大谷吉継

「全く、自分の不出来振りを思い知るのも疲れる物だな」

「まあまあ、人間万事うまく行くとは限りません」


 保宗に碁盤を片付けさせた正則は体を震わせながら溜め息を吐いた。


「集中すると喉が渇く物だな」

「茶でも立てさせますか」

「それぐらいは自分でやる」


 正則は粗雑ながらしっかりした手付きで茶を立てて行く。作法に則っているかどうかは微妙に怪しいながら、それでも年齢相応に重みのある所作で自分と保宗の分、合わせて二杯の茶を立てた。


「殿から直に茶をいただくとは、他の者に申し訳が立ちません」

「わしがやっているのだ、文句は言わせん」


 正則は保宗に茶碗を押し付け、そして自分の茶碗には口をつけようとしなかった。


 一方で保宗も主君より先に茶を飲む事は出来ないとばかりに手を動かそうとせず、沈黙が二人の間を支配した。主君である自分の期待通りに先程は手を抜かなかったのだから、今回もまた主君の期待に同じように答えるべきではないのかと言わんばかりの目線で正則は保宗を睨み、保宗はそれとこれとは違いますからと言わんばかりに視線を正則の茶碗の方角にばかり向けていた。


「どうした?茶が温くなるぞ」

「先程、殿は喉が渇くとおっしゃったではありませんか、この茶は喉の渇きを潤す物であって茶の味を楽しむ物ではないと思います。よって多少温くなった所で大過はございませぬ。ゆえに待たせていただきます」

「主君の頼みでも駄目か」

「駄目でございます、こればかりはお先にどうぞとしか申せませぬ」

「入口に背を向けると言うのは損な事だな」

「背中でも寒さは感じられます、でも部屋の奥だからと言って寒くないと言う訳でもないでしょうに」

「それはまあそうだが、仮にもわしは福島正則だぞ、この程度の寒さで……」


 相変わらず外は雪である。降り方こそ派手ではないが地味にかつ確実に積もって行く有様には奇妙な迫力があり、正則も保宗も初めて信州に来た際には驚くとか対策を命ずるとか言う前に黙って見つめるしかなかったほどである。その雪と寒さを楯に飲め飲まぬの問答を繰り返していた二人であったが、ここで突如保宗がくしゃみをした。


「ああ申し訳ございませぬ、これは大変な失礼を」

「お前が意地を張るからだ、罰として先に飲め」

「は、はい………」


 保宗は鼻を啜りながら茶碗を口に当てた。それほど長い問答があった訳でもないはずなのに茶は存外温くなっていた。その分飲みやすくはあったが、茶の味は余り生きていなかった。いや、保宗にはそれ以上に茶の味を感じる余裕がなかった。


「あっ殿、茶に私の鼻水が」

「良い」

「いえそう申されましても」

「構わぬ」


 先ほどのくしゃみの影響で、自分の鼻水が正則や正則の持つ茶碗にまで飛んでしまっていた。そんな茶を飲ませるなど出来はしないとばかりに保宗は内心慌てふためいたが、正則は躊躇う事なく茶碗に口をつけ、一息で飲み干した。


「何とも恐れ多い事を…」

「いや何、起こりえぬ事ではない。こんな瑣末な不手際を責めていたら家臣が何人いても足らなくなる」

「私は一応健康体ですからよろしいですが、もし私が大病人だったらそれこそ大事でございますぞ」

「そんなに畏まるな」

「いえ…………」




 この時保宗の頭の中を、二人の人間の名前が巡っていた。そしてその二人の人間の名前を出すべきか否か、保宗を激しい葛藤が襲っていた。自分が不始末をやらかしたにも拘らず上機嫌なこの主君を傷付けたり怒らせたりする事にならないであろうか、保宗の頭は惑い唇を震わせていた。


「どうした?何を震えているのだ?寒いのか?」

「いえ、その……はい寒うございます………」

「ではもう一杯熱い茶を立ててやろうか?」

「そ、それは畏れ多い事で………!」

「畏まる事はない、ほんのちょっとだけだ」

「なればその、大変図々しき事ながら、ほんの少々などと言わず多量に」

「わかったわかった、期待に応えてやろう」


 内心の動揺を覆い隠す事ができず体を震わせる保宗に対し、正則は鷹揚に振る舞いながら茶を湧かした。ほどなくして正則は湯気が出るほどに熱い茶を先程と同じぐらいの量まで茶碗に注ぎ、保宗に差し出した。

