関ヶ原の戦い

 正則の従兄弟であり、天下人であり、主である豊臣秀吉が亡くなったのは今から二十四年も前の事である。跡目の秀頼はまだ六つと幼く、支える者たちがしっかりしていなければ豊臣家の世を保つ事は困難であった。


 正則は豊臣家の武を担っていた人物であり、多くの武闘派の家臣たちが正則を慕っていた。一方で豊臣家の文を担っていたのが、石田三成である。

 正則と三成は小姓の時代から秀吉の家臣であったと言う筋金入りの豊臣譜代であり、年も一つしか違わない事から同僚であり仲間であった。

 だからこそ秀吉も、正則にも三成にも両名の生まれ故郷で、同じ二十万石の領国を与えた。だがこの公平な措置は、正則には受け入れがたかった。戦場において命懸けで戦って来た自分と、後ろで紙と筆と向かい合っているばかりの三成の価値が同じとはどういう事なのか。

 それでも軍才を発揮していればまだ素直にもなれたが、北条氏を攻撃した際に一万五千の兵を抱えながら五百の兵しかいない忍城を落とせなかったのが三成と言う男であった。


 しかし秀吉が決めた知行割とあっては文句も言えず、その分だけ正則の心の中に不満が鬱積して行った。そして正則はただの大名であり、三成は豊臣政権の文治を担う五奉行の筆頭であった。秀吉の盟友である前田利家ならばまだしも、幼い秀頼では権勢を握った三成を押しとどめる事は出来ない。豊臣家を好き勝手にされるのではないかと言う焦燥が正則を襲い、そしてそれがこれまで溜まっていた三成に対する個人的な嫌悪感と相まって一気に三成憎しの感情が高まった。



 そして秀吉の死から七ヶ月後、利家が死ぬとその不満は一気に爆発し、正則は利家の死からすぐ、自分に親しい大名たちをかき集めて京の三成邸を襲撃した。完全な私闘であり、許される事ではない。

 だが正則には何のためらいもなかった。


(何とかして三成を取り除かなければ、豊臣家は三成に支配されてしまう。太閤殿下が作り上げた豊臣家、いやこの国が壊されてしまう)


 自分の命など惜しくなかった。これまで数えきれない量の矢玉をくぐって来た、生か死かの戦場を渡り歩いてきた経験がある。古今、支配者と言うのはその手を血で汚して権力を勝ち取って来た。

 源頼朝だって、足利尊氏だって、天皇家だって中大兄皇子こと天智天皇は自らの手で蘇我入鹿を切り殺して天皇家の権威を取り戻したのだ。奸臣を殺して何が悪い、これまでと同じようにするまでだと言う思いが強く心を支配していた。結果的にその襲撃は失敗に終わったが、いよいよ両名の不仲は決定的な物になって来た。


「あんな男、顔も見たくないわ!」


 正則は誰から構わず、そんな言葉を吐き回っていた。まごう事なき本心であった。


 そしてその二人の仲を決定的に裂いたのは、徳川家康であった。と言っても、家康本人が何か仕掛けた訳ではない。ある程度煽り立てる様な事はしたであっただろうが、家康にしてみれば思いもよらない所で、家康自身をきっかけとして二人は決定的に分裂した。


 徳川家康、時に五十七歳。領国は関東六カ国で二四四万石。五大老の他の四人の内宇喜多秀家が二十五歳で五十七万石、前田利長が三十七歳で七十二万石、上杉景勝・毛利輝元が四十前後で百万石程度なのと比べると明らかに格が違う。いやそれどころか、豊臣家の石入りは二二二万石であり、徳川家は豊臣家よりもある意味強大と言えたのだ。


 正則にとって家康は利家亡き後の豊臣家を支える重鎮であったが、三成にとっては豊臣家の存在を脅かす大敵であった。豊臣家の譜代であり、忠臣であり、中軸であるはずの両名の考え方がまるっきり分裂していては話にならない。


 その状況を危惧したのか、それとも天下取りの好機と捉えたのかはわからないが、三成の危惧通り家康は動き出し、正則たちに接近した。豊臣家を除けば誰よりも強大かつ貫禄ある勢力である徳川家の後押しが、正則たちに力を与えた。その一方で三成は強大な勢力を持った徳川を恐れ、家康を排除するべく動き出すようになった。

 もちろんその動きは、正則と三成の対立をより深刻化させた。


 その結果、小田原城で北条氏を屈服させてから僅か十年しか経たない内にまた国内で大戦が始まってしまった。秀吉の生涯を賭けて成し遂げて来た天下統一と言う大業は、秀吉の忠臣を気取る者たちの手によって破られたのである。この時、その事に気付いていた人間がどれだけいただろうか。少なくとも家康は気付いていた、三成が気付いていたかどうかは分からない。だが正則は全く気付いていなかった。


