風邪

「何やってるの」


 四月二十四日土曜日。朝七時だと言うのに基弘が起きて来ない。優梨愛が基弘を起こそうと部屋に入ると、基弘が布団の中で顔を真っ赤にしながら息を荒げていた。


 風邪だ。事態を察した優梨愛は努めて冷静に体温計を口にくわえさせパジャマと汗でぬれた下着を脱がせ着替えさせた。

 そして何か食べられそうと言う自分の問いに基弘が力なくだめと言うと、基弘の分の白米をおかゆに炊き直し、炊き上がるまでの間とりあえずスポーツドリンクを飲ませ小学校と英会話教室に今日は休む旨の電話を入れた。

 とても手際良く、極めて正確な対応だった。




「三十八度一分だって?」


 卓美が間庭家にやって来たのは午前九時である。


「健二君までどうして」

「翔太も健二も市立で週休二日だから、あっ普連小って違ったんだっけ。健二ったら基弘君が風邪で倒れたって聞いたらもう絶対お見舞いに行くって」


 十ヶ月になった美佳をあやしながら、卓美は心配そうな顔をしていた。


「うつったらまずいんじゃ」

「大丈夫だっておばさん、それで病院には行ったの?」

「まだ立てないのよ」

「病院ってそんなに遠かったっけ?それともお薬ないの?」

「いや一応薬は飲ませたけどね」


 基弘は未だに布団の中で横たわったままである。顔の赤みは若干引いて安らかそうな寝息を立てているが、顔は未だに苦しげだった。


「良かったらぼくが病院に連れて行こうか?あっもしかしてやってないとか」

「確か十時からだったような」


 実際には間庭家から歩いて三分の所に九時から開く医院があった、すなわちもう既にやっていたのである。


「さすが優梨愛って言うか、本当に正確な対応よね」

「そうですか?」

「私なんか十二年も親やってるのにそういう事になると未だにおたおたしちゃって」


 風邪と気付いてから二十分足らずまでの間に手早く種々の対応を済ませて来た事を優梨愛から聞かされるや、卓美は実に優梨愛らしいと感嘆していたが、そこにいきなり卓美たちがいる居間の隣、寝室からとんでもない音量の叫び声が聞こえて来た。


 その叫び声の主が基弘である事は間違いない、基弘に何かがあったのだ。さしもの優梨愛も矢も盾もたまらずと言った様子で寝室へ向かい早歩きした。


「廊下を走るなって言いませんか?親は子の手本なんです」


 ちょっとどうして早歩きなんかと言う卓美の疑問に優梨愛は早口ながら先ほどと変わらない声色でこう言い返した。


「あーあー…」


 優梨愛と卓美が寝室のドアを開けると、基弘が両目から涙を流しながら全身を震わせていた。シーツの上には真円形の染みが描かれ、青いパジャマのズボンも股間の色が黄色く変わっていた。


「か、母さん、ごめん、ごめんなさい、許して、許して…」


 高熱と発汗で脱水症状になるのを避けるためにスポーツドリンクをペットボトル1本空けさせていた、その上に昨日の夜午後八時に寝てから十三時間余りもの間一度もトイレに行っていない、その事を完全に見落としていた。


「しまった……!」

 優梨愛は自分の失敗に気付き両手で口を押さえ込みがっくりとうなだれた。そして基弘はと言うと先ほどと同じように小刻みに震えるばかりである。


「あーまあしょうがないわね、こんな時だから」

「基弘くん、ぼくだってさ、ついおととい……」

「三日前でしょ」

「ああそうだっけ、とにかくそういう事だからさ」


 健二は週一回ほど布団を濡らしている。六歳児でも六、七人に一人はおねしょをしている、つまり三十人のクラスの中に四、五人はおねしょをしている児童がいる計算である。特段恥ずかしがるような比率ではない。

 ましてや今回の基弘の場合、高熱で体がおかしく大量に水分を摂取しかつ文字通り半日もの間トイレに行かずと様々な悪条件が重なり過ぎていた。


 今回の基弘のおねしょと健二のおねしょとは訳が違うのだが、自分だってそうなんだから恥ずかしがることは何もないよと健二は基弘を慰めるが、基弘は震えるばかりで全く動かない。

 優梨愛はと言うと、早朝の俊敏さが嘘だったかのようにうなだれっぱなしでやっぱり全く動こうとしなかった。


「基弘君、私が着替えさせてあげるから、で優梨愛換えの服どこ?」

「いいです姉さん…私がやりますから…」


 ところが卓美が助けようとすると優梨愛は急に動き出し、下着と雑巾を持ち出しそうになった。


「いいのよいいのよたまにはゆっくり」

「ゆっくりしている間にこの失敗を忘れてしまってはいけません」

「一人でやれる事なんて限界があるんだから、ねえ」

「……………………そうですね、で私は」

「優梨愛は黙ってそこにいるだけでいいの」


 卓美は何とか優梨愛を説き伏せ、健二に運ばせたシーツや下着その他を取り換えた。姉妹としても母親としても六年の差を感じさせるような手際の良さに、優梨愛はじっと見とれてばかりであった、しかしまもなく抑えきれなくなり動いた。

