セーギノミカタチャマ

「たまには気晴らしをしないとダメよ。いいじゃないの、別に何も買わなくったって。こんな物があるんだって知識を深めるだけでも十分意義があると思うけど」


 翌々日、優梨愛は卓美に駅前のデパートに誘われた。腰の軽くなかった優梨愛だが、卓美のその言葉でデパートに行く事に決めた。


(にしてもねえ、私にだって限界はあるわよ)


 おととい人生に絶望したような顔をしていた優梨愛とすれ違った卓美は、優梨愛の緊張をほぐしてやろうと考えたまには気を晴らしてやろうと思ってデパートに誘ったのだ。しかし相変わらず優梨愛の表情は堅く、目付きは鋭く尖っていた。


 大体、実姉である卓美をしてまずあんな誘い文句を使わなければ優梨愛を動かす事が出来なかったのだ。優梨愛を動かす為には自分や家族にとり糧になる、その事をまず優梨愛に納得させなければならない。一応三十四年間姉をやって優梨愛を動かすコツはつかんではいる物の、改めて難儀な妹だと思った。卓美には優梨愛をデパートへ連れ出す事はできても、心の糸を緩めさせる事はできない。


「まず何から見るんですか?」

「とりあえずお洋服でも」


 一方で優梨愛はとりあえずと言う姉の言葉に不安になり、一段と目付きを鋭くした。デパートを回るのに道筋も考えていないと言うのか、いざ最後に欲しい物があった時お金が足りなくなると言う事態をこの人は考えられないのか、その言葉ばかりが優梨愛の心を支配していた。


「とりあえずって、無計画過ぎません!?」

「ちょっと声が大きいわよ!」

「あっすみません、でもそんな適当な事でいいんですか?」

「いいのよたまには」

「いやそういうたまから、千里の堤も蟻の穴からって言いますし」

「今日はそういう事は忘れなさいよ、そうでもしないとあなた倒れるわよ。基弘君を残して行けるの?」

「そうですね……失礼しました」


 優梨愛はあくまでも優梨愛なりに卓美を心配するがゆえに大声を上げ、卓美に注意されてなお舌を止めず、命の心配までさせてようやく静かになった。


「光弘さんや基弘君のためにも、今日はパーッと楽しんで気を楽にしましょ、この時間は絶対に無駄にならないんだから」

「はい……」


 静かになった所で気分が晴れる訳ではない。優梨愛の目の輝きは相変わらず乏しく、まるで獲物を追う鷹のように尖ったままである。そして小一時間デパートを歩き回ったのに全く表情を変える事はなく、そして何一つ買い物をしようともしない。そんな彼女の表情がほころんだのは、地下の食品売り場であった。


「ああこのケーキ、先月のテレビで取り上げられてたのよね。その時はものすごい行列で諦めてたけど今はだいぶ落ち着いて来たみたいで」

「すごい見事な、いやすごく見事な手際ですよね……どういう修行をしたらああなれるのか正直知りたくなってきます」


 しかしそこでも彼女は財布の紐を緩めた訳ではない。あくまでもそこの食品売り場で繰り広げられているパティシエの技を生で見て感嘆しているだけである。基弘君にも色々な味を覚えさせた方がいいんじゃないと言う卓美の言葉に押されてやむなく買った物の、優梨愛の頭の中からはこれで味覚が贅沢になってしまうのではないかと言う危惧が消えなかった。

 たかだか一個二百五十円のケーキで贅沢と言うなど家庭の財政状況を疑わざるを得ない話なのだが、そして光弘の先月の月給は八十万円なのだが、本人は至って大真面目である。


「あっ何かしらあれ」


 何はともあれ、色々デパートの中を回って帰途につこうとした二人の前をデパートの職員らしき男性がすみませんと言いながら看板を抱えて歩いて行った。

 やがてその職員は入り口に看板を立て掛けると大きく伸びをして去って行った。そしてその職員につられるかのように卓美や優梨愛を含めその周囲にいた客は看板に目を向けた。


「六月十三日(日) 桧山紀男&水川かずひろ先生 サイン会&トークショー

 サイン会 AM10:30~11:30

 トークショー PM0:30~1:30」


「桧山紀男に水川かずひろ……どこの芸能人ですか?」

「ああ水川かずひろってのは漫画家よ、メダルボット物語って漫画を描いてる。それで桧山って人はアメイジングの偉い人でメダルボットの生みの親って言われてる…間違ってたらごめんね」

