なるほど、神は確かにいる

 その瞬間、脚と背中が軽くなった。そしてあれほどまで鳴り響いていた歓声がすっと消え、走る音さえしなくなった。




 当然、背中と脚が軽くなれば速く走れる。あれほどまでの事をやって来たのに、またいける気がして来る。


「残り300m!ビーアワスタートまだ先頭だ!ギフトトゥゴッドは二番手まで上がって来たがまだ六馬身ある!」


 次に耳に入り込んで来たのはこんな実況の音声だった。そしてそれにより私は現状を知った。


 ギフトトゥゴッドが追い上げて来る。当たり前の事だ。だがこの時の私には、単勝一七〇円の、四戦四勝の、GⅠ馬が追いかけてきていると言う恐怖はなかった。


 そんな肩書きを取り払ってしまえばただの馬でしかなかったギフトトゥゴッドに対する恐怖心を、持てと言われても持てなかった。だから、まるで萎縮できない。

 しないのではなく、できない。別にしろと言われているわけでもないし、仮にしろと言われてもする理由もない事をする理由もなかった。



「残り200m、まだ先頭だ!まだ先頭だ!ビーアワスタート!まだ四馬身ある!ギフトトゥゴッド鞭が入る!しかしまだ四馬身ある!後続は届きそうにない!何という脚だ!何という脚だ!ギフトトゥゴッド差を詰めているが届くのか!」


 テレビの視聴者に向けられているはずの実況がなぜ届くのかはわからない。

 確実な事は、今前世で一度も行った事のない中山競馬場と言う場所において、皐月賞と言う非常に歴史あるレースが行われ、そこに私を含む十八頭のサラブレッドと十数万人の人間、そしてそれに十数倍する競馬ファンがくっついている事だけである。


 そして自分が何かとんでもない事をしているかもしれないと言うことまではわかる。あとほんのちょっとだけあきらめなければ、全てをつかみ取れるかもしれない。その事を認識させてくれるのはなぜか他の何でもらなく、聞こえないはずの放送なのだ。

 いや、正確にはもう一つ、尻の痛み。振るわれる鞭の音が終わりの近さを否応なく私に伝え、最後の一滴まで絞り出せと私に迫って来る。もちろん、ためらう理由はない。










 二分〇〇秒二。それが私のゴールタイムらしい。過去似たような形で皐月賞を制した馬と比べてもかなり速いタイムだと言う。

 もっとも、あくまでも似たような形で制した馬と比べてであり、違う戦法で制した馬に比べると一秒以上遅いらしい。


 勝者には勝者の取るべき態度があり、仕事と言う物がある。結局ギフトトゥゴッドに一馬身半の差を付けた私は戸柱さんを乗せながらフラッシュの嵐の中に立つ仕事に望む事になった。

 ちょっと前には戸柱さんを乗せて競馬場をぐるっと回る仕事があった。その時の私が、疲れていたのかいないのかはわからない。勝者らしく堂々とした顔をするべきなのかもしれないが、できていたかどうかわからないしもともとその気もなかった。

 これまで勝った二レースのように適当に嬉しそうにしながら淡々と回るべきなのか、負けた弥生賞の時のように口をつぐみ続けるべきなのかさえもわからなかった。


 私に座る戸柱さんの顔は、よく見えてはいないけど多分ものすごくきれいなのだろう。一方で私の隣に立つ一枝先生の顔は、笑顔でありながらもどこか重たかった。

 あるいはこの時、私の勝因に気付いていたのかもしれない。それならば、こんな顔にしかなれないだろう。だがおそらく、先生の心を占めているのは私の栄光ではない。その栄光の根源であり、先生にとって私よりずっと期待していたであろう存在だ。

 インタビューもひどい物だった。


「戸柱君に任せてよかった、次走はもちろんダービーです」


 で終了だった。戸柱さんの四分の一にも満たない文章の量と、半分にも達しない音量。まるで勝者のそれではない。









 

 、身体が軽くなって二の脚を使えるようになったと言ったら戸柱さんや一枝先生はどう思うだろうか。怒るか、悲しむか、嘆息するか、呆れ返るか、それとも聞かなかった事にするか。

