狡兎死して良狗煮らる

「何を勘違いしている、わしはお前の物言いで少しも傷付いてなどいないぞ」

「いやでも……」


 正則は保宗を抱きかかえながら背を撫で、必死に泣き止まそうとしていた。まるで赤子と母親である。正則は男であり保宗は赤子と呼ぶには年を取り過ぎていたが、年齢差から言えば親子でもおかしくはなかった。

 碌でもないいたずらをやらかしてお仕置きされるのを待っている保宗を、正則が必死に抱きかかえていると言う構図は何とも奇妙であるが、親子の間柄と考えると不思議にしっくり来ていた。


「わしはこうしてここに立っている。あの男がいたらわしは天寿を全うする事さえできなかった。それだけの事よ」

「しかしその、でも……」

「わしは自分がやった事が間違っていたと思った事は一度もない。そうであれば人生に悔いなど何も残らぬ。いろいろ意志をねじ曲げて生きた所で残るのは後悔ばかりだ。お前はわしに後悔して欲しいのか?」

「いえそんな、滅相もございません…………」


 確かにそうであった、主君に気持ち良くしてもらうのと後悔していてもらうのとではどう考えても前者の方が良いに決まっている。保宗はまた後悔した、どうしてこうも主君の心が読めないのか、保宗の心の中で自己嫌悪の念ばかりが肥大していた。


「恥じる事はないぞ、お前の考えの方が常識的だからな。わしの対応の方が常識から外れていたのだ。戦場に長年暮らしているといろいろずれてしまう。お前にはそうなって欲しくない、これからの平和な時代を生きるお前にはな」

「はい……」

「いい加減にしろ、お前はわしの先程の言葉を忘れたのか!お前はわしに後悔して欲しいのか、して欲しくないのか!」

「それは無論、後悔などして欲しくは……」

「だったらそなたも後悔などするな!そなたの言葉が全く真心から出た物である事はこの福島正則が一番よく知っている!巧詐は拙誠に如かずと言う言葉をそなたは知らぬのか?」

「もちろん存じておりますが……」


 どんな生き物も、急所を突かれると生命の危機と判断して暴れ回る。人間だってそうである、自分の一番弱い所を付かれるとその状況から逃げるために行動を起こす。正則の多弁は正則が蔑み憎んで来た石田三成と同じ事をしてしまったと言う後悔の体現であり、そしてその痛点を家臣であるはずの自分が付いて正則の心を踏み躙り正則の多弁を呼び込んでしまったと言う後悔が保宗を襲っていた。


「おい保宗、そなたはわしにどうして欲しいのだ?正直に答えよ。切腹するので介錯をお願いしたいとか抜かすのならば話は別だが、それ以外の事なら概ね何とかしてやれるぞ」

「本当に良いのですか………では………思いっきり怒鳴って下さい。わしを石田三成なんかと一緒にするな、と…あんな下賤な小手先だけの男と一緒にするな、と……」

「それがお前の望みか……?」

「はいっ……」


 どんなに言葉を飾った所で、正則と三成が手を組んでままでいれば家康と戦っても勝てたかもしれないし、あるいはそもそも家康は兵を興さなかったかもしれない。

 主君がその事がわからないような短慮な人間であったと思いたい家臣などいるはずもない。だからこそ保宗は正則の言葉を信じていなかった、いや信じたくなかった。

 そしてそれでもなお、保宗は正則に後悔して欲しくなかった。最後の最後まで、正則には自分の進んだ道を突き進んでもらい、そして本人の言う通りに後悔しないでもらいたかった。


「保宗!わしは誇り高き武将、福島正則だぞ!それをあんな小手先だけの男のご機嫌取りがやった事と一緒にするのか!」

「いえ、その……」

「あの男は確かに命を惜しんではいなかったかもしれぬ、だがそれは飽くまでも自分一己の為だけ、自分の外面を良くする為だけのごますりだ!命を惜しまぬごますりと言うのもそれはそれで才能ではあったが、活かされてはいけない才能だった。そういう獅子身中の虫を退治するが為、わしらは兵を興したのだ。そしてその結果を経て、今わしは家臣であるそなたに誠意を示すが為に、たまたまそなたの鼻水の入った茶を飲んだ。わしはそなたへの誠意を示すが為に茶を飲んだのであり、あんな下賤な男の真似をしたのではない!」

「は、はい……申し訳ございませぬ」

「わかればよろしい、今後は気を付ける。全く三成め、わしのやる事を先読みでもしたと言うのか、あの男はどこまでも卑劣で奸智だけは回るのだな、あの世でさぞ嘲笑しているのであろう。どこまでも忌々しい男だ」


