福島正則の没落
関ヶ原の戦の後、正則は郷土である尾張から遠く離れた安芸広島へと移された。石高は従前の二.五倍の五十万石、確かに福島と言う家は大きくなった。
黒田も、細川も倍以上の大きさの家になった。だが世の中、どこかが大きくなればどこかが小さくなる物である。
宇喜多、長宗我部、立花、小西は潰され、上杉、毛利、佐竹は領国を大幅に削られた。それはまあ、敗軍の将の宿命であり仕方のない事であっただろう。だが敗軍の将が率いていた家でもないのに戦前より一挙に小さくなった家が一つあった。
「まあ、九つの秀頼君に太閤殿下の真似をしろと言っても無理であろう。真似ができるようになるまでの預かりと言う事だ」
「まあ、そういう事だな」
「であろう?」
正則は本気でそう言っていたし、そう思っていた。此度の戦はあくまでも三成以下豊臣家の害悪を成す連中を排除しただけであり、豊臣家の天下は揺るぎようがない物だと信じ込んでいた。
忠興が相槌を打った事に有頂天になった正則であったが、この時すでに長政や加藤嘉明はおろか忠興さえも正則を半ば見放していた。
(………これが東軍の中軸だった男であり、これから豊臣家の中軸になろうとする男か。長年の付き合いでその性分は分かっているつもりだったが、ここまで劣化しているとは思わなんだわ……………今の豊臣家に天下人の資格などないぞ。それで秀頼君が成人するのが十七としてあと八年……その時には内大臣殿の跡目、秀忠殿は三十になっている。徳川の舵取りを勤めるのに全く不足ない年齢だぞ)
忠興が三成に対して抱いていた憎悪の大半は、あくまでも愛する妻の玉を殺された事にあった。二二二万石から六十五万石までに領国を削られた豊臣家を、忠興はもう天下人だとは思っていなかった。自分と正則の領国の合計の三分の二の石高でしかない家を天下人と仰げなど土台無理と言う物である。
そして徳川家は戦勝軍の大将と言う事もあり、領国が二五〇万石から四〇〇万石までに膨れ上がっていた。豊臣家の六倍以上、福島・加藤嘉明・加藤清正・細川・黒田を合わせてもまだ倍の差がある。そんな家が、秀頼が成人した暁にはいわかりましたと豊臣家を元の二二二万石に戻したらどうなるか。仮に徳川が全部受け持つとすれば、徳川家は百五十七万石の領国を失う事になる。
その一時的にせよ増えた領国を失うとなれば徳川家内部の反発は半端ではない物になるだろうし、それに徳川の名によって新たに召し抱えまたは禄を与えた人間を踏み躙る事にもなる。
豊臣家に対する誠意を見せると言う得以上に、徳川家の損が大きすぎる。それが分からない家康ではない。では領国を増やさなければ良かったのではと言う話になるが、組下である福島やら黒田やらが大幅に領国を拡大できたのに総大将の徳川が現状維持では徳川家内部はおろか世間さえ納得しないだろう。
(いくら当主が九つとは言え、あの争乱を治める事は不可能ではなかったはずだ。なのに奥方様は何もしなかった。北政所様が君臨していればまだともかくな……)
秀吉死後の大坂城は、秀頼の母である茶々が実質独裁政権を築いていた。もし茶々が自ら手形を切るなり朝廷に働きかけを行うなりすれば、関ヶ原の大戦を止める事が出来たかも知れない。まあ無位ではないが無官の茶々が呼び掛けても朝廷は動かなかっただろうが、従一位の位を持つ北政所こと、秀吉の正妻であるおねならば可能だったろう。
だがだが茶々は北政所を嫌い、権力の中枢から放り出してしまった。当主を失い、後継者が幼い以上残された者たちが一致団結しなければ家を守る事など出来ないと言うのに、家臣も家族も相争っていたのだ。家康が豊臣家を見放し、自らの手で世を治めようとしたのも全く無理からぬ事だった。豊臣家が百五十七万石もの減知を受けたのに対しほとんど誰も文句を言わなかったのは、内輪揉めを繰り返していてばかりではこうなるのも仕方がないと言う思いがあったからである、自分たちも当事者でありながら。その事がわかっていないのは茶々とその取り巻き、そして福島正則だけと言っても過言ではなかった。
※※※※※※※※※
「危機感を感じなかったのですか?」
「それは無論、感じたわ。されど」
碁盤を見つめる正則の目には在りし日の殺気が蘇っていた。