 いずれにせよ、この勝利の喜びを消し飛ばす物である事は間違いないだろう。気持ちが伝わらないと言うのも悪い事ではないのかもしれない。


 私としては、まったくすがすがしい気持ちだ。もうこれ以上、彼奴に悩まされる事はなくなるのだ。一着でゴールした事より、ずっとずっと嬉しい。だとしても、一枝先生の記憶にはずっと残るのだろう。いや一枝先生のみならず戸柱さん、いやこのレースに関わったすべての人間の記憶に深く刻み込まれるだろう。

 単勝四九七〇円と言う穴を空けて勝利した私や、私の三十分の一の単勝配当と言うダントツ一番人気を裏切ってしまったギフトトゥゴッドよりもかもしれない。もちろん現実の上では私やギフトトゥゴッドの方がずっと上の立場のはずなのだが、それでもインパクトと言う点においては私たちの負けだろう。




 あの時やけに競馬場が静かだったのは、紛れもなく彼奴の責任なのだ。そのせいですべての馬がゴールしてから着順が確定するまで余計に時間がかかり、無駄にファンを待たせた。ギフトトゥゴッドはまだともかく私は全く関係ないのに、あるいはもしかしてと望み薄き期待を抱かせたのは全く罪深い話だ。結果着順は何も変わらず、彼らの儚い望みを彼奴は裏切った。勝手にやっといて裏切ったも何もない話だが、それでも彼奴がおかした過ちにより多くの人間が悲しんだ事だけは紛れもない事実だ。



 まだ最終レースがあるから、そう言い残して私から戸柱さんが去って行くと私は再び深い孤独に包まれた。そんな私が上っ面だけの笑顔になったのは、本心からの嬉しさではなくいわゆる社交辞令だ。

 何千頭と言うサラブレッドがどんなに望んでも手に入らなかったクラシックホースと言う地位を得た手前、どんなに悲しい出来事があっても笑うのが一種の礼儀だろう。もちろん本心では思いっきり笑いたいし、その権利を振りかざせたはずだ。だが今それをやれば、私についての間違った世評が一人歩きするだろう。




 ――――――同じ厩舎の仲間の無念を背負い、更なる力を得て走った存在。


 死んでも欲しくないフレーズだ。過去のレースについて言い訳をする趣味は私にはないが、彼奴がいなければ私はもう少しのびのびと走れていた。結果は別にして精神的にはずっとそっちの方が楽であった。たまたま同じ厩舎に入ったぐらいで仲良しこよしのような扱いをするなど、全くあまりにも下らないギャグだ。


 まあこれからは彼奴に邪魔される事もない、マイペースで走れる。ようやく、私の真のスタートだ。


「来たかビーアワスタート。今日はよくやってくれたよ、我ながらびっくりだ」


 一枝先生の顔は先ほどとまるで変わっていなかった。重苦しく、無理矢理な笑顔。そうさせているのが一体誰なのか。せっかく私が、クラシックホースのいる厩舎の主と言うホースマンとして最高級の栄誉を寄越してやった直後とは思えないような顔。


「とりあえずは帰ろう。ダービーに向けていろいろしなきゃいけないからな」


 私は特に何もせず、そのまま馬運車に乗り込んだ。それが一枝先生の望みだとわかっているからだ、私も先生も、もうこのレースについては触れてはいけない気がした。










 あれほどまでの事をやらかした割に、疲れはなかった。やはりタイムの問題だろうか。それとも、隣が空白になったせいだろうか。


 春はゆっくりと遠ざかり始め、初夏の兆しが見え始めた。ほんの二週間前まで桜がなんとかと言っていたのに、もう春が過去の物になりつつある。

 頂点に立つと後は落ちるしかないと言うが、その頂点をなるべく後にするか引き延ばすかする事はできるはずだ。


 少なくとも今、私は頂点に立てている。その頂点を高原にするか尖った先端にするかは私次第だ。さすがにダービーまでの五週間でたいした事が出来る訳でもなく休養と体重調整のための軽い調教の日々であったが、それでもこれまでより充実した気分になれていた。



