福島正則
@wizard-T
囲碁
「もう少し厚手のお召し物を」
福島正則はその申し出に首を横に振りながら、六十年余りの人生で滅多に見た事のない九月の雪に体を震わせつつ庭を眺めていた。
「ここはこんなにも早く雪が積もる物なのだな…」
「恐れながら……」
「わかっている、去年も同じ事を言ったではないかと言いたいのだろう?」
「はい……」
正則は自分の老いを嘆く言葉を口に出す事すらせず、深く溜め息を吐いた。
「それで今年の石高は」
「殿のお陰で増大しております」
「それで民百姓は」
「殿に懐いております」
「本当にか」
「当たり前です、嘘を申し述べてどうしようと言うのです」
足立保宗の申し訳なさそうな言葉にすまぬと言いながら正則は軽く頭を下げ、そして頭を上げると再び体を震わせた。
「雪を見ながら飲む茶も乙と言う物だ……なあ」
その間延びした言葉から、かつて戦場で鳴らした勇将の面影は感じられない。戦場を離れて二十年以上が経ち、すっかり殺気を失ったその表情からかつての福島正則を連想するのは困難だったろう。
その正則は茶を飲み干すとまっすぐ保宗の方を見据え、真剣な目と嫌らしく吊り上がった口角を並べながら口を開いた。
「時に、だ。その時が来た場合我々はどの程度の使者を寄越せばいいと思う?」
「使者って、さすがにそれは甘く見過ぎと言う物ではないですか」
「病とでも言う」
「仮病が露見したら仕舞いですよ」
保宗の仮病と言う言葉に対して正則は軽く自分の額に手を当て、わざとらしくふらついて見せた。
「この通りだからな、それに年と言う物がある」
「七十四まで戦場で過ごした人間がいた事をお忘れですか?」
「五十五ならば覚えているが」
「どんなお方ですかな」
「どんなお方って、ああお前は知らなかったな。悲しい事だ」
自分の半分ほどの人生しか生きていない家臣に対し、今度は双眸から哀れみの視線を放ちながら正則は首を横に傾けた。
「わしはそのお方の為に今の今まで手を血に染め続け戦い抜いて来たのだ。それが我が人生であった。この事を知らぬ者はこの国に一人もおらぬ。大体、この国が今戦乱を忘れようとしているのは一体どこの誰のお陰だ。その事を忘れる様な者は遅かれ早かれ全てを失う事になる、それが道理と言う物だろうに」
「道理ですか……しかし本当に道理を忘れているのか否か、それが問題です」
「忘れていないだろうな」
正則はそう言いながら視線を左側へとずらした。南向きに作られていたその部屋で、視線を真正面から左側に向けるとなれば当然東に向く事になる。その東へ向けられた目からは先程までの哀れみの色は消え今度は鋭さが頭をもたげていた。
「まさか……」
「まあな、忘れていなければこんな冬にやらんだろうな」
「先程も申し上げましたが、こんな時期にそんな大がかりな事をさせては民百姓の心が離れてしまいます。民百姓の声が離れれば我々が打撃を受け、更にその上に累が及びます。それがわからないような人間が上に立てる訳がありません」
「少し違うな、それがわからないような人間ばかりが上に立つと問題なのだ」
親が優秀だからと言って子が優秀とは限らない。逆もまた然りだが、戦国乱世において不出来な親を持ってしまった子がその才覚を発揮できるまでに家が無事である可能性は、不出来な子が優秀な親から受け継いだ家を滅ぼしてしまう可能性よりずっと低い。
「初代は当然傑物でなければ駄目だ、だが二代目は初代の名を背負わねばならない。と言いたいが、少なくとも先代の名を汚さない程度の存在であれば良いのかもしれない、三代目が有能であればの話だが。北条泰時しかり、足利義満しかり」
「では後北条は何ですか」
鎌倉幕府初代征夷大将軍・源頼朝の後を継いだ源頼家は放埓なやり方で御家人たちの不興を買い、征夷大将軍の座を継いでわずか一年で放逐、暗殺された。その頼家の後継ぎとなった実朝は京の文人たちとの交流を図り、彼なりのやり方で必死に源氏の地位回復を狙ったが、時既に遅く北条政子・義時姉弟の網にはまって散り、源氏の政権はわずか三代、二十年で終わりその後の鎌倉幕府における将軍の地位は全く名目的なそれとなった。
一方で幕府の事実上最高職となった執権は初代である北条時政は娘政子との相克の末追放されたが、二代目の義時と三代目の泰時が揃って有能だった事もありその後百年近く政権を保ち続けた。