「豊臣家の逆臣である石田三成とそれに与する連中を排除し、秀頼様の天下を家康らと共に盛り立てる」

 それがその戦役における福島正則の思案の全てであり、三成の抱える豊臣家危うしと言う焦燥は全く届いていなかった。




「ったく、どんな甘い言葉で釣ったのか、知りたくもあり知りたくもなしだな」


 上杉景勝、宇喜多秀家、毛利輝元。長宗我部盛親、真田昌幸、島津義弘、立花宗茂、鍋島勝茂、佐竹義宣。小西行長、大谷吉継、長束正家と言った三成の取り巻き連中のみならずそこまでの人間が三成に味方していると言う事実を、正則は認めたくなかった。


 人間、どんなに思いが強くても一人きりでその思いを抱えるのは大変である。自分の好きな人間を、他の人間にも自分と同じように好いてもらいたい。それは人間として当然の理屈であろう。

 だがそれと同時に、自分の憎んでいる相手を一緒に憎んでいてもらいたいと言うのも偽らざる理屈である。ましてや愛と言う前向きな思いではなく、憎しみと言う後ろ向きな思いを抱いている事を他者にぶつけて受け入れられる見込みは薄い。それだけに、愛以上に憎しみを共有する仲間を求める力は強くなる。


 自分が憎んでいる相手には味方が一人もいてはならず、森羅万象全てから憎まれ嫌われ忌まれ呪われ、そして苦しみもがくべきである。余りにも暗く歪んだ思考であるが、これと同じ感情をその時の正則が抱いていなかったと誰が言えるだろうか。正則のそういう醜く濃縮された三成に対しての憎悪は、本人に隠す気がなかった事もありこの国のほぼ全ての人間に伝わっていた。

 そしてそんな正則の憎悪を、真に共有してくれる人間はほとんどいなかった。いたとすれば細川忠興だが、彼の三成に対しての憎悪は政治的と言うより寵愛していた妻を三成に殺された事にあり、正則の抱いていた憎悪とは質が違った。

 第一に徳川家康はこの正則の有様を見て豊臣家に明日はないと判断して天下取りに乗り出したのであり、豊臣家の同僚たちにもまた同じ感情を抱いていた者も多かった。やがて来る徳川の時代において自らの家を生き残らせるために家康の元に付いた、豊臣家や正則がどうなろうが知った事ではない、そう考えている者も多かった。正則はそういう風に回りが冷め切っていた事など全く気付く事はなく、ほぼ自分一人の中で豊臣家の永遠の天下と逆賊三成を打倒する正義の戦と言う夢の中にいた。


「本当に大丈夫なのだろうな!」

「当たり前だ、大丈夫に決まっているからこそ内大臣殿はこうやって布陣しているのだ。大丈夫でないなら今頃お前の居城である清州辺りに留まっている」

「まあ、そうだな。あの男に人望なんぞある訳がないからな」

「とにかくだ市松、この戦に勝たねば福島も黒田もないぞ。内大臣殿に付く事を決めた以上、我々は腹を括るしかないのだ」

「そうだな吉兵衛、あの忌々しい三成を倒し、豊臣家の天下を永久の物とするのだ」

「そうだ、何としてもあの三成めを滅さなければな」

「吉兵衛よ、明日の豊臣家と秀頼君のために、この戦何としても勝つぞ!」


 徳川の主力である秀忠軍は真田昌幸により足止めされ、関ヶ原にたどりついた東軍は八万前後、一方で西軍は十万少々。その上に家康の本陣である桃配山の後方には毛利秀元と吉川広家、横の松尾山には小早川秀秋が控えている。こんな状況で真正面の石田三成率いる本隊と戦おうとするなど無謀以外の何でもない。

 夢の中にいながらもその点では辛うじて正則の理性は生きていたとも言える。そして幼馴染であり盟友でもある黒田長政は、正則にとっては気持ちを共有できる存在であった。だが長政の方は、他の将たちと同じように正則をどこか見放していた。


(市松……俺はお前を親友だと思っている。だがな、もし親友であるのならば俺の心の内にも気付いてもらいたいのだがな)


 福島も黒田もない、家康に付くと決めた、三成を滅する。

 長政が言ったのはそんな言葉ばかりで、豊臣家や秀頼を守るとは一言も言っていない。長政も、豊臣家の天下がこの一戦により終わりを告げるであろう事を予感していたのだ。

 家康に付いたと言うのはそういう事だぞと正則に認識させる為、そして割り切ってもらって全力を振るってもらう為。言葉を選びながら、豊臣家の忠臣を気取って憚らない正則にあえてその事を伝えようとした長政の親友としての配慮は、正則に届く事はなかった。