 保宗の期待に応え正則は保宗を怒鳴った。

(殿はただ、満足しておられる。この殿の満足を崩す必要は、もう私にはない。この命果てるまで、殿にお仕えしよう。余計な事を考えるのはもう終いだ)

 仏教に六道と言う物がある。生前の行いによって人間は死後この六道に振り分けられると言う。苦しみがなく安らかに過ごせるのが天道、自分達が今いる楽しみも苦しみも多い世界が人間道、争いが絶えない世界ながら己が心さえ治められれば何とかなるのが修羅道、動物の姿で使役され続け救いが少ないのが畜生道、飢えと渇きに苦しめられるのが餓鬼道、責め苦を受け続けるのが地獄道である。


 三成が人間道を去ってどこに向かったかは誰も知らない。多くの人間を死に追いやったという点では地獄以外ありえないかもしれないが、地元の民にとっては徳政を行い名君であった三成が地獄に堕ちたとは考えたくないだろうし、また人を死に追いやってにしてもそれは飽くまでも秀吉の命令や豊臣家を守ろうと言う忠義の念から発した物であり、それを穢れた心から発した物と断言するのは相当に無理がある。

 ましてや三成は刀槍の術に長けていなかった事もあり、正則と違ってその手をもって直に殺した人間は一人もいなかった。その論調で行けば、三成は正則と違って殺生と言う罪を犯していないと言う解釈も可能である。


 正則は三成があの世で嘲笑しているだろうと言ったが、地獄道や餓鬼道でそんな事をしている余裕があるだろうか。畜生道や修羅道ならばまだ余裕もあるかもしれないが、そのいずれもが地獄道や餓鬼道より苦しみの少ない世界である。

 正則自身、そんな所で済む程度の罪しか犯していないような清らかな人生を送って来た覚えはない。もし正則の覚えと言葉が諸共に当たっていれば、三成は来世では正則より上の世界にいるのではないか。保宗は、頭の中に浮かんでしまったその邪推を追い払うかのように頭を軽く振り、そして叩頭した。


「そんなに畏まる事はない、そなたの言う通りたまには怒鳴るのも必要だったな。いや、すっきりしたぞ。感謝する」

「ははっ……」


 保宗はゆっくりと頭を上げ、そして立ち上がった。そこには元通りの晴れやかな正則の顔があった。








「まあよろしいですけど」

「今日は負けんぞ」


 翌日、保宗は正則に碁を打たないかと誘われた。政務その他を済ませて時間があった保宗は正則の言葉に従い、碁盤を正則の部屋に持ち込んだ。


「流石に昨日とは違いますな」

「当たり前だ、同じ轍を二度踏むほど愚かではない」


 正則の碁は昨日とは違っていた。一手一手に重みがあり、そしてどこが重要であるかないかしっかり弁えていた。考える時間も昨日よりずいぶんと長く、手拍子ではなくしっかりと碁と向き合っている様子が盤上からも滲み出ていた。


「あの後碁の本でもお読みになられましたか?」

「そんな事はしとらん。まあそなたはわしを殿と呼ぶが、わしは隠居の身であり暇は山とあるからな。それもできるだろう、けど今回はしなかった」

「ずいぶんと余裕ですな」


 保宗だって、昨日打った碁を覚えている訳ではない。だが仮に正則の打った手が昨日と全部同じだとしても、保宗はそう感じなかっただろう。


「布石はだいたいこんな所か」

「それでは仕掛けさせていただきましょう」


 昨日とは違い、保宗から正則の陣に向けて仕掛ける展開になった。正則も昨日の経験が物を言ったか守るに値しない石を捨てて真に重要な石を守っている。


「そんな石でも取るのか」

「落ちている栗を拾う様な物です。もらえるならばもらっておくに越した事はないでしょう」

「落ち栗は落ち栗でしかないぞ」


 捨石であろうと石を取る事には変わりはないし、その捨石を犠牲にして手を稼ぐのも大事である。どちらも真理であり、場によってどちらが優先されるかは変わって来る。それだけに、どちらを優先するべきか、その間合いには碁打ちの名人でさえも悩まされ、時にその間合いを誤り形勢を損い敗れてしまう物である。