室町幕府も初代の足利尊氏は幕府創設後もごたごたを起こし二代目の足利義詮は目立った功績を残さないまま在位九年でこの世を去ったが、三代目の義満が傑物であったため何だかんだありながら二百三十年以上の歴史を保って来た。
一方で、三代目の氏康が高い才覚を持っていたはずの後北条氏は氏康の死から二十年で滅亡した。
「北条氏康は名君ではなかったのだ、正確に言えば内政と防衛には優れていたが攻撃に関しては弱かった。北条泰時は鎌倉幕府軍の先手大将として真っ先に京に入り、足利義満は増長していた土岐氏や山名氏を次々と叩いた。氏康にそんな戦果があるか?」
「河越の戦いをご存じないと?」
「あれはある程度の地位を掴む前の話だ、泰時は最高権力者である執権の長男であり義満は既に征夷大将軍だった。一方氏康はかなり追い詰められていた。その河越の戦いによってようやく立ち直ってからめぼしい功績があったか?」
「…………確かに」
揚げ足取りその物になって来た主君の物言いに、保宗は逆らわず言葉少なに頷いた。
「年寄りには年寄りなりに言える事もある、若い連中に教えてやらなければならん。繰り言だと受け取られようが知った事ではないが、わしはそれでも言いたいのだよ」
「それは……忠言と取るか否かはそれがし次第と言う事ですか?」
「まあ、そういう事だ。愚痴と取ろうが繰り言と取ろうがわしの知った事ではない。忠言と取ってくれることを期待する程図々しくもないしな、いや正しく言えば図々しくもなくなったしな」
「大変失礼ながら、昔は図々しかったみたいに聞こえますが」
「図々しくなければ務まらんよ、大将なんてな。味方だけで数百人、敵は何千人と殺して来たのだ。我々はその上にようやく立っているのだぞ」
「それは心得ております。されど」
「まあな、戦をする機会がないとなるとこんな物かもしれん。だがな、多くの人間の屍の上に立っている事を忘れたら駄目な事は変わらん」
死人に口なしと言う。されど、口に出せないだけでもある。そして、その口に出せないと言う事が問題でもある。
死んでしまった人間が何を考えていたのか、何を望んでいたのか、それは全て彼らの所業を見たり聞いたりした後世の人間が判断するより他ない。全く同じ人間が二人といない以上、同じ事象を完全に同じに捉える事は出来ない。どれだけ似ていたとしても、完全に同じと言う事にはならない。
「次の戦はいつ来ると思いますか?」
「わしが生きている間には来ない事は間違いないだろう。もし来たらそれは乱世のやり直しと言う名の大失敗だ。そんな真似をする必要がどこにある?」
「したい者もいるようですが」
「まあな、現状がひっくり返るのならばしたいだろう。だが今はひっくり返したくない勢力の方が圧倒的に強い」
「強いとか弱いとか言うより、疲れているのではありませんか。足利幕府の将軍継位戦争が始まったのはいつでしたっけ」
「何年前だったかな、確か百五十年前か」
「百五十年と言うと祖父の祖父のそのまた祖父ぐらいの間がありますよ。要するに都合七代も戦に明け暮れていたのです、いい加減飽きますよ」
「飽きる、か……すると昔の唐土の人間はよほど忍耐強いらしいな。周の東遷から延々五百年余り飽きずに戦いを続け、ようやく終わったと思ったらまた十数年で戦を始めて」
「我が国とは違いますな……」
保宗は心の中で溜め息を吐いた、目の前にいる男が七年前に死んだ自分の父を含め数多の人間が語って来た、この国に名を轟かせる猛将と同一人物なのかどうかわからなくなって来ていた。
(このお方とは生まれてからずっと付き合って来たが、正直皆が言う様な所には一度たりとも出くわした覚えがない。私の知る福島正則と言うのは、こんなこねてもしょうがないような理屈ばかりこねる人間でしかない。その事を他の者に言ったらどんな顔をされるだろうか、一番格好良い所を知らないのかと哀れまれるか、お前は一体どこを見ているのかと己が目を疑われるか、出鱈目を抜かすなと怒鳴られるか………どれにしても碌な事にならんだろうな)
自分が六十を越えた時、同じようになる物かどうか、それはわからない。だがこういう人間になりたいかなりたくないかと言われれば、なりたくなかった。その点については誰もが一致した意見だと保宗は思った。
