イェーガーとグロウスバイル

 目玉焼きを作る優梨愛の表情は冴えない。


 なぜ目玉焼きという言葉で卓美が顔を歪ませたのか、正直わからない。基弘は幼稚園で好きな食べ物は何と聞かれて目玉焼きと答えた事があるのだ、基弘の好物は目玉焼きである事は本人も認めているのだ。


「姉さんはなんであんな顔をしたのかしら」


 やがて基弘好みの固焼き塩味の目玉焼きを作り上げた優梨愛は基弘の所まで持って行った。本当は箸だけ置いて立ち去り自分で食事をさせたいのだが、覚束ない手付きで箸を動かされパジャマを汚すよりはいい。


 そう考えた優梨愛はやむなく箸を持ち目玉焼きを基弘に口へ運んでやったが、どうにも苛立ちが抑えられなかった。


(GWは少し喝を入れてやらないと)


 甘ったれた基弘の性根を叩き直す必要がある。そう考えた優梨愛はノートパソコンを開け、何かを探し始めた。




「いい事、自然は厳しい物なのよ」


 三日後、ようやく風邪が治り登校しそして帰宅した基弘に優梨愛は一枚の紙を手渡した。

 そこには「子どもナチュラルスクール」と言う文字がある。5月2日~5日に3泊4日で山へと向かい、そこで小学生の子どもたちが共同生活を送ると言う内容が記されていた。一応大人はいたが、基本的に子どもに付いているのは5人のボーイスカウトの高校生だけで、成人が出てくるのは怪我や病気など余程の時だけである。


「子どもだから。大人だから。男の子だから。女の子だから。そんな言い訳を自然は聞いてくれないのよ」


 そのセリフを四日間の間に十回以上基弘に言い聞かせた。


「わかった」


 基弘は言われる度にそう元気よく答えた。そしてその姿を見た優梨愛は一時的に安堵し、そしてまた数時間もすると不安がぶり返し、結果同じ事をまた言うのだ。

 自然は、と言うより世の中は甘くないと言う事を徹底させる事こそが最大の目的であるから気になるのは仕方がない事であるが、しかし優梨愛にしてみれば全くくどいなどとは思っていなかった。

 それを言う度に基弘が元気よく答えるのだ、くどいと思われているのならばもう少しやる気がなさそうになるだろう、それがないのだから息子はくどいとは思っていない。それが優梨愛の理屈だった。


 五月二日早朝、基弘は子どもナチュラルスクールへと向かった。集合場所がいつも通学に使う駅だった事もあり、優梨愛は基弘を玄関から一人で送り出させた。帰って来た基弘がどんな勇ましい表情で戻って来るか優梨愛は楽しみで仕方がなかった。

 しかしそう思っておきながら、一時間後にはもう基弘の事が心配になっていた。元々体力があまりない基弘が何らかの怪我や病気をして必要以上に情けをかけられる事が優梨愛は怖かったのである。


 なお、その危惧は早速的中した。二時間の電車による移動の間で乗り物酔いを起こしてしまった基弘は上級生に背中をさすられながら嘔吐してしまったのである。電車を降りてからも基弘の足取りはおぼつかず、目的地までの三十分の間ずっと手を引かれっぱなしであった。




「いやあ、一年生とは思えないほどの働きぶりですよ。最初の電車ではちょっと躓きましたけど目的地に着いてからは本当にしっかりした物です。僕らも見習いたいぐらいですよ、いえいえ迷惑なんか全然かけてませんって」


 もっとも夕方、電話をかけた優梨愛がボーイスカウトから聞かされたのはそんな言葉であった。電車での移動こそ躓いたものの、目的地にたどりついてからは高いポテンシャルを発揮し上級生たちに舌を巻かせていると言うのだ。

 これこれこうすればいいんじゃないですかとしっかり正確に状況を把握した提言をしていると言うのだ。体力が伴っていないのであまり行動はしていないが、それでも十二分に耳目を集める存在になっているらしい。

 乗り物酔いの対策をさせていなかった事についてはしまったと思った物の、基弘本人はうまくやれていそうでとりあえず優梨愛は胸を撫で下ろした。


 それでも三日も四日も優梨愛は電話をかけずにいられなかった。ご迷惑をおかけしていませんかと平身低頭しながら聞いた優梨愛であったが、ボーイスカウトの高校生は毎年よくある事ですと平然と対応していた。