「私が悠長な真似をしてしまって戦機を失ったのか、それとも失礼ながら殿が攻撃を焦ったのか」

「わしは昨日より大分慎重になったつもりだがな」

「わかります。これはおそらく私の方がやってしまった様な雰囲気ですな」


 雰囲気と言うより空気、あるいは覇気とでも言うべき物かもしれない。この時盤上を支配していたのは石ではなく、そういう類の物だった。もちろん覇気だけで碁に勝てるのならば碁打ちなどいらないが、相手を時に怯ませまた惑わせて形勢判断を誤らせると言う点では役に立つのもまた事実である。

「まあとりあえず得点は稼ぎましたし、ここはおとなしく受けに回りましょう」

「そんな小銭で守り切れると思っているのか」

「今日も私が白ですから、最終的に半目でも勝っていれば良いのです」

「だらしがない奴め」

「殿から比べれば大概の男はだらしない男ですよ」

「世辞を言っても何にもならんぞ。まずお前の本陣を気にすべきではないのか」



 正則は鋭く保宗の石を攻め立てていた。保宗の防備が早かった事もあり殺されるまでは行かないにせよ、保宗も随分と地を失ってしまっていた。


「これは腰を据え直してかからねばならないようですな……」

「さて間に合うかな」


 保宗は心理的にかなり押されていた。盤上の形勢がどうなっているのか、自分が有利なのか不利なのかさえもわからなかった。おそらく不利だと思う、でも今さら勝負を仕掛けた所で勝てるかどうかわからない。座して死を待つこそ愚かなる事はわかっているが、だからと言って打開の方法があるかと言うと別問題であった。


「やるしかありませんね」


 と口で言いながら、保宗は一向に攻撃をかけようとしなかった。もう攻める事はせず、守り一点で先程の得点を生かして逃げ切ろうと言う腹である。


「軟弱な奴め」


 正則の言う通り軟弱なやり方である。だがこれが意外に厄介だった、弱ではあっても軟である故になかなか大きな打撃を与える事ができない。その結果、一方的に押していたはずの正則がよく見るとわずかに足りなかった。


 だが二人とも最後までその事に気付く事なく打ち終わり、その結果保宗の一目半勝ちと言う結果に至った。その事に気付いて保宗が驚きの声を上げるのと同時に、正則が泣き崩れた。


「と、殿!」

「何故だ、何故こうなる……?最善手を打ち続け、昨日の様に感情に囚われる事なく冷静に場を見たと言うのに……」

「申し訳ございませぬ、受けるのに必死で場を見ておらず……」

「構わぬ、ここまで碁に集中した挙句負けたのはわしの責任だから、しかし……」


 正則は人目もはばからず泣いた。あの福島正則が、碁に一番負けただけで泣いたのである。


(人は老いると子どもに戻ると言う、と言う事はこれが殿の本質と言う物なのだな…随分と可愛げがあるお方だ)


 その可愛げがあるからこそ、秀吉は武勇や血脈を越えて正則を重用したのだ。秀吉が三成に対して同じ類の感情を抱いていたかどうか知りようはない、されどおそらくは抱いていなかっただろうとも保宗は思った。


(漢の高祖は女好きの大ぼら吹きでろくでなしだと言うが、それでも天下を取った……太閤殿下や徳川殿は無論、このお方にも似た類のそれがあるのかもしれない)


 だがそういう才能は世が乱れていればこそ生きる才能であり、治世に入ろうとしているこの時代では生かせる物ではない。


「私はあえて止めませぬ。泣きたいだけお泣きになって下され、泣かせた元凶である私が言うのも何ですが……」

「礼を言うぞ保宗、ああ碁盤は片付けておいてくれ……」


 保宗は碁盤と碁笥を持ちながら、泣き濡れている正則の面前を後にした。そして碁盤と碁笥を正則の居室からほど近い部屋に雑にしまい込むと、丁重に鍵のかけられた蔵へと向けて歩みを進めた。


 碁盤はまたすぐ使うかもしれなかった、だからこそ正則の居室のすぐ側に置かれた。だが保宗の目前にある、正則の居室から遠く離れた蔵の中の物を取り出すには、正則や忠勝の許可を仰ぎ、蔵の鍵を取りに行き、そして門の鍵を開けなければならない。言い換えれば、それぐらい悠長な事をしていても大丈夫な位必要性がない物が入っていると言う事でもある。


(蔵も所詮、中に物が入っていなければ用を成さない物。その蔵の主が消えると言うのであれば、蔵の主を磨かんとする私も消えよう。そんな理屈を抜かすには若すぎるかもしれないが、今さら後悔するつもりもない…………)


 蔵をひとしきり眺め終わると、保宗は安芸では目にする事もなかった粉雪を手で払い除けながら、正則の元へと戻って行った。

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福島正則 @wizard-T

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