「あっ洗濯」

「優梨愛、だからあなたはそこにいるだけで」

「いやお願いですから!どうか……」

「ったくもう……やりたいの?どうしてもやりたいの?」

「はい………」

「しょうがないわね……」


 今優梨愛がすべきことは肉体的にも精神的にも弱り切っている息子の側にいてやる事のはずだ。もちろんおしっこで濡れたシーツや衣類を脱がせ洗い新しい物を着せる事も重要ではあるが、それは他人でもできるのだ。しかし優梨愛にしてみれば、自分の息子の下着やシーツを洗わせると言う面倒をかけている事がどうにも耐え難かった。普段は気丈な妹が目に涙を浮かべて訴えかけて来た姿で卓美は屈させ、洗濯物を優梨愛に渡させたのだ。

 優梨愛が途中大人しくしていたのは、限界と言う言葉を卓美が使った事が理由である事を卓美は知っている。


 猛勉強を重ねて挑んだ漢検一級に三度も失敗した、その時優梨愛は自分の能力の限界を悟り、そして絶望に打ちひしがれた。その優梨愛が夢を託したのが光弘であり、基弘である。

 自分よりもずっと高い能力を持っている光弘には自分の事など気にかけず自由に能力を発揮してもらいたい、そして基弘には自分のたどり着けなかった高みに、せめて父親と同じ所までは到達してもらいたい。妻となり母親となった優梨愛を支えているのはそういうエネルギーだった、と言うより小学校の頃から優梨愛を動かしていたのはそれに近似したエネルギーだった。

 八十点取ったと思えば八十五点を目指し、水泳で二十五メートル泳げるようになれば五十メートルを目指す。教師からは意欲溢れる生徒として大変受けは良かったが、姉としては正直物足りなかった。


「だいじょうぶ、ひとりでたてるから」


 三歳の時、転んで膝小僧をすりむいた優梨愛に手を差し伸べようとした卓美に優梨愛はそう言い返した。そしてそれっきり一言も痛いと言わず、家に帰って来るや薬を自分で探し始めた。

 結果薬が見つからず結果さすがに母親に塗ってもらったものの、薬が染みて痛かったはずなのに優梨愛は文句一つ言わなかった。強い子だなと思うと同時に、折角姉として面倒を見てあげようと思ったのにと卓美は少しがっかりした。







「でも本当に大丈夫なの?」

「もう三十七度ぴったりまで下がりましたし、何も遠くの大学病院に行くわけじゃないんですから」

「ぼくがついてくよ」

「うつると迷惑だから」

「じゃあ私が行くから」

 一時間後、基弘の熱が下がりある程度元気になったのを見るや、優梨愛は基弘に一人で医院に行くように言った。

 家から三分だしその程度ならばついて行くような甘やかしをする必要もないだろうと言う理屈だが、卓美は反発した。


「……もう……仕方ないですね。いい基弘、余りおばさんに甘えちゃ駄目よ」


 優梨愛は結局卓美の同行を許したが、その顔には不服の二文字が貼り付いていた。


「いやちょっとね…朝からいろいろあって疲れちゃって……四年ぶりかしらね……」


 健二に叔母さんどうしたのと聞かれるや慌てて笑顔を作ったものの、卓美の甘さと基弘の幼さを思うと優梨愛は目の前が暗くなった。


 記憶が正しければ基弘が最後におねしょをしたのはそれぐらい前のはずだと優梨愛は言っているのだ。基弘は現在六歳七ヶ月だから、要するにその前のおねしょと言うのは三歳にもなっていない時期である。

 おねしょと言う言葉が当てはまるのかどうかすらわからないほどの年齢であり、それきり基弘は布団をおしっこで濡らした事はなかったのだ。


「だったらなおさらさあ」


 様々な悪条件が重なっているとは言え、四年ぶりのと言うか物心ついてからはほぼ初とも言っていいおねしょと言う一大事で基弘の心は相当に弱っているはずだ、だからこそ母親に縋りたいはずなのにと言う健二に対し、優梨愛は真剣な表情で健二の肩に手を当て顔を突き合わせた。


「いい。健二君のお母さんやこの叔母さんは、健二君や基弘より先に死んじゃうのよ。だから健二君や基弘が少しでも早く立派な人間として生きて行けるように、親ってのは育てなきゃいけないの、わかる?」

「えっと……」

「まあそういう事だから、