「それで、今の所は戦も起きておりませんが、それがいつまで続くとお考えですか」
「さあな、わしが生きている内でない事は間違いないだろう。この平穏がいつまで続くのか、それは天しか知り得ない事だ」
「天ですか」
人事を尽くして天命を待つと言うが、その結果がこれでは余りにもやり切れない。実際問題、全員が人事を尽くした所で全員が幸福になれる天命が巡って来る訳ではないが、それにしても正則の人生と言うのはやり切れない物だった。
その余りにも悲しく辛い人生が正則の心をへし折ってしまったのかと思うと、家臣である保宗としては同情しない訳には行かない。
「碁でも打ちますか?」
「まあお前が打ちたいのであればな。だが遠慮をする必要はないぞ。しかしな、ここの雪って言う奴は怖い物だな、あっと言う間に降り積もって固まり、そして人馬の往来を阻む。こういう所で育った人間と言うのは強くなる物だろうな、やれやれ死ぬまで学びの糧と言うのは尽きぬ物だな」
尾張で生まれ育って来た正則にとって、信濃は近くて遠い国だった。もちろん尾張にも雪は降る、だが美濃との国境でもない限り、尾張の雪と言うのは正月の前後にほんの少し降って大地をわずかに白く染めるだけの存在であり、ここまで大っぴらに降り積もって往来を妨害する物だと生身で感じたのはここ最近の話である。
六十近くになってまだ学ぶ事があるのかと正則は軽く笑みを浮かべたが、その笑みには僅かに寂寥の念がこびり付いていた。
「殿はいつまで当主でおられるのですか?」
「さあな」
保宗の白石を置きながらの問いに、正則は軽く答えてすぐ黒石を置いた。
「お年と言う物がございます」
「まあ、そうだな。と言うよりな、まさか忘れている訳ではないだろうが、もうわしは福島家の当主ではないぞ。今の福島家の当主は正利でありわしはもうただの隠居だ」
「それはそうですが、当家における殿の存在は未だに大きな物がございます」
名目的には、正則は三年前に隠居していた。だが後継ぎであった忠勝が一年後に死に、忠勝の弟の正利が家督を継いでからまだ二年しか経っていない。二十二歳と言う年齢は幼すぎると言う事はないとは言え、父との四十と言う年齢差は無視できる物ではない。
「しかし殿」
「しかし何だ」
「その様に大事な石をお捨てなさってよろしいのですか」
保宗が溜め息を吐きながら碁盤に白石を叩き付けると、正則はしまったと言う顔をしながら頭に手をやった。
「そうか、そんな手があったか……」
「まあもっとも、まだ勝負がついた訳ではありません。最善手で返されたら負けるのは私ですよ」
「最善手か…お前はわしに勝って欲しいのか?」
「はい」
「遠慮をするな、もっと楽に勝てる手があるのならばそれを打て」
「申し訳ありません、私は碁打ちではないゆえ、これ以上の良き手はわかりませぬ」
「ふーん……」
正則が少考の後、保宗の攻撃から逃げ出すように黒石を置くと、保宗は再び溜め息を吐きながら白石を正則が守ったのと逆の方向に打ち付けた。
「…………なんだその顔は」
「殿はどうしてその石を守られたのです?私にとってはそちらの石などどうでも良くて、今打った石のある方を攻めるのが重要だったのです」
「ったく、何が碁打ちではないだ。最善手で返されたらとか自分の力が大した事がないように言っておいて」
「時におうかがいしますが」
「何だ」
右手に黒石を握ったまま声を荒げ始めた正則に対し、保宗は盤を見つめながら正則と対照的に穏やかな声色で語りかけた。
「殿が一万の兵を抱える将として戦場に立ったとし、そして敵も同じ一万の兵を率いていたとします。その時、他の全員を置き去りにして一人戦場に突進しますか」
「そんな事をする訳がないだろう、大将であるわしが死んだら軍は壊滅だ」
「それはそうです。では兵士たちを置き去りにして戦場から逃げ出しますか」
「たわけ、そんな事をしたらわしの信用は地に落ちるぞ。その様な事は童でも分かるわ」
「その通りです、では勝つためにはどうしたら良いと思います?」
「それは、真正面からぶつかり合って…いや相手が自分たちより弱いとは限らんし…二、三千ほどで囮部隊を組織して相手を誘い込むか…でもそれができる地形かどうかわからんし、それに引っかかる相手であると言う保証もないし…」
「そういう事です」