(確かに三成の事は憎い、だが三成が果たして豊臣家を壟断できるだろうか?上杉、毛利、宇喜多、島津、佐竹……そういう大勢力を無視しての独裁など不可能だろうに。取り分け宇喜多なんて領国は大坂城のすぐ近くの備前・美作の上に今の当主である秀家は太閤殿下の猶子……そんな存在を軽んじれば即三成の首が飛ぶ。結局は彼らのご機嫌をうかがいながら豊臣家の忠臣様として過ごすしかできないだろう。それがわからん程の愚物を太閤殿下が取り立てるはずもないしな……)


 長政の父如水は三成の讒言により、出家と隠居に追い込まれている。その点では長政が三成を憎む理由は十分にあった、だからこそ正則は長政を信頼したのだが、長政はその憎しみを越えて物事を見る事が出来たのに対し、正則は自分と同じように長政もまた三成への憎しみで全身一杯になっていると勝手に思い込んでいたのである。好き嫌いとか言う以前に、才能は評価せざるを得なかった。


(俺の力でこの包囲網は骨抜きにしてやったつもりだが、流れ次第で息を吹き返すかもしれん。後は徳川殿の采配を、三成が越えていない事を祈るだけだ)


 長政は戦前、小早川秀秋や吉川広家に家康に味方すれば悪いようにはしない旨言い含め、実際色よい返事を受け取っていた。秀秋は積極的に兵を興して三成を討ち、広家は何もせず立ちすくんで秀元や長宗我部と言った連中を足止めさせる。

 小早川軍は配下の小大名を含めて二万、毛利軍は二万五千。横と後ろの危機を失くせば数的には八万対五万、いや十万対三万、こちらが有利になるはずだ。しかしどんなに手を尽くした結果だとは言え、一旦身を置いた軍から離反するような真似を成す人間が、腰が据わっているなどとはとても言えた物ではない。一たび戦況が悪くなれば、知った事かと言わんばかりに自分たちに牙を剝いて来る可能性がある。



 いざ始まってみると、こちらの狙い通り小早川も吉川も西軍に与しなかったが、それでもなお西軍は互角かそれ以上に戦っていた。この状況が長引けば戦がどう転ぶかわからない、長政がそんな焦燥を胸の内に抱える中、正則は平然としていた。


「ふん、ったくどこまでも手を焼かせてくれる輩だ。まあいずれ木端微塵に砕かれ

るのだろうがな」


 そのような、自信と呼ぶには汚れすぎている感情を抱きながら正則はほくそ笑んでいた。その顔にはかつての同僚に対する敬意はなく、ただ憎む相手の破滅を願う下賤な悪意だけが滾っていた。



「まったく、てこずらせおって。だが、悪い奴は精一杯あがいて醜態をさらすべきだ。その点では、ようやくこちらの期待に応えてくれたとも言える。もはや戦の帰趨は目に見えた。全軍進め、手柄は取り放題だ!」




 そして秀秋の裏切りにより西軍が総崩れになると正則はだらしなく笑み崩れた。その顔には数多の戦場を駆け抜けて来た武将としての威厳もなければ、齢四十と言う年月にふさわしい重みさえない。


 流石に気が付いて慌てて顔を引き締めたものの、その時の正則の喜びは、秀吉が天下統一を決めた小田原の時よりも、その第一歩となった山崎の時よりも大きかった。














「佐渡守、何故あんな事を聞いた?」

「何故と言われても、私は私なりにすべき事をしようとしただけですが」

「黙れ、貴様のせいで我々がどうなったと思っている?」


 戦いの後、大坂城下で正則は佐渡守こと藤堂高虎に絡んでいた。田中吉政によって捕縛された三成は大坂城下で晒し者にされていたが、その三成に対して高虎は自分の軍のどこが悪かったのか聞いていた。

 それに対し三成は極めて真摯に鉄砲隊の身分が活躍に比して低かった旨を述べ、高虎は丁重に頭を下げながら良き言葉を受け取った旨述べたのである。

 この高虎の、自分と同じように三成を蔑まず、むしろ敬意を払って接している様が正則の気に障ったのである。実際、この問答によって東軍内部の空気が若干濁ったのは確かだが、取り上げて責め立てる様な問題であっただろうか。


「どこまでも往生際の悪い男だ。太閤殿下を舌先三寸でたぶらかした輩にふさわしい末口上よ」


 三成が処刑の間際に柿を勧められ、体に悪いと断ったと言う話を聞いた正則は辺り構わず、いやむしろ辺りに聞かせるかのように大声で笑った。石田三成と言う人間の臆病ぶりを喧伝するが為だけに。

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