勇者・那須野歩
「これは一体どういう事なのでしょうか!何十何万と集まった人たちが一斉に謝罪の言葉を述べています!」
アナウンサーのその発言は、極めて自然だった。
第三者からしてみれば謝られた所で、一体何に対して謝っているのか皆目わからない。かろうじてその人間たちが向かっている方角が統一されているせいでなんとなくその方角の対象に対して謝罪しているのだろうと言う事がわかるのだが、一体これだけの人間がこの視線の先にある存在に向かって何をしたと言うのだろうか。その事をこのアナウンサーは知らないのだから。
「お前何頭を下げてるんだよ……」
「だってそうしないと座りが悪そうで…先輩はよく平気ですね」
「平気じゃねえよ、平気じゃ……ああはいはい!」
目的はわかるが、動機がわからない。
とは言え確かにそんな統一された集団の中での、たった数人のイレギュラーである事に耐えられるほど人間は強くない。何かそうしなければならない覚えがあるわけではなかったが、ホール勤務の彼女は頭を下げずにいられなくなった。
そして男もまた、公演をドタキャンした元教師にどういうことか問い詰めてやろうとして回していた頭を、アスファルトと平行にした。
いずれにせよ、翔子に取り、見知らぬ顔の数万人が頭を下げていた事だけは確実だった。そして、見知った顔もまたこうして頭を下げている。
そんな中、ただ一人だけ仁王立ちしているのは中学二年生の男子だけだった。
学業成績面ではともかく体格面では決して長身でも筋肉質でもなく、本来ならば誰も気に留めない程度の存在だった。
しかし、その中学二年生の男子が今、凄まじいほどの存在感を放ちながら一人の女性の首根っこを掴んでいた。
うつろだったはずの少女の目がLED照明のように輝きを取り戻し、硬直しきった脳みそを無理くりに動かしている。
十ヶ月前に見た時より、ずいぶんと大きくなったひとりの男の子。
大海にばらまかれた病原菌のキャリアほぼ全てが、今彼を中心としてこうして集まっている。そしてそのキャリアほぼ全てが、自らを焼くように命じている。彼女がそんなウィルスではなくひとりの男子を見つめているのは、今の彼女の限界なのだろう。
「僕の母さんは、デジカメで撮影した写真をパソコンで合成してこんな物を作ったんです。そしてそれを学校の先生やコンビニの人、ありとあらゆる人にインターネット上で流したんです。
調べたら、母さんは他にも何枚か似たような写真を撮っていました。全ては隣の人をおとしめるためだけにです」
いくら話しても、聞いてくれない。肝心要のはずのコンビニの店長だけは守ってくれたが、それでもたった一人で幾百幾千の批難を対処できるほどたかがそこいらへんの中学一年生女子が強い訳もない。
社会的孤立から引きこもりになったのは当然の流れであり、心の底まで絶望とあきらめが広がっていた。自分がこうして悪例となってくれるのであればそれでもいいやとまで思うようになっていた。
実際、平和な家庭に広がる病巣として彼女の例を取り上げた教育者は少なくなかった。
那須野歩と言う、同級生だった存在。彼は指でスマホを動かしながら、彼女の醜態をさらした合成写真をつぎつぎと見せた。
この存在感にあふれた中学二年生に、やはりテレビカメラが注目しないはずがない。
醜態と言うより痴態と言うべき物もあり、程度の低い物もあれば、チロルチョコをポケットに放り込んだ写真程度には出来のいいのもあった。
「母さん!なんでこんな事したの!」
歩は母親を放り出し、足を腹にかけた。みちるは泣く事も笑う事もせず、ただただ真顔で息子を見上げていた。
「あの子……あいさつもまともにしないぐらい無愛想で、その上にいつも見下すような目をしてて……そのあげく成績がうちの歩より上だなんて、生意気なのよ……」
たった一枚の写真が巻き起こした、世界的大事件。
と、あまりにも矮小な動機。
それが今こうして、電波に乗せられる事になった。
自分の主張を耳にした人間全てから言葉を奪い、笑顔を奪い、気力を奪っていた。そして、時間も。
「……なるほど、ひどい女ですね」
「ああいうのを毒親って言うんだろうな、いや毒親どころか猛毒親だな」
同じ職場の先輩後輩の、まったく他人事だった男女だってそれは同じだ。
もし那須野みちるのせいで公演をドタキャンした人間がいなければ、この一日をこんな騒ぎに費やす事はなかった。
自分たちのせいと割り切るにはあまりにも重たい空間。もしこんな所に来ていなければ今日一日何をしたのだろうか、それを考える事さえできなかった。
本来ならば、ここに集まった人間にはやる事があったはずだ。
運動会に、商談に、デート。野球の試合に、三十幾年の教師生活の体験から来る経験則を話そうと言う機会。