「基弘君は元気一杯ですよ、みんなとも仲良くしています。明日最終日でまた電車に乗るのがちょっと嫌だって言ってますが後はおおむね良好かと」


 それではと優梨愛が電話を切ろうとすると、ボーイスカウトの高校生がただと声

のトーンを少し落として呟いた。


「夜になると余り楽しくなさそうなんですよね。朝昼とかは本当に活発かつ見事なんですが、夜になるとねえ。疲れていると言うのとは違う感じなんですが……まあ何ていうか、どうもお話について行けないと言うか、いやいや僕らじゃなくて仲間の子どもたちの。それで早めに寝てるんですが」


 それでまさかおねしょとかしてるんですとかと言おうとした優梨愛であったが、次のボーイスカウトの高校生の発言は余りにも突拍子もない物だった。


「寝言で、メダルボットって、お母さんはあんなのって、言ってたけど、みんなは大好きになってる……わかんない、どうして、わかんないよって……」


 頭のいい子だから知らない事があるのが嫌なんでしょう、だから自分が知らない物の話になっているのが辛いんでしょう、そして知りたいんでしょうとボーイスカウトの高校生は言った。



「面白いんじゃないですかねえ、僕にも小五の弟がいますけど夢中みたいですし」


 優梨愛の面白いんですかねと言う問いにボーイスカウトの高校生がそう答えるや優梨愛は平板な声でありがとうございましたと言いながら電話を切り、そして顔をしかめた。


 小学生にとってメダルボットを知らないと言うのは、市民権がないに等しい事だと言うのか。非常時と言うと極めて大袈裟だが朝昼のそういう時には無意味であっても、一息ついた夜になると凄まじい勢いで幅を利かしている。

 基弘は知識欲旺盛で自分の知識への自信も豊富だから、知らないと言う事に対する苦痛は人一倍大きい、だから馬鹿と言う二文字に対しあそこまで反応したのだ。

 そして今、メダルボットと言う仲間たちの話題を独占している事象について知らないと言う事が、基弘の心を深くさいなんでいたのだ。


 どうしてみんなあんな物に熱中できるのか、いくら考えてもわからない。もちろんわかるように努力はしてみたつもりだが、実際いろいろ調べてみても面白そうと思える要素が一つも見つからない。

 何の価値もあるように見えない、少なくとも価値があるかないかわからない物が自分の息子を、と言うより世間の子どもを侵食しているように優梨愛には思えてならず、なんとも不愉快であった。






 GWの終わりから一週間後の五月十二日、教室は随分と慌ただしかった。


 授業参観。児童たちにとって一大イベントである。電車通学の児童が大半の普連小学校ではクラス全員の親が集合とはならないものの、それでも多くの親が我が子の姿を見に足を運んでくる。

 そしてこの日授業参観があるのは一・二年生のみだが、それでも百八十人の児童に対し百二十人近くの親が来ていた。


「今日は児童たちもいつもと違いますね」

「いや先生の所も結構」

「私のクラスは五年生ですけど…あああれですか」


 実際、慌ただしかったのは一・二年生のクラスだけではない。男子を中心に学校中の児童が慌ただしかったのだ。




 基弘はいつになく緊張していた。そして、いつにもまして孤独だった。元より同級生と休み時間に言葉を交わすことも少なく、声をかけられる事も少なかったが、今日は特に顕著だった。


「キミどっちにする?」

「イェーガー、キミは?」

「ボクはグロウスバイル」


 イェーガーはドイツ語で狩人、グロウスバイルはドイツ語で大ナタ。よほどの事がない限り日本の小学一年生から出る言葉ではない。そのよほどの事があったのが基弘にもわかるのだが、それが何なのかわからない。

 いや正確に言えばなんとなく感知はしていたのだが踏み込んで行く事ができなかったし、誰もその事について話しかけて来なかった。クラスメイトも基弘の前でその事について話すのを控えていた。


 やがて、授業参観の三時間目がやって来た。次々と親が教室に入って来る。親と言っても父親は一人もいない、全員母親である。そしてほとんどの母親が一張羅で来ていた。いずれも別段珍しい話ではない。

 授業参観にわざわざ一張羅で来る価値を感じない優梨愛は平服であったが、教室の中ではかえって目立っていた。


 授業参観が終わると、保護者昼食会及びPTAが始まる。児童たちの家庭の距離が遠い普連小学校では授業参観は親が集まる数少ない機会であり、この時の親の印象は強く残る。もちろん質素で真面目な親と言う印象を与えるのは悪い事ではないが、この時優梨愛は既にそう取られがたい印象を親たちに植え付けてしまっていた。