正則はあっと言いながら膝を叩き、深く溜め息を吐きながらあわてて守りの手を打ったが、保宗は間髪を入れず攻めかかって来た。
「童でも分かる悪手は山とありますが、好手と言うのは少ない物です」
「なるほどな」
「山とある手の中でどれが最善手か見極めるのは、いかに道を極めようとも困難な物です。悪手を見つけるのは平易なのですがね。我々にとっての最善手でも碁の道を極めし者から見れば凡着であり、我々には勝負がついたように見える局面でもまだ逆転可能だと言う判断を下すかもしれません。逆もまたしかりですが」
「しかしな、そう口舌にばかり執着して良い物かな」
正則は口元を緩めながらこれまでと全く違う方向、白の地の方に向けて黒石を打ちこんだ。こちらを攻める事ばかり考えて自分が攻められる事は考えていなかっただろうと言わんばかりの正則の面相を保宗はじっと眺め、それからしばらくして自分の地への正則の攻撃を無視して正則の石を取りにかかった。
それからと言う物、正則も保宗も自分たちの陣地の守りを顧みる事なく相手の石を攻めにかかり、結局二人して相手の石を殺す事に成功した。
「それで、このまま続けますか?」
「当たり前だろう、どっちもお互いの陣地を失ったのだ。失った同士まだまだこれからではないか」
「いえ、私とした事が配慮が足りず不覚を取ってしまいました」
「遠慮をするなと言ったであろう」
「遠慮はしておりませんが、この状態でよろしいのですか?」
「よろしいに決まっているだろう。どっちもお互いの陣地を奪った事は同じ………」
そこまで言った所で正則は目を剝いた。保宗の方が正則より早く相手の石を取り上げる事ができ、かつその後の地が明らかに正則より多いのだ。しかも残った石の働きを見るとこれまた白石の方が強く、黒石は働きが重複していて重たい。
「………まだ勝ち目がないと言う訳でもあるまい」
「それはそうでしょう、所詮素人の碁ですから」
正則はわずかに残っていた茶を飲み干して気息を整えると、覚悟を決めるしかないと言わんばかりに保宗の石を取り上げた。しかしお互いに相手の地の半分の石を取り合うと、残る半分の形の違いがより露わになった。
「その残った石にどれだけの価値があるのですか」
「ここはわしの第一手だぞ、それを見捨ててどうする」
正則の第一手である星の近くに打たれた石は保宗の当たりから逃げた結果凸状に並んでいた。陣笠と言う愚形の代名詞であり、守る価値のない石であった。にも関わらず正則はその陣笠を守る手を打ち、保宗の陣の弱点を攻める機会を逸していた。
「このまま行きますと私が十目ぐらい勝ちますよ」
「何だと……なればこうするしかあるまい」
このままでは負けが確実だ、保宗にそう告げられた正則は保宗の本陣に向けて黒石を叩き付けた。
「なるほど、それがおそらくは最善手でしょう。勝ち目は薄いにせよ強引にでも戦いを仕掛け、万が一決まればよし、駄目ならば今度こそ投げるまでです」
「強引にでも、か」
「囲碁もまた戦の一つの形です。戦において相手の失策を期待するのは無謀ですがそれ以外に勝ちがないとなれば仕方がないでしょう」
「相手の失策を期待しての突撃、か……無謀だな」
「いや、相手が失策を犯して自滅するとわかっていれば無謀ではないでしょう。もっともそれは自滅と言うより、自分たちが巡らせた罠にはまり込ませたと言うのが正しいのかもしれませんが」
「罠か…………」
罠と言う言葉を聞かされた途端、最後の勝負を仕掛けんと意気上がっていたはずの正則の顔から、あからさまな程に覇気が消えた。
「殿、この盤面は罠ではありませんぞ」
「…………保宗よ、運命が人間一人の力でどうにかなる物か?わし一人がどうしようと、どっちみち結末は変わらん物なのだったのだ」
「たらればを抜かす趣味はありませんが、もし殿にもっと良い手を打たれていたら私は既に負けていたかもしれませぬぞ」
「もっと良い手か……わしとして最善手を打ち続けたつもりだぞ」
正則が軽く溜め息を吐きながら保宗の本陣へ黒石を打ち込むと、保宗は間髪を入れず眼形を確保した。
「今の今までずっと、ですか」
「ああ」
正則は生きが確定しかかった保宗本陣を力なく眺めながら、この二十年余りを振り返っていた。
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