爲政14~17 學びて思わざれば則ち罔し

14


子曰:「君子周而不比,小人比而不周。」


 孔丘こうきゅう先生は仰る。

「君子は全体を包み込み、

 誰かと誰かを特別扱いはしない。

 こざかしいものは逆だ。

 何人かを特別扱いし、

 全体に気を配ろうとはしない」


 あっ、やめてください、痛っ、そんな、刺さって……ッ! うん、いや、これ、リーダー経験したことある人がどれだけ「君子」側にいられるかって、すっげえつらいと思うんよね。だって「公平」だって結局は「一つの基準」なわけじゃん? どれだけ一人一人を同じくらい大切に扱えるかってさあ、という。




15


子曰:「學而不思則罔,思而不學則殆。」


 孔丘先生は仰る。

「学んだものを、

 ただ受け入れるだけであれば、

 視野は閉ざされたままだ。

 学ばずして、

 あれこれ思索しても、

 道を踏みはずすだけだ」


學而16ともリンクしてくる内容ですわよね。「すでにあったものから、新しいものを導き出す」。すでにあったものを踏まえなければ、新しいものを導き出すことは難しい。ここは小説サイトですのでそれっぽい話題を挙げれば、パクリとオマージュとテンプレ援用の話、とかだよね。「俺は才能だけで突き抜けてやるんだぜ!」とか言ってみても、出来上がったものは結局すでに手垢がついたものか、あるいはただの意味不明なものにしかならなかったり。素直に学んでいきたいものですが、まぁこれがなかなかに難しいわけで。




16


子曰:「攻乎異端,斯害也已。」


 孔丘先生は仰る。

「異なったものの端を攻めるのには、

 ただ害があるだけだ」


 通常「攻」は「修める」として読むらしい。専攻の攻やね。そうするとこんにち的な意味での「異端」の教えを学ぶのには害しかないぞ、という感じになる。んー、孔丘先生なら言わなさそうなんだよなあ。なお吉川幸次郎よしかわこうじろう氏は、この条について「最も厳密な立場で解釈すれば、よくわからない、とするしかない」と言っている。自分もその姿勢を支持したい。異端って言葉が、あまりにも異質すぎるんですよねえ……。




17


子曰:「由,誨女知之乎!知之爲知之,不知爲不知,是知也。」


 孔丘先生は仰る。

仲由ちゅうゆう

 知ること、について教えよう。

 知っていることを知っていると言い、

 知らないことを知らないと言う。

 それが知ること、なのだ」


 仲由は、いわゆる子路しろ。やくざもの上がりでやんちゃ、またその発想にやや飛躍が見える弟子であったそうである。そういう発想の持ち主に対しこう説くのは、その発想の筋道も怠らずに考えなさいよ、という含意もあったのかもしれない。だとしたらアインシュタイン先生涙目。

 この条の「知」を、吉川幸次郎氏は「認識」という言葉でくくってた。それを見ると、老子の世界とのリンクがやや見えた気がする。あれは「無」とか「一」とか言った認識しえないものを取り扱おうとするけれど、それは「有」と隣接していることで初めて認識しうる、といった論法になっている。あれもスットンキョーな考えでばかりではなくて、なんだかんだ地に足ついた思索と、そしてある一点からの飛躍によって得られたテキストなんではないか、とも思うのだ。

 論語踏まえて老子を読む、はやっぱやっといたほうがよさそうである。


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