 深く頭を下げながら茶碗を掴んだ保宗は茶の熱さに怯む事なく茶碗を手元まで持って行き、そしてためらう事なく飲みにかかった。流石に一息で飲み干すには量も熱さも問題があったはずだったが、それでも保宗は半分近くを飲んだ。

 しかし、それでも保宗の体の震えは止まらなかった。


「おい、どうした?寒いのは分かるがそこまで飲まんと味が分からんのか。っておい、何を震えている?これでもまだ寒いのか?」

「いえ、その……」

「何だその物言いは、胸の中に溜めておくと損だぞ。わしみたいに後先短い訳でもあるまい、墓まで持って行くにはまだ相当かかるぞ」

「ではその……申し上げます…………私は直に見た訳ではございませんが……」

「早く言ってくれ、何をだ」

「先程、私が不始末をしでかした茶を飲み干した殿が行いと、同じ行いをした人間を私は一人知っております………………」


 保宗にしてみれば必死だった。わざと間を持たせる事によって正則に考える時間を与え、その同じ行いをした人間の名前を知覚させ話をやめさせようとしていた。しかし正則の面相には困惑こそ多少浮かんでこそいたものの、それはあくまでも混乱している保宗を見た結果のそれであり、保宗がなぜ混乱しているのかと言う事については全く思いが至っていなかった。


「ほう、誰だそれは?」

「あの、えーと…………本当によろしいのですか?私の身の安全を……」

「そこまで言いたくないのか」

「私はその、平気ですが、殿が傷付きはせぬかと、全く余計なお世話ではございますが…………」

「黙っていられる方が傷付くわ、わしは先にも述べたように既に六十を越えていて後先もそれほど長くないぞ。今更この世に未練などないが、もやもやした気持ちを抱え込んだまま死ぬのは流石に御免だ」

「わかり申した………では申し上げます。その人間の名は、石田……」

「石田?」

「はい、石田三成で、ございます…………」

「おい大丈夫か?……そうかそうか、石田三成か、そう言えばそんな男もいたな」


 保宗は石田三成と言う言葉を吐き出し終わるとぐったりと倒れ込んでしまったというのに、正則は全く動揺した風を見せず、むしろ保宗が倒れ込んだ事に付いて動揺していた。


「そう言えば……?」

「何、既に過去の存在だった物でな……そう言えばそんな輩がいたな」

「どんな人間だったのです、詳しい事はわからないのですが」

「まあいい機会だ、とっくりと教授してやろう」

「あ、有り難き幸せ……!」

「石田三成ってのは、こことここだけの男でな。あ、ここもあったかもしれんが」


 予想外に正則が上機嫌なままだった事に保宗は慌てふためき、体を一度大きく起こしてそれから再び平伏した。

 その保宗に対し正則は表情を崩さないまま舌を出し、右手の人差し指でまず頭を指し、次いで舌、最後に股間を指した。


「太閤殿下様に小手先の口舌で取り入ってそのお気に入りになり、我々が命懸けの戦いを繰り広げている中安全な所でぬくぬくしていた卑劣な輩だ。奥方様とも懇意で、出世したのはその縁と言うのもあるであろうな。全く忌々しい男だった」

「忌々しいとか言う割には、随分と嬉しそうに話をなさっておりますが」

「何、品のない話であるが駄目な人間に付いて語ると言うのは良い人間について語るのと同じくらい面白い物でな」

「石田三成と言う人間がどういう風に駄目だったのか、より詳しく聞かせていただけないでしょうか」

「より詳しくと言われてもな、今語った事がほぼ全てだ。まあ後はだな、戦が下手であった事は知っているだろう?一万五千の兵を率いながら五百しかいなかった忍城を落とせなかったのが石田三成と言う人間の程度だ。それがわかっているから諸将たちは三成を信用せず、算術しかできない男らしく数だけをかき集めた張りぼての軍勢は裏切られたり内応されたりして崩壊、敗軍の将となって三条河原に首を晒されたのだ」