 記者たちの無神経な質問にも馴れた。何もかも相手を理解しなければ記事が書けないのならばそんな職業は務まりようがない。

 彼らにとって私は「思いもしなかったやり方で大穴を開けた一枝厩舎所属の皐月賞馬」なのだ。その方が彼らに取っては都合がいい。


 隣の馬房を顧みる事はない。主がいなくなったと言うのに、そこから上がって来る瘴気は未だに途切れる様子はない。あれを吸い込んだらまたあいつがよみがえって来そうな気がする。それだけは嫌だった。でもそんな事をするまでもなく結果はわかっていた。


 有馬記念とか言う単語を聞き逃すには、私の耳は発達しすぎていた。今の時期に年末の話をするのはどうかとも思うが、実際その頃には間に合う算段があるのだろう。距離はともかく、それ以外の条件は全て足りている。賞金が足りなくて出られないとか言う問題も、実は私とほとんど変わらない以上さほど問題なかったりする。


 私が今から有馬記念までの間、一円も稼げないと言う保証はどこにもない。そういう気付きたくない事実に、私は次々と気付いてしまう。そしておそらくは一枝先生も気付いてしまったのだろう。だから、私になるべく聞かせまいとした。でもその配慮は結局無駄であり、そして私が一枝先生にほんのわずかだけした配慮もまた無駄だった。


 理由はわからないがと言う枕詞付きではあるが、どうやら一枝先生は私の憎悪にようやく気が付いたらしい。

 今になって期待に応えられてもとしか言いようがないのだが、とにかく気が付いてしまった事だけはほぼ間違いない。そしてその事はほぼ確実に誰も幸福にしない。



 私の憎悪の深さに気付いた一枝先生は私を恐れるとともに、今までそんな憎しみを抱いていた相手と一緒にすると言うむごい事をして来たのかと言う罪悪感に囚われる事になる。

 一枝先生がこれまでどれだけの馬を相手にして来たのかはわからない。私を孕んだ馬の頃からだとしても十年、実際はその倍以上だろう。それまでの間にこれほどの悪意を特定の馬に抱いた先達がいたのだろうか。

 仮にいたとしてもそれはおそらく年を重ね幾度も苦杯をなめて来た上でのそれであり実質何もない内からここまでの憎悪を抱いていたと言う話はそうもないはずだ。これまでの経験が通用しそうにない、しかも看板になりそうな馬。そんな存在との付き合いを強いられる運命となる。


 そして私も私で、いよいよ気難しく扱いにくいと言う馬だと言う世評が完全に固まってしまった。おそらくもう、戸柱さん以外の騎手は積極的に乗ってくれないだろう。もし戸柱さんのお手馬と被ったらどうなるかわからない。

 私自身、あの皐月賞の事を振り返りたくはないが勝ち方としては素晴らしい物だと思っているし今でもあの二分少々のレースそのものはすがすがしい思い出として残っている。それまでの三戦は中団からの差し脚で戦ったが、今となってはもうあれ以外の戦法はできそうにない。

 もちろんあんな都合のいい事は二度と起きないだろうが、それでもやめる訳には行かなかった。そして何より勝ち続ける事により、牧場にいる彼奴から逃げたかった。



 彼奴はダービーが間近だと言うのに牧場でのんびり過ごしているのだろう。八つ当たりその物である事はわかっているが全く腹が立つ話だ。

 実際、私だって朝日杯フューチュリティステークスと言うGⅠレースの直前にソエをやって厩舎で過ごす羽目になったのだからどっちもどっちなのだが、私が切歯扼腕していたのに対し彼奴はおそらく長いバカンス程度にしか思っていないだろう。


 勝手にけがをして、勝手に競走を放棄して、勝手に牧場に帰って行く。あまりにも不真面目ではないか。無事で何よりとか言うかもしれないが、無事でない可能性があるのならばまず走らなければいい。その点を怠った罰をもっと受けてしかるべきではあるまいか。

