞きなさい。

 そのうえで、疑わしきことは棚上げし、

 それ以外の部分を慎重に語る。

 そうすれば過ちは減る。

 多くのものを見なさい。

 そのうえで、疑わしきことは棚上げし、

 それ以外の部分を慎重に行う。

 そうすれば悔いは減る。

 過ちを、悔いを減らす。

 そうすれば、自然と宮仕えの立場は

 手に入るものだよ」


 顓孫師は講師と五十歳近く年が離れていたというから、もうおじいちゃんとクソガキである。良くも悪くも才気走ってたんだろうなあ、という感じはする。そしてここで孔子が語ってること、……こういうのとかさー、マジでさー、殺しにかかってくるよね。俺みたいに、過去にやった過ちをずるずる引きずる口の人間にこのお言葉は厳しいっすわ……「余計なこと言わなきゃよかった/余計なことやんなきゃよかった」は、割と頻繁にやらかしてしまう。「ちょっとまて そのひとことに 意義あるか?」は折に触れて気にかけておきたいところなのですよ。だいぶマシにはなってきたけど、やっぱりうっかり暴走するんですよねえー。




19


哀公問曰:「何爲則民服?」孔子對曰:「擧直錯諸枉,則民服;擧枉錯諸直,則民不服。」


 哀公あいこうが、孔丘先生に下問される。

「どうすれば民庶は国を奉りましょう?」

 孔丘先生はお答えになる。

「まっすぐな材木のような、正しき人を

 曲がった材木のような人々の上に

 お付けになられませ。

 さすれば民は従いましょう。

 その逆をなせば、従いませぬ」


 老子の「曲なればすなわち全し」をすぐ思い出す内容ではありますが、まー全然対にはなってないですね。孔子の言う「曲がった人材」っていうのはくそ野郎的ニュアンスが強いのに対し、老子の言う「曲がった木材」は「そもそも使い物にならない」。歪んだ木材と、ねじくれ節くれだった木材くらい違う。でも儒はクソを高らかに歌いたがる老子のクソ弟子どもは嬉々として対置してきただろうなあ。

 デレク・ユアン氏の著した『真説・孫子』によれば、源『老子』と呼ぶべきテキストがはじめにあって、そのテキストに影響を受けて『孫子』が書かれ、さらにそれらの内容をもとに現『老子』が編まれたのではないか、ってかかれている……らしい。すいませんまだ読めてないんです。個人的には老子のあの一部の絶望的な底の浅さには、そういったいきさつを見て取りたいところだなーって思うんだけど、その前にまずは『真説・孫子』を読まねばである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る