「いや別に特段何も」


 授業参観後の昼食会の最中、優梨愛に向かって詐欺にでも遭ったのかと言い出した母親がいた。優梨愛は驚きながら否定したし周囲の母親も失礼だとたしなめたが、よく聞くとその母親の言葉を真っ向から否定している母親は意外に少なかった。


「これは間庭さんの考えだから」

「考えねえ……にしてもやっぱり不況だからねえ」


 なぜ不況という言葉が出て来たのだろうか。その不況という言葉が自分の金欠と同義語である事は優梨愛にもすぐにわかったが、平服で来た事と金欠を同一にされたくないと思い不満を顔に浮かべた。だが、その後の話の展開は優梨愛に取って全く予想外だった。


「昨日、ご覧になりませんでしたニュースの方?」

「ちゃんと見ましたけど……」

「昼間のニュースでやってたでしょ、メダルボット第二弾のお話」


 確かに優梨愛はニュースは見ていたが、それはNHKであって民放ではない。そしてメダルボット第二弾発表のニュースはNHKではやっていなかったのだ。

 今日の新聞にもメダルボット第二弾発表のニュースは載っていたが、優梨愛は気付いていなかった。


「アメイジングの社長さんが、来年の1月にメダルボットの二作目を発表するって記者会見を行ったんですのよ。今回はイェーガーとグロウスバイルの二バージョンあって、片方でしか手に入らないメダルボットもいるとか。まあそれについては友達と交換してくださいと言う事で、通信システムも強化されるとか……あら失礼、話が長すぎましたかしら」


 説明を聞かされるたびに、優梨愛の顔が歪み始め、

「それってどういう事ですか、うちにだってそれぐらいのお金はありますよ!」

 そして最終的に怒鳴り声を上げ、会場の空気を一挙に凍り付かせてしまった。


「あ、ああ……すみません、どうも失礼しました!」

「そんなに面白いんですかねそれって?」


 優梨愛は滾る血を抑えきれないとばかりに更に声を上げた。メダルボットなる代物がどうして子どもの心を鷲掴みにしてしまうのか、理由があったら教えて欲しかったのだ。


「最初はよくある子ども向けのゲームだと思ったんですけど、ストーリーが案外よくできてましてねえ」

「最初聞かされた時私も考え込んじゃいましたよ、いいストーリーだなって」

「そうですか?私なんかちょっと重すぎる気もしましたけど……中学高校生向けかななんて思ったりしたんですが」


 するとストーリーが良いと言う意見が出て来たのだ。所詮子ども向けゲームにふさわしいわかりやすく単調な代物なんでしょうと優梨愛が思う間もなく、次々とそれに同調する声が上がった。


 私立小学校に通わせたぐらいだからお金がなかった訳はない、だからメダルボットに触れさせる事ができないのは詐欺などに遭ってお金がないからだ。優梨愛を除く母親の間庭家の対しての考えはほぼそれで一致していた。


 正確に言えば、子どもから聞かされた基弘の、メダルボットについて全く情報を得ている様子のない印象がそのまま優梨愛に投影されてしまったとも言える。親が何らかの理由でメダルボットの情報を遮断している、だから基弘はメダルボットを知らないのだ。それが同級生たちのほぼ共通の認識だった。


 なぜ遮断しているのか。人生を六年間しか経験していない人間の頭脳など高が知れている。お金がないから仕方がないと言う発想は出て来ても、自分たちの中で不動の地位を確保したメダルボットを受け入れられるのに受け入れない親がいると言う話は及びもつかなかったのだ。

 そして間庭家にお金がないのかもしれないと言う子どもたちの発想に、更にだから節約の為意図的にメダルボットの話を遠ざけているという色を付けたのは子どもたちからの情報を受けた親たちであり、その二段構えのステップにより間庭家は何らかの理由により窮乏していると言う話になったのだ。これがもし普段から親も子も気心の知れた同士である公立の小学校だったら、こんな話にはならなかったであろう。


(こんなに怠惰な人間が私学に……)


 ゲームなどに現を抜かす子ども、いや内容に詳しい事を考えると親もか。そんな人間がこんな私学にまで蔓延していると考えると優梨愛は暗澹たる気持ちになって来る。そんな時間があるぐらいなら勉強させるか、それとも運動させるかすべきだ。

 ストーリー云々言っているが、深いストーリーを感じるためなら小説を読んだ方がよっぽど良い。優秀なストーリーとやらがあっても無駄な物がいろいろくっついていては、そっちに引きずられて肝心のストーリーにたどりつかない危険性がある。その危険性を彼女たちはわかっているのだろうか。優梨愛は内心で深くため息を吐いた。

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