 実際、何十億円と言う単位の馬券が彼奴のせいで紙くずに成り下がった。もちろん古今東西のレースにおいて存在するケースであるし仕方がないとも言えるが、実際人間の度量と言うのは素晴らしい物だ。

 サラブレッドと言う生き物自身、人間に生かされている存在である。芝やダートと言う特定の環境でなければ全力を発揮できずこれ以上人間のためにならないと思えば平気で殺される事もある。

 しかしそれは裏を返せば、人間のためになる存在である限り生き続けられると言う事にもなる。もちろん寿命や病気は仕方がないとしても、人間にとって役立つ存在である限り全力でその面倒を見てくれる。とは言ってもぼさっとして過ごせるほど甘い物ではないはずだ。


「でも今度は……オーナーは、海外へ……」


 しかし、牡馬には一つだけぼさっとして過ごせる道がある。種牡馬となる事だ。優秀な成績を上げた馬を配合して作られたのがサラブレッドであり、それを幾百年と繰り返して来たのが人間である。

 人間と違い馬の繁殖期間は、日本にいる限り三ヶ月前後しかない。その間に種付けと言う作業を行う。もちろん仕事として行う性行為、下手すれば一日で三回四回などざらなのだが、残る九ヶ月はまったく暇な暮らしである。


 もちろん繫殖牝馬だって似たような物かもしれないが、そっちは受胎してしまえば一年中腹に子どもを抱えて過ごす事になる。男が女がと言う気はないが、いずれにせよ競走馬や乗馬、馬術馬などから比べればおそろしくいいご身分だ。

 もちろん成績が上がらなければお役御免ではあるが、それでもよほどの事がない限りその後は隠居生活だ。


 今の私は今度、オーナー、海外と言う一枝先生がこぼした単語から


「今度ダービーに勝てばオーナーはビーアワスタートを海外遠征させるかもしれない」

 などと言う楽観的な事を考える事はできなかった。


「今度またバーニングミーが故障する事があればオーナーはバーニングミーを海外に種牡馬として売るかもしれない」


 と言う発想ばかりが頭に浮かぶ。そしてそれは、私と彼奴の前世の関係とほとんど変わらない。たいした実績もない以上海外でもさほど重宝されないだろうが、それでもなお日本の種牡馬を重ねて来た独特の血統と言う事である程度の扱いはされるだろう。

 これでは何のために皐月賞を勝ったのかもわからない。屈辱にまみれ続けろとは言わないが、ちゃんと期待を受けた分ぐらいは汗水を流してもらいたい物だ。どうやらこの発想は真実だったらしいが、そんな事はどうでも良かった。












 そしてダービーの日が来た。私の枠番は十四番、ギフトトゥゴッドは八番。人気はやはりギフトトゥゴッドが一番人気で、皐月賞馬の私は四番人気。

 梅雨の直前のせいか空は低く曇り、良馬場のはずの東京競馬場の芝はどこか活力がない。


「戸柱さんは明言していませんがビーアワスタートは行くでしょう、ギフトトゥゴッドはビーアワスタートから六馬身ほど後ろをついて行くつもりです」


 フロックだと思われていなければ四番人気などにはならない。まあ人気があろうとなかろうと一向にかまわないが、ギフトトゥゴッドに乗る騎手のそのセリフは完全に私を見据えた物だった。

 恐怖心はないが、面倒くさい事になるとは思った。彼奴ならばいつも通りの瘴気をまき散らしながら手のひらをまったく動かす事なく言葉を紡いだだろう。


 って、まだ彼奴の事を考えてしまっている!まったく、いつまで私の生活に付きまとうつもりだ。本当に消えて欲しい。と言っても本当に消す事などできるはずもない。


 神様って言うのは本当に意地悪だ。前世の時からさほど信仰心が強くなく盆暮れのあいさつもなあなあで済ませて来た罰が当たったのだろうか。いやそれでも父母や長兄の年忌などには丁重にお祈りして来たつもりだし、そしてさい銭も欠かさずかつ惜しまず入れて来たつもりだ。