「繰り返しますが、随分と嬉しそうに話をなさっておりますな」

「嬉しそうだと?違うな、嬉しいのだ、ようやくわしの話に付き合ってくれる者が現れてな。保宗、厚く礼を申すぞ」

「有り難きお言葉…………!」


 保宗の父保茂が福島正則に二十年ほど仕えてこの世を去り、保宗もまた父と同じく正則に仕えていたが、これほどまで晴れやかな正則の顔を見たのは初めてだった。

(本当に深い憎悪を抱いていたのであられるな…………)

 死んだ人間の悪口を嬉々として喋る姿はどう贔屓目に見ても美しい物ではない。正則の程の年齢になればそれがわからないはずはないのに、それでも平然かつ嬉々として喋っている。

 いくら聞いているのが自分一人とは言え、相手への憎悪がよほど深くなければできた事ではない。既に別の世の人間になって二十年以上経つのに未だにこれほどまでの恨みを抱いているとは、関ヶ原まで二十年近く付き合って来て一体何をされたと言うのか。


「愚にも付かぬ事をお伺いしますが、もしあの大戦で石田三成が勝っていたら今頃この国はどうなっていたでしょうか」

「やめろ、そうなったらあの男によって秀頼君も奥方様も暗殺され、誰も逆らえない、いや誰にも逆らう隙さえ与える事なくあの男が権力を掌中に収めていたに決まっている。わしなどはとっくに首が飛んでいただろうからその光景を見る事はなかっただろうが、どうせろくな世でなかった事だけは間違いない」

「今この時よりもですか」

「ああ間違いなくな、豊臣も徳川も全てなくなり、残るのはあの男の一族とそれに頭を下げてへいこらする事をまるで厭わない魂の抜けた連中ばかりだ。そんな国に住むぐらいならば地獄に住んだ方がましだ」

「たかが二十万石の大名だったはずなのですか、そんな事が出来るのですか」

「たかが二十万石?石高など大した問題ではない、問題なのは政権の中枢部との距離よ。今幕府の中核にいるのは井伊榊原酒井と言う徳川譜代で十万石以上の石高を取っている連中ではなく、それよりも遥かに禄高の少ない、確か一万石あるかないかの旗本とか言う連中ばかりだぞ。そういう人間どもの指図に従って、御三家とやらも前田も島津も細川も黒田も動いている。そういう事だ」

「それが恐ろしかったからこそ……」

「ああ、そういう事だ。だからこそわしは仲間たちを集め、三成めの穢れた野望を阻止しようとした、そして見事に成し遂げ、この国を守ったのだ」


 その結果、豊臣家は滅ぼされ大坂城は火の中に消え、そして自身は二十万石どころか二万石まで領国を減らされた。悲劇と言うより喜劇とでも言うべき話であるが、正則は嬉々としてその顛末を語っている。


「でもその、大変申し上げにくいのですが、殿が今さっきやった事はその穢れた野望を抱いた男がやった事と同じですよ…………」

「そうだったか……そんな昔の事は覚えていなかったのだが……で、具体的にどれの事だ。碁か?」

「いえ、先程の茶ですよ」

「ああ茶か、まあ茶坊主上がりの男だから茶を立てる事ぐらいはしただろう。知っているか、太閤殿下は衆道の嗜みがなくてな」

「それは存じ上げませんでした」

「一丁前に顔の造形だけはきれいでな、ああ外に余り出ず筆ばかり動かしていた男だから年を取っても余り日に焼けず青白い顔のままだったが、却ってそれが見目形を良くしていた。もし太閤殿下に衆道の嗜みがあったら身も心も蕩かされていたであろうな、ああ恐ろしや恐ろしや」

「申し訳ありません、気分を害したのであれば謝ります」

「いやそんなつもりは全然ないが。気分を害したと言うのであれば、茶がどうかしたのかと言う事について話さんからだ」


 保宗は主の石田三成に対する深い憎悪をこれまでも総身で感じ取っていた。だからこそ主もその事に気付き自分がその三成と同じ真似をした事に気付きたくなくなり、だからこそ保宗から二度も聞かされた茶と言う言葉から話題を反らそうとしているのだろう。そう考えた保宗は必死に平身低頭したが、正則は全く表情を歪めていなかった。