それが、たったひとりの卑劣きわまる行いから生み出された一方的な都合、その結果発生した数万人の自己満足により何もかもふいにされた。
それにより被害を受ける人間の数はその幾十倍にもなるだろう。
「私は世の中いつもうまくいくものじゃないって事を教えてあげただけなの」
「母さんはどうしてそうなの?」
「歩が中間テストの時悔しがってたから、お母さんなりにできる事を考えただけよ」
だと言うのに
取り繕いを述べている訳ではなく、これが彼女の本心だった。本心だから、すんなりと出て来る。自分が正しいと思っているから、まるで迷いがない。
見方によってはすがすがしくあったかもしれないが、その上に醜悪さが何重にも覆いかぶさっていた。
「って言うかどうやって見つけたの」
「パソコンに残ってたんだよ、四重にパスワードかけてさ、本当に苦労したよ!」
そうして作られた、遠藤翔子が万引きをしていた合成写真をネットオークションで入手した、いわゆる飛ばしの携帯からあちこちに送り付けた。
適当と言うわけでもなく、志高く昨今の子どもたちの乱れを憂いているであろう人間を選んで、徹底的に話題を広げさせようとした。
もちろん歩と翔子の通っている学校の関係者にも。
その飛ばしの携帯はその後みちるの手によりネットオークションに流されて歩の塾の受講料に化け、その後暴力団組織配下の闇金組織に流用されそして現在は押収されて警察署の中にあった。
そんな訳で両親に抱きかかえられながら十ヶ月ぶりに家から出た遠藤翔子は、日光を浴びるやよろめきながら嘔吐した。
例え自分にとって無害だと理屈ではわかっていても、心が強く拒絶する。
奇跡と言うにはあまりにも気持ち悪いこの現実は、弱り切っていた翔子には耐えがたい物だった。
那須野みちるは、この十ヶ月間遠藤翔子にとっては悪い隣人ではなかった。適当に責め立て、適当に自分の事を気にかけてくれ、適当に両親とも言葉を交わしていた。
それが急に自分からすべてを奪った人間である事を聞かされても、頭が追い付かない。
ストックホルム症候群とか言う単語を聞かされても、耳に入るだけで頭に届かない。
「僕が一生守るよ!」
「本当に……?」
「当たり前だ!」
勢いであったかもしれない。
だがそうでもなければ遠藤翔子と言う朽ち果てかけた存在を世間に引きずり出す事は不可能だったろう。絶対的な味方となる存在が、今の彼女には質量ともにたくさん必要だった。
魔王により心身ともに痛めつけられ、疲れ果てた姫君を癒すのには量もさることながら、勇者とも言える質の高い味方が必要だった。
那須野歩と言う中学二年生の人生は、その勇者となる事でほぼ確定した。
数万人の人間と数百万人の視聴者の前でタンカを切った手前、取り消す事などできない。
そのやはり中学二年生に背負わせるにはあまりにも重すぎる十字架を見て満足したのか、生涯彼女を支える旨一方的に宣言した謝罪者たちの行列が津波のように引いて行くと共に、街に静寂と平穏が無理くり入り込んで来た。
これからしばらく、遠藤翔子と言う人間の人生は真っ黒の反対の真っ白になるだろう。だが今までの真っ黒な人生を取り消すかのように無理やりに白い絵の具を突っ込んだ所で、灰色になるのにはどれだけの時間がかかるのかわからない。
十ヶ月かけてつけられた傷が十ヶ月で癒えるのか、そんな単純な計算による結末を、今や彼女は世界中の人間に期待されるようになってしまった。いずれにせよ、重たい事に変わりはない。
「先輩は……私の事どう思ってるんです?」
「えっ……ったく暇な奴だと思ってな。今度もっと有意義な時間の使い方ってのを教えてやるよ」
「ありがとうございます!」
あまりにもバカバカしい茶番劇、その感想を表に出す事は絶対にできなかった。
帰るまでが謝罪だと言わんばかりに全く物も言わずに帰って行く十数万人の謝罪者たちと、もう十分絵は取れましたと言う仕事人間なマスコミたちがいなくなり、残された二人の男女。
ある意味もっとも孤独かもしれない二人のうち、真っ先に耐えられなくなった後輩の女性が男性に甘くささやいた。
それが那須野みちるのもたらした正の成果である事を、やたら細く鋭く輝く少女の目は願うかのように見つめていた。
その目を塞ぐかのように少年は少女を抱き、そして空を向かせた。電線が突如消え去り、気が付けば夏の日射しと梅雨の走りを示すかのような入道雲ばかりが二人を覆っていた。
そこに大魔王の介在する余地など、なかったのである。
トゥルース @wizard-T
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