「ああ、気のせいだと思っていた。温厚、律儀で名高い人間である徳川殿の事だ、いつまでも握りっぱなしにしておくような不遜な真似をしないだろうと思っていた」
「見事なまでの信仰ですね」
「随分な物言いだな、否定できんが」
家康が血気にはやって武田信玄にあしらわれた三方ヶ原の戦いが起こった時、正則は十三歳であった。もちろん正則は詳細を伝聞でしか知らないし、それ以前の家康がどういう人間であったかについてはもっと知らない。
だがその大敗以来家康が慎重の上に慎重を重ねる様な性格に変貌した事だけは間違いのない事実である、そして正則はそういう家康しか知らない。狸親父とか言われていた事は知っていたが、戦国乱世なんてみんなそうなる物であろうと気にしていなかった。
「それで見事に化かされたのですか」
「ああ。全ての人間が化かされていた。わしだけではない、この国全ての人間がな」
受けに徹する保宗の目が再び曇った事に気付く事なく、正則は更に目を輝かせながら攻めにかかった。
「事ここに至っては仕方がないとは言え、黒石を全部殺す気ですか」
「他に勝つ術はあるまい」
「そうですね、見込みは希薄とは言え他に勝つ術はありませんからね」
「勝ち目が一分でもあれば、そこに賭けるのが男と言う物であろう」
確かに真理ではある、だがそれをやらなかった人間が言っても説得力がない。正則は自分の言動の愚かさに気付いていないのであろうか、それとも気付いていて自嘲しているのであろうか。後者だと思いたかった保宗だったが、その顔付きからはどうしても前者にしか思えて来なかった。
※※※※※※※※※
関ヶ原から二年後、おねの甥である小早川秀秋が突然死に、そして正則の妻も難産の末亡くなった。
その時から、豊臣家は目に見えて崩れ始めた。
まずその翌年、家康は江戸に幕府を作った。源頼朝、足利尊氏以来武家としては三人目であり、武家の頂点が自らである事を誇示するにふさわしい行いである。そして家康はわずか二年で息子の秀忠にその位を譲渡した。
これこそ武家の頂点は徳川家の物であると公言したも同然の行為であり、豊臣家を全く蔑ろにした行いである。
この事に対し、豊臣家は表立って何を言う事もなく見過ごしていた。
秀吉の従兄弟である正則もしかりである。
座っているだけで天下人の座を維持できるのならば誰も苦労はしない。天下を統べる家にふさわしい事を成してこそ、世間は天下人であると認めるのだ。鎌倉幕府の執権であり事実上の天下人であった北条氏が滅んだのは、承久の乱の時七ヶ国程度であった知行国が末期にはほぼ全国の半分近くを占めると言う独裁体制と化していた事が原因であり、足利将軍家も強権的な政治で幕府の威を見せていた六代将軍足利義教が暗殺されその息子である八代将軍義政が政治に興味を持たず、その結果十一年における応仁の乱を引き起こして完全に天下人としての地位を失った。
そして豊臣家もまた、同じように天下人としての地位を己が失策によって失っていた。秀吉は百年以上にわたる戦乱で民が疲れていた事を解せず朝鮮半島に向けて戦の為の戦を行い更に将兵を疲弊させ、そして我が子の秀頼を後継者にするために甥である秀次の一族を自分の手で殺めた。
そして秀吉の後を託されたのが七歳の秀頼では才覚の多寡とか以前に天下の舵取りを行うなど無理である。そして家康は鎌倉を落としながら足利尊氏に敗れた新田義貞や、応仁の乱で力と信用を磨り減らし切ってしまった細川や山名の愚を犯す男ではなかった。時をかけて徳川家こそが天下人である事をゆっくりと世間に浸透させ、準備が整い次第豊臣家を滅そうと考える事が出来た男であった。
家康が幕府を立ち上げてから十年の間に、秀吉の又従兄弟であり正則の親友であった加藤清正は死に、そして利家の息子で徳川家を除いて唯一百万石を越える石高を持っていた前田利長も死んだ。
だが、家康は死ななかった。豊臣家を守らんとする者が次々と泉下の住人になって行く中、家康は現世にしがみ付いて豊臣家の滅亡と真の天下泰平の到来を願っていた。
そして関ヶ原から十四年後、家康はついに動いた。時に七十三歳になっていたその体を震わせながら、大坂城の豊臣秀頼を滅ぼそうと兵を上げたのである。そして事ここに至っても、福島正則は動かなかった。正確に言えば江戸の留守居に回されていたのであったが、それでもなお全く手が出なかった訳でもなかった。