「姉さんは翔太君や健二君を連れて行くんですか?」

「まだひと月先の話だしね、少なくともそのつもりではあるけど」

「二人とも好きなんですか?」

「もちろんよ。ゲームはもちろんもうアニメが始まると二人ともテレビの前から動きゃしないし」

「よく言うじゃないですか、部屋を明るくして離れて見ろって」

「それはもちろん守らせているけどね」

 客の一部から歓声が上がる中、一体どこの馬の骨なのよと言わんばかりの喧嘩腰な口調で優梨愛は卓美に問うた。それに対しまるで危機感もなくのほほんと語るような姉の姿に、優梨愛はもう意識を失いたくなった。


 自分の姉と甥っ子まで侵食していると言うのか、あんな時間喰い虫が。


(何とかあの子だけは守ってやらなければ)


 優梨愛はますますメダルボットに対しての敵意を募らせた。基弘の時間を侵食するだけ侵食して後に何も残さない悪魔から、何が何でも我が子を守らなければならない。そういう決意を心の中で静かに固めた。




 とは言うものの、奔流の如くあふれ出るメダルボット人気に対抗する術は優梨愛にはない。

 学校でも近所でもその悪魔は牙を剥いて待ち構えている、挙句英会話教室でもらしいのだ。同年代の子どもが通っている以上仕方がないのだが、そう考えるだけで優梨愛は落ち着かなかった。


 他に何か気を逸らせる事ができる物はないか。優梨愛は色々探してみたが、そのほとんどが同年代の子どもとの触れ合いありきだった。

 同年代の子供が一緒となれば、当然メダルボットの話題が出てくる。完全な八方ふさがりである。


 人の好みなんてそれぞれと言った所で、自分が嫌っていても基弘が同じようにメダルボットを嫌うと言う保証はどこにもない。どんなに押さえつけたとしても、いや下手に押さえつければ尚更基弘の興味が暴発してしまうかもしれない。


(助けて……お願い、助けて……)


 独力ではもうどうにもならない。いよいよと言う時が来たのを感じた優梨愛は夜、受話器を手に取った。


「優梨愛か、どうしたんだ?」


 相手は光弘、愛する亭主である。光弘ならば自分の苦しみをわかってくれるのではないか、苦しい胸の内を明かしてもいいのではないか。


「どうしたんだ?そんなに苦しいのか?」

「あっうん…あっ仕事中?」

「もう終わってるよ、日本と北京の時差は1時間しかないんだ」

「ああいや…ならいいの、仕事がまだ続いてたらまずかったかなと思って」

「そうか。まあ何だ、相当辛そうだけど何かあったのか、基弘が」

「いや別に…基弘は元気よ」


 しかしここまで来て優梨愛の心の中の羞恥心が爆発した。こんな事で悩んでいると知ったら光弘に軽蔑されるのではないか、そういう心理が頭をもたげ出し、そして舌を縛り付けてしまった。


「でっ…その…実は……ああっ……」

「お前が大丈夫じゃなさそうだな、何があったんだか話してくれよ。頼むから」

「いやでもそんな、あなたに迷惑………」

「迷惑って…おいおい亭主に遠慮なんかするな、さあ言えよ」

「あっうん…実はねえ…メダルボット…」

「ああそれか、実はな」

「光弘さんそれよ、それについてなんだけどっ…」

「僕、六月末に日本に帰って来てそれからサンフランシスコに行くだろ?実はサンフランシスコで取引する会社の重役の甥っ子さんがさ、メダルボットのフィギュアを欲しがってるそうなんだよ。僕にはどういうのがいいかわからないからその時ちょっと付き合ってくれないか?もちろん基弘も一緒に」

「…………その専務さんってアメリカ人?」

「当たり前だよ」


 それでも縛られた舌を無理矢理に動かしメダルボットと言う時間泥棒についての対策を求めた優梨愛であったが、その細い糸が光弘に届く事はなかった。そしてその時間泥棒は光弘のみならずアメリカまで侵食していたのだ。