「では申し上げます、おそらくは既知の話であり釈迦に説法であると思うのですが……」

「どんな話だ」

「先程、私が殿の前で粗相をしてしまい、鼻水を殿の茶に放り込んでしまいました。その茶を殿はお飲み干しになられた……」

「さっきも言っただろう、こんな事ぐらいで怒鳴っていては家臣が何人いても足らん。それだけの事だ」

「はい…しかし殿、かつてその、石田三成も…………」

「何、左近の鼻水でも入ったのか」

「いえ………家臣でもない、ただの同僚の大谷………吉継………の」


 保宗が大谷吉継の名前を絞り出すと同時に、正則の顔に青筋が走った。主の青筋に気力を奪われた保宗であったが、それでもなお必死の思いで気力を振り絞った口を開いた。


「大谷吉継がどうした」

「彼が業病に犯されていたと言う話は誠でしょうか…………」

「ああそうだったが」

「その彼が落とした鼻水、いや膿が茶に入った際、他の将たちが感染を恐れて口をつけなかったのに対し、石田三成は平然と…………飲みました…………」

「おい保宗!………保宗!誰かおらぬか!」




 保宗はそこまで言うと再び倒れ込んだ、体を無理矢理起こしていた気力がついに切れてしまったのである。

 一方で正則は保宗の言葉の中身に背を向けるかのように顔から青筋を消し、経歴にふさわしくかつ年齢にふさわしくない大声を上げて配下の者を呼び付けた。







 保宗が再び肉体を起こした時にはその体は布団にくるまれていた。保宗の傍らでは正則が心配そうな顔をぶら下げており、そして保宗が体を起こすや大丈夫かと先程にも負けない大声を上げた。

「私は……大丈夫です………」

「あんなぐったりと倒れ込んでいて大丈夫な物か。まだ若いからって油断する物ではないぞ、この付近の寒さは本当に半端ではないのだからな」

「お手数をおかけして、誠に申し訳ございません………おい、私は大丈夫だ。皆の者下がってよいぞ」

「良い訳あるか、あんなにぐったりしたお前を、と言うかあんなにぐったり倒れ込んだ人間を戦場以外で見たのは初めてだぞ。妻や忠勝の死んだ時だってあそこまでひどくはなかった。二人ともまだ生きたいと言う気力を残しながら死んだからな。だが先程のお前は本当に精根尽き果てたかのように崩れ落ちていた」


 正則の声色には一分の曇りもなかった、心底から自分の事を心配してくれている。そんな部下思いの主の心の傷を何故進んでえぐらなければならないのか、保宗は自分の行いを恥じた。


(我ながら何という口の軽さだ……調子に乗って浮かれ上がって、わざわざ主を傷付ける様な事ばかり言うとは、何と愚かな…………。もし石田三成と手を組んでいられたら豊臣家を守る事が出来たのに、徳川に天下を譲渡す事はなかったのにと。ああやって顔だけは笑っておいでであったが、内心では悔やんでおいでなのだろう……。なればこそ必死に気をお張りになられ、そして話をすり替えようとなされた……)


 豊臣秀吉がいた頃は、何だかんだありながらも共に歩む事が出来ていたはずだった石田三成。しかし秀吉がいなくなり内輪揉めを起こした結果、秀吉が均したはずの日本をまるごと家康に持って行かれてしまった。豊臣家を滅ぼしたのはお前だと言われても全く言い返す事の出来ない不忠であり、後ろ指を指されても耐える事しかできないのが今の正則の身の上だ。

 しかもその不忠の末路が信州の山奥での二万石と言う捨扶持同然の禄高に成り下がっていると来れば、それは最早愚かと言う言葉すら不足な滑稽さであった。見ている分には面白いが、当事者としてはあらゆる意味でたまった物ではない。主君の心持ちを慮って接すべき家臣らしからぬ振る舞いであったと保宗は後悔しきりであった。


「申し訳ございませぬ!殿の心をえぐる様な物言いを繰り返し、家臣としてあるまじき振る舞いでした。どうかお許しを……!」

「何を勘違いしている、わしはお前の物言いで少しも傷付いてなどいないぞ」


 保宗は正則に抱きつき、目に涙を浮かべながら必死に許しを乞うた。

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