いくら江戸と言う徳川の本拠地にとどめ置かれているとは言え、その気になれば兵を動かして暴れる事も不可能ではなかった。もちろん後先云々と言う点では問題はあったが、家康が大坂城を落とせば豊臣家が消えてなくなると言うのに、豊臣家恩顧の大名を気取っている人間が何もしないなど怠惰と言う次元を通り越した愚行である。
ましてや一度目の大坂城攻めは失敗に終わり、家康は一旦江戸に引き返したのである。徳川の威は落ちたとばかりに、反旗を翻す事は決して不可能ではなかったはずだ。
だが正則は安芸に戻されたまま結局何もせず、そしてそのまままた江戸に呼び戻されて留守居役を命じられ、そして家康の二度目の出兵により大坂落城、豊臣家滅亡の報を江戸で聞く事になった。
もしこの時、正則が全ての後先を投げ捨てて大坂城に全軍で入っていたらどうなっていたであろうか。
逆転できるとか言う次元の段階にはならなかっただろうにせよ、少しは家康の心胆を寒からしめることができたかも知れない。現に、正則よりはるかに寡兵であったはずの真田信繁は家康の首まであわやと言う所までたどり着いていた。それに対して正則がやった事と言えば、保宗の父である足立保茂を豊臣軍に討たせただけである。全く徳川の忠臣の成し様であり、豊臣に仇なす軍の成し様である。
それからわずか四年後、家康の息子秀忠により居城の無断改築と言う些事を咎められて正則は五十万石の領国を召し上げられ、川中島五万石に落とされた。
そして更に翌年、長男忠勝の死に心痛を覚えた正則は三万石近くを幕府に返上している。
その結果今の正則の禄高は秀吉からもらった時の十分の一近くになってしまった。豊臣家を捨てて徳川家に尽くしたにしてもあまりにも酷い話であり、そして何より正則には豊臣家を捨てる気持ちなど皆目なかったのだ。
「その事を見破られていたのか否か、私には及びも付きませんが、見破られていたと殿はお考えなのですか」
「ああ見破られていただろうな、だからこそわしは逆らうのをやめた。どんなに細い蔦の様になってしまっても豊臣の血筋を残す責務がある、だからこそこうした」
「囲碁と言うのは残酷です、半目負けであろうが何十何目負けであろうが中押しであろうが負けは負け、逆も然りです」
保宗の大石を殺せなければ負けの正則は必死に攻めかかる、しかし保宗は丁重に正則の責めを受け続け、ついに生きを確定させた。
「もはやこれまででしょう」
「うるさい、まだわしの元の陣を奪い返せば」
「おやまあ…………それは気が付きませんでした」
それでもなお正則は闘志を失っていないぞと言わんばかりに、先程保宗に奪われた自分の陣に向けて攻め手を放った。保宗もしまったとばかりに慌て気味に受けに回った。
と言っても無理の上に無理を重ねた着手であり、これから保宗が十手以上連続で悪手を打たない限り正則が攻め潰せる見込みはなかった。
「どのように見込みが薄くなろうと戦いを諦めぬ、それこそ武士ですか」
「ふん、次にお前は潔く敗北を認めるのも武士のたしなみと言う物だ、とでも言いたいのであろう」
「その様な事は申しませぬ、一時期九州まで落ち延びてから天下をお取りになられた足利尊氏公の事を思い出しましてな」
「そうか、でもその時はあちこちに味方を残し南朝の襲撃を抑えたからな。今の黒は孤立無援だ。でも戦いを挑まない限り負けるしかない、お前がさっき言った通り半目負けでも百目負けでも負けは負け、それならお前が悪手を討ち続ける運命にかけても良いではないか」
「全くその通りです」
「例え、無駄に終わってもな…………」
戦いにおいて相手の失態に期待する事ほど空しい事はない。だが、それしか勝ち目がないとなれば話は別である。しかし現実は容赦のない物で、正則の最後のお願いと言うべき攻撃も全て受け止められてしまい、いよいよ手がなくなってしまった。
「申し訳ありませんが、さすがに最早……」
「そうか……………?」
それでも正則はまだ戦うと言わんばかりに自分の攻め石の眼形を確保しようと言わんばかりに石を打ち込んだ。しかしそれをやった所で四十目以上の差があり、どうにもなる物でもない。
「ふん、わかった、投了だ」
正則は不承不承と言わんばかりに投了を宣言、頭を下げた。
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