「皐月賞はフロックでない事を証明してみせる!友よ見てくれ、ビーアワスタート!」


 テレビ局のアナウンサーがそうほざいた直後にマイクが落ちて平謝りをする羽目になったのは断じて私の責任でも力でもない。自分の気持ちを全世界に伝える事などインターネットがどんなに発展した現在でも無理な話なのに、私自身どれだけ頑張っても自分の気持ちを戸柱さんと一枝先生ぐらいにしか伝えられていない。その必要もない。


 読まれていても、期待されていても、私は自分のすべきことをするしかない。それが生活と言う物ではないか。すべきことをやろうとしたができずにならまだしも、すべきことをせずに恩恵だけ受けようなど、まったく許される事ではない。


 皐月賞のようにスタートから飛ばして構わない。今回は単騎逃げは難しいだろうけどそれでもペースさえ守ればいい。万が一他の馬に先頭に立たれても気にするな。戸柱さんの言葉を胸に刻み込み、私は皐月賞の時と同じファンファーレを聞きながらゲートに入り込んだ。


 十四番と言う番号相応に待ち時間は短かったが、それでも何の問題もなかった。




「ゲートが開きました!やはり今回もビーアワスタートが飛ばしていきます!そしてギフトトゥゴッドは皐月賞よりは少し前、およそ七番手いや五番手ぐらいを走っています!」


 二頭ほどついて来ている。このペースに付き合って勝てるつもりなのか。飛ばしている私でも無謀と思っていたペースに付き合うような奴は放っておくのが吉だろう。


 後から知った事だが、私について来ている二頭の内一頭は三連勝してこのダービーに挑んで来た二番人気馬だった。しかもこれまでの三回のレースでは私と同じように逃げていた訳ではなかったそうだ。


 自分の罪とか、責任とかとは思っていない。向こうが勝手に勝つための最善の方法としてこの走り方を選んだのだ。私は知らない。



 だから、向こう正面でまた一気に離してやる事にした。


「おっと、ここでビーアワスタートがさらに後続を引き離します。二番手集団の二頭と五馬身、四番手に上がって来たギフトトゥゴッドとは十馬身差です」


 皐月賞とさほど変わらない展開だ。もっとも今も登ったばかりである東京競馬場の直線の坂と中山競馬場のそれは全然違うし直線の距離も200mほど中山より長い。デビュー戦からの二連勝はこの東京競馬場でした物だったが、その時は中団から差す競馬だったからこの長い直線は味方だった。今度は敵となる。


 理容師と言う客商売をしていた前世の私に取り、敵味方と言う物は非常にあいまいだった。敵とはっきり言える存在と言えばライバル店だけだったが、それでもそこの店の人とはビジネスに差し障りがない程度には仲良くしていたから、ある意味で味方と言えなくもない。

 そして結局「子育て」なぞした事もないし、あの戦争の時も没入する前に終わってしまった私にとって敵は何なのか、どうにもわからなかった。桃太郎だって鬼と言う敵がいなければ成り立たない話であるが、その事に気付いたのは三十も半ばになってお客さんから言われてからだ。


 あえて敵と言う物を上げるとすれば、飢えと貧困だった。疎開先が農家であり自給自足の生活をしていたせいで案外喰うのには困らない生活をしていたとは言え、なかなか腹いっぱい食べる事はできなかったし自由に使えるお金なんぞなかった。だからその敵から逃れるために必死に働いた。でもその敵は決して死ぬ事はなく永遠に追いかけて来る。だからこちらも必死になるしかなかった。

 ――それなのに!




「残り1000mを通過、おおっとまたビーアワスタートがペースを上げた!ギフトトゥゴッドもここで仕掛け始めたか!」


 一体何様のつもりだ!ずっと後ろで笑ってばかりでまったくその敵から逃れようとしないあの男は!これだけ頑張ったしもういいかなとか真顔でそんな甘ったれた事を考えていそうなあの男が私の真後ろに貼り付いている!

 まったく力感のない走り方をしながらサラブレッドの私に追いつこうとしている、しかも悪気がないどころか勝負だと言う認識すらないままに!

 来るな、来るな!お前のような奴と一緒にされてたまるか!それが嫌ならばもっと真面目にやれ!それができないのならばここで消えてしまえ!生んでくれた両親、面倒を見てくれたすべての人間、彼らに対して恥ずかしくない生涯を送れ、それが全ての人間に対しての礼儀と言う物だろう!それができない奴に慈悲の手を差し伸べるなど、全くどうしてみんなそんなに甘いのだ!


 私は、再び逃げた。彼奴から逃げた。全く自分のために。戸柱さんもギフトトゥゴッドも、全てどうでも良かった。ただあの不届き者にこれ以上関わりたくなかった。


 もちろんそれとレースとは別物だ。私がゴールまであと500m、最後の直線に達した時急に脚が重くなり、ペースも落ちた。まだ八馬身のリードがあるらしいが、ギフトトゥゴッドはここぞとばかりに追って来る。


 そして気が付けば、彼の姿もない。はるか遠くに振り切ってしまったのだろうか。そのせいで脚が止まってしまったのか。ふざけるなといきり立ってみたが、どうにも脚が動かない。




 と思ったら今度はバーニングミーと言うサラブレッドの姿をして、笑みを浮かべながら立っていた。勝手に出て来るな!またそうやって勝手に私の前に現れて、私の邪魔をしようと言うのか!もう逃げはしない、食いちぎってやる!全てを食いちぎって、そのやせ細った体の奥底にたまったぜい肉を暴き出してやる!


 私は、再び目の前に現れた彼奴に向かって走り込んだ。


「先頭ビーアワスタートまた二の脚を見せている!皐月賞と同じ二の脚だ!残り200、ギフトトゥゴッドは三馬身まで来た!」


 ゴール板の前でまったく濁りのない笑みを浮かべながら、四つ足を地面に付けている彼奴の肉の味を想像しながら私は走った。その悪食と強欲が私に闘志を与え、背中を軽くした。


 しかし次の瞬間、彼奴の姿はふっと煙のように消え去った。こんな時に一体何をしに来たと言うのだ!私をおちょくりに来たと言うのか!何様のつもりだ、答えろ!


「残り100!ギフトトゥゴッド二馬身!ビーアワスタート!ビーアワスタートついに力尽きたか!半馬身、並んだ、抜いた!ギフトトゥゴッド、ギフトトゥゴッドー!!」


 彼奴は私に残っていた闘志をまるごと持ち去って行った。そのせいで脚はついに止まり、ギフトトゥゴッドに抜かれた………らしい。私がその事を認識したのは、ギフトトゥゴッドがファンの皆さんに歓声を受けている事に気付いてからだった。












 騒ぐ気にはならなかった。その事を既に、なんとなくわかっていたからだ。事故ではなく、皐月賞の時のケガが悪化した結果での処置――――それで最後に私の所に来たと言う訳か、まったく何ひとつろくな事をしない男だ。


「この後は放牧だ、このポテンシャルなら菊花賞も戦えるだろう」


 皐月賞馬でダービー二着と言う肩書きを背負い、私は一度牧場に帰る事になった。もう何一つできない存在になった彼奴の墓がまもなく作られるらしい。


 こんな体で良ければ花びらの一枚でもくれてやってもいい。私にこんな名誉な肩書きをくれてやる程度には役に立ったのだから、それ相応の措置を取るのは当然の礼儀だろう。


 ―――好きな奴でもいるのか。


 ああいます、戸柱さんと言うジョッキーですと言ったらどう返すだろうか。多分吸い込んでも誰も病気にならない瘴気をまき散らしながら会わせてくれよと言い出すだろう。

 そうなったら私はたぶんこれまでと違って、即座に後ろ足で砂をかけるだろう。そのまた次の事はともかく、今ここにおいては私の方が上なのだから。恩は受けるだけ受けた、もうこれ以上私に礼を尽くす義務はない。

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競走馬に転生したら同厩にいたのがあの男だった @wizard-T

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