お題:バイオテックトナカイ

 辺り一面に積もった雪は真夜中の闇を吸い込み、底の無い谷のように周囲を変貌させていた。冷気が一面に充満し、生気という生気を奪っていく。そこは美と無情に溢れていた。夜の帳が下りた銀世界に響くのは全てを拒むような強風と無骨な男の足音のみ。


 男は一歩、また一歩と足跡を刻みながら進んでいく。目は玉虫色に光るゴーグルに、鼻と口元はスカーフのようなものに覆われている。左の腕には大型のクロスボウが固定されていた。腰には飾り気の無い剣が収められている。彼がどのような顔をしているのか、どのような表情を浮かべているのか傍からでは分からない。


 だが、それで何の支障も無い。この世界で人間という種は殆ど死に絶えたからだ。


 今から丁度十八年前の十二月二十五日。某国の生物研究所にて軍事目的で飼育されていたバイオテックトナカイが大量脱走し、世界に混乱と破滅を振りまいた。この惨事は後に『死のプレゼント』と呼ばれることになる。彼等の大半が人間を積極的に捕食するよう脳に手を加えられていたため、解き放たれた獣の集団はたちまち屍の山を築いた。生態系ピラミッドの頂点の座が人類からバイオテックトナカイに移り変わるのにそう時間はかからなかった。


 男はバイオテックトナカイを狩るべく雪原を歩いていた。彼はバイオテックトナカイから地球を取り戻そうとは微塵も思っていない。ただ、生きるために。明日の、明後日の朝日を拝むために狩りをするのだ。


 インフラも物流も既に壊滅したが、不幸中の幸いとでも言うべきか食べられるものバイオテックトナカイはそこら中をうろついている──勿論、下手を打てば捕食者と被食者の関係はひっくり返るが。


 男は立ち止まった。前方に大きな影。認識と同時に男は臨戦態勢に入る。一度、深く息を吸って吐いた。凍てついた空気が肺を満たす。それは戦いの予兆に当てられ沸騰した脳髄を急速に冷やした。


 夜の闇を引き裂き、巨大な体が現れた。全長は3m程。男よりも二回り──いや、それ以上に大きい。黒く無機質な両の瞳が男を睥睨する。


 男は神に感謝した。時にバイオテックトナカイは10mに達する個体も存在する。それを鑑みると、3mの個体は非常に狩りやすいといえる。


 バイオテックトナカイは下半身を僅かに屈めた。筋肉は弓の弦さながら解放の時を待っている。男は一挙手一投足を見逃さないよう全神経を集中させた。


 張り詰めた空気を巨体が破る。荒々しい突進。みるみるうちに彼我の距離が詰まっていく。当たれば死ぬと叫びながら訴える本能を理性で縛り付け、じっと男は待つ。

 

 駆ける音は死神の足音の如し。耳朶を打つ響きにしかし、心を揺さぶられはしない。可能な限り引き付け、狙いやすい位置に来たところで──発射。


 鋭い矢が左腕のボウガンより放たれる。矢は一直線に進み、敵の右眼に直撃した。バイオテックトナカイの上体が大きく仰け反る。この程度で失明しないことを男は理解していた。故に生じた隙を一分の無駄も無く、最大限に利用する。


 淀みの無い、流れるような動きで抜剣。そのまま膝を斬りつけた。戦車の砲撃にすら耐え得る強靭な体皮を持つバイオテックトナカイだが、筋肉の構造を把握し的確な箇所を狙えば刃は通る。傷口より生暖かい血が垂れ出し、雪を溶かしていった。


 男は欲張らず、一撃を与えると瞬時に退いた。バイオテックトナカイは男の方向に視線を合わせる。何物をも映さない双眸は嚇怒の念で染まっていた。


 再度突進。だが刻んだ傷の影響か、速度は先程よりも鈍い。突進、回避、突進、回避──


 男は闘牛士のように攻撃をやり過ごし、可能なタイミングを見定め適宜反撃を入れていく。作業のような工程だが、一つのミスであの世逝きになることに変わりはない。気を抜く真似は許されない。


 十分か、二十分か、それとも一時間か。男とバイオテックトナカイが相対し、それなりの時間が経った。純白の雪の絨毯は二つの足跡と赤黒い血で無残に汚れている。その様は戦いの凄絶さを十分に表現していた。

 

 巨体が遂に膝をつく。男はトドメを刺すべく走り出した。狙うは心臓──左前足上部。最後の抵抗と言わんばかりに襲い来る右前足を躱し、力を込めて剣を突き立てた。


 一瞬、ぴくりと巨体が揺れる。そして、以降動くことはなかった。バイオテックトナカイが雪の地面に沈んでいく。


 敵の死を見届けると男は懐より袋を取り出した。バイオテックトナカイは巨大なため、一度に肉や毛皮を持ち帰ることができない。そのため、複数回に分けて解体し持ち帰るのだ。幸い、今の季節は冬。そう簡単には腐らない。


 生態系の頂点は移り変わった。だが、それでも──人類は今を生きている。


 


 


 

 

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