「ごめん、私もわからない………………」

「……………そうか。それで何かあったんじゃないのか?」

「いや別に、光弘さんの声を聞いてなかったから不安になって…あっこんな甘ったれた事で電話かけちゃってごめんね」

「いいよいいよ、僕も少しほっぽり出し過ぎてた。じゃあ基弘を頼むよ」


 受話器を戻した優梨愛の顔からは、表情が消えていた。










「優梨愛、最近いい事あったの?」

「まあそうですね」


 そんな優梨愛であったが、六月になると急に明るくなった。この前にデパートに行った時に比べ別人のようになっていた優梨愛に卓美は胸を撫で下ろした。


「何があったの、私にも教えて?」

「特に何もないですよー、待ち遠しい行事が一つできたってのが正解ですかね」

「ねえ、お姉さんに教えてちょうだいよ」

「お姉さんには……その」

「光弘さんに会えなくて淋しいの?」

「まあ、そういう事にしておいてください」


 貪欲であっても真っ正直な優梨愛らしくない曖昧な返答に卓美は戸惑ったものの、優梨愛の明るい面相にそれ以上の詮索をやめた。




 そして六月十三日。梅雨の走りのような雨から一夜明けた日曜日は晴天だった。


「今日は伯母さんの家でゆっくりしてるのよ」


 優梨愛は基弘にそう言うとハンドバッグ片手に家を出た。


「欲しい物が見つかったんでデパート行って来ます」

「それならいいんだけど……たまにはぐうたらする事も必要不可欠よ」

「だからそういう事です」

「それで、ついでだけど翔太も連れてってくれない?ほら、この前言ってたでしょ今日デパートでサイン会とトークショーがあるって。健二が風邪で寝込んじゃって私は健二と基弘君を見なきゃいけないから、もちろんうちの旦那にも頼んではいるけど」

「翔太君は六年生でしょう、もう来年中学生ですから一人で行けるでしょう」


 もちろん優梨愛の言う事は正論である、しかし一緒に行動する訳でもないのだから自分の行動が拘束されると神経質になる必要はないのだが、それでも優梨愛の顔から笑顔が消え足取りが重くなったのを見ると嫌と言えなくなってしまった。


「ああそうじゃあいいわ、まあたまには一人でゆっくりしたいわよね」


 そして卓美が翔太をついでに連れて行ってと言う言葉を取り消すと、優梨愛の顔に笑顔が戻った。羽を伸ばしたいと言う事にしても奇妙な話である。







 そして翔太はメダルボット物語の単行本にサインを入れられて浮かれ上がっていた頃、優梨愛は何も買わずデパート中を歩き回っていた。


 そしてファーストフード店で買ったハンバーガーを口に放り込むと人目を避けるかのようにエレベーターを使わずサイン会及びトークショーの会場である七階に向けて歩を進めた。


(物凄い混雑……)


 優梨愛が七階にたどりついた時は十一時四十分。既に水川かずひろサイン会は終わり五十分後のトークショーまでの休憩時間のはずである、

 しかし会場の席の半分以上が既に埋まっていた。そして多くの子どもたちがゲーム機を手に取っているかメダルボット物語の漫画を読むかしている。優梨愛はそんな子どもたちを一瞥すると急に歩を速め、ステージの裏側へと回って行った。




「一時間で七百二十四回ですって?」

「ったく、手がしびれますよ……まあ嬉しいですけど」


 そして優梨愛はステージ裏の、水川かずひろと桧山紀男が休憩している部屋の前までやって来た。優梨愛は急に呼吸を荒げながら左手でドアノブに手をかけ押し込んだ。


「うわっと!」

「あのすみません、今休憩中なんで」


 桧山と水川が突然の訪問者に驚いて席を立つと、それに呼応するかのように優梨愛は空いていた右手をハンドバッグに突っ込み、ハンドバッグの中から取り出した包丁を握り締めて飛びかかった。


「何をするんですか!」


 水川はお茶が入っていたガラスのコップを優梨愛に投げ付けて優梨愛の右手の包丁を叩き落としたものの、優梨愛は全く怯む事無く桧山に向けて突進して薙ぎ倒し、左手で桧山の首根っこを掴みながら右手の握り拳で桧山を殴りつけた。


「あなたのせいで、あなたのせいで子どもたちが…世界の子どもたちがぁ!」


 子どもたちから有意義な事をする時間を奪い、無益な事に浪費させている。あなたはこの国の、いや地球の未来を奪う悪魔だ。


 警備員や水川によって引き剥がされてなお優梨愛は舌を止めず、桧山を最大限の悪意を剥き出しにした言葉で謗り続けた。

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