民族大移動
さて、六月二日。
とある駅のホームは、いつもの日曜日よりはるかに混雑していた。
昨日唐突に試合をキャンセルして謝罪に向かおうとしていたとある信州の高校の野球部のメンバーたちは、一人を除いて全く無言だった。
そして、野球部の中でただ一人疑問を抱いていた男子高校生もまた、すぐさま言葉をなくした。相手の高校の生徒も、同じ列車に乗らんとずらりとホームに並んでいたのだ。
「やはりそうですか」
「ええ、此度の罪を悔いなければ試合なんてできませんからね」
その生徒がまさかと言おうとする間もなく、相手の高校のチームも謝罪に向かう旨述べた。
自分だけが異世界に放り込まれたような気分になった生徒があわててチームメイトに話を聞こうとするが、まともに答える者はいない。
と言うか、静かにしろ以外ほとんど何も喋ろうとしなかった。
アナウンスと電車の音だけが流れる車内で、みな何も言葉を発する事はなく、身じろぎさえわずかしかしない。
謝罪と言う目的を終えるまでは何もする事はないと言わんばかりのかたくなな姿勢に、普通の客たちはだんだんと脅え出し、そして自然と口数が減って行った。
中には不気味になって途中下車してしまう人間もいたが、その次の電車も、そのまた次の電車もほとんど同じような有様であった。老若男女や上下線の違いこそあれど、とある駅を目指す列車の乗客の大半がまるで銅像か何かのように不気味なほどの沈黙を守ったまま電車に乗っていた。
「ご覧下さいませ、こちらの駅に多数の客が集っています!ホームはもはや通勤ラッシュなどと言う生易しい状態ではなく、立錐の余地もないほどの大混雑ぶりです!」
普段一日の昇降客数千数百人の駅に、その日は数万人の客が降り立った。
性別も年齢も、立場も何もかも違うその数万人の乗車客は、まるでロボットかのように整然と歩き始め、そして他の客の進行を阻む事なく改札を出て行った。
「大規模フラッシュモブじゃねえかこれ!」
「これはデモ行進だ」
何にも知らない第三者たちは脅えたり浮かれたり騒いだりしながら、この奇妙極まる行進を見守っていた。中には、先ほど声を上げたようなテレビマンもいた。
唐突に起こったのならばともかく、二日前から起こっていたこの異常事態を見逃すほど報道人は甘くはなかった。
「お客さん、ちゃんと列を守ってください!」
駅員が言うまでもなく、彼らは不思議なほどに整然としていた。中には青い目をした人間もおり、彼らもまた日本と言う国の秩序に馴染み切っているかのように行列を作って歩く。
「どちらから来たのですか」
リポーターは誰彼構わず、その質問をしまくった。
答えない人間も多かったが、答えた人間からは横浜やさいたまのみならず、仙台や長野・札幌や鹿児島、挙句の果てにイギリスと言う名前までも飛び出した。
運動会を欠席した親子連れも、大事なはずの取引をふいにした社長とその秘書も、カップルも、元高校教師の還暦の男性も。まったく共通点のない集団が、東京の片隅に向けて迷うことなく行進している。
「この集団が全員買い物に来るかと思うと武者震いしますねー、そうですよね店長!今日はもうかりそうだなー」
「能天気な事を言うなよ、ちゃんとしっかり見てろよ、誰が入って来ないとも限らないんだからな!」
通り道のコンビニエンスストアでも、大量の客候補を見込んで浮かれていたバイトの若い男性と店長の中年男性がせわしく話をしていた。決して広くない店舗にあれほどの客が殺到すればパニックになる事は明白だし、それだけの客に売りさばく商品などない。
無論このコンビニが唯一無二の店舗と言う訳ではないにせよ、商売繁盛を通り越した事態の到来、輸送のトラックさえ行き場のなさそうなこの状態を店長はまん丸な目で見つめていた。
「まあでも、万が一の時には俺が何とかする。お前はレジを頼むぞ」
「はいわかりました!くぅー、今日はこの店に務めてから半年間で一番熱い日になりそうだなー」
あの時の監視カメラ代を払えそうなぐらいには利益が上がるのだろうか。そんな事を二人が考えていたのは、甘い夢であり現実逃避でもあった。
「先輩見てくださいよこれ!」
「ああ、そうだな!」
この行列の中で、マスコミ関係者以外で表情を作っているのはただ二人だけだった。元高校教師の公演をドタキャンされた多目的ホールの職員の男女だ。
「まったく、どうしてまたこんな東京の、雑踏を歩かなきゃいけないんだ!」
「先輩が言い出したんじゃありませんか」
「ああそうだけどな!」
男も女も、感情をむき出しにしている。まったく秩序的に歩き、まったく表情を崩す事のない集団の中で、一人は憤りをあらわにし一人は高揚している。
この集団が謝罪と言う目的すら抱えている事さえ知る事はなく、ただただ押し流されるように進んで行く。
やがて行列は、那須野家近辺までたどり着いた。この民族大移動現象は、もちろん、この辺りで普通に暮らす人間にとっては恐怖でしかない。
いやそのはずだったのだが、気が付くと彼らはなぜか家を出て行列に参加していた。
不思議な事に、行列に加わると恐怖はすっとなくなるのだ。
「あらまあ、どうしてこんな事になってるのかしらねえ。歩、日曜だからゲームとかやっててもいいけどほどほどにね。昨日徹夜でもしてたの?」
みちるはこの行列を、まったく他人事のように見つめていた。夫は日曜日ながら仕事で駅におり、那須野家には母と子しかいない。
みちるが窓枠に寄りかかりながら外を見つついたずらっぽい笑みを浮かべていると、突如みちるの頭が揺れた。
「何をするの!」
何も言わないまま母親の頭を殴打した歩は、その首根っこを掴みながら階段を降りた。
歩の力は体育の成績が10段階の6以上になった事がないと言うのが大ウソであるかのように力強く、その真っ赤な眼球を抱えながらの目つきもまた今までの人生で一番鋭かった。朝方にあくびを繰り返していたとは思えないほどの息子の挙動に、みちるは無言で掴まれている事しかできなかった。
「お、お、お母さん……!」
そして十ヶ月もの間、ずっと家の中に引きこもっている翔子にとってはそれこそ世界の終わりにも思えた。
数万、いや十万単位の人間が自分の家を目指して来る。見知らぬ一人と会うのさえ怖いのに、十万人などとても耐えられるはずがない。
「へ、ヘリ、ヘリが来るよ…………」
翔子が震えながら叫ぶ。
陸上だけではなく、空中からもこの大行列は捕らえられていた。さらに言えばグーグルアースからも。
ほぼ無言の行列が、自分の家へと向かって来る。
死刑執行を待つ死刑囚、それが今の翔子にとってまったくふさわしい形容だった。
「大丈夫!父さんは最後までお前を守るから!」
「母さんを信じて!」
翔子は一年半前に買った金属製の定規を握りながら、母親に抱き着いている。小学校四年生程度の背丈に小学校二年生程度の体重しかない翔子の体の軽さは、裕子の心をさらに責め立てた。
行列の先頭が、遠藤家の前で止まろうとしていた。目的地が自分たちの家であることを悟った次郎は、覚悟を決めたようにドアを開けた。
「ごめんなさい!」
その六文字の大合唱と共に、この地に集まった人間の99.9%までもが頭を下げ、さらにその中の9割の人間が両手と両ひざと頭を道路に付けた。
しなかったのは単なる現象としてこの行列を追っていたマスコミと、ホールの職員の男女を始めとするやはりマスコミと同じようにこの行列の目的を知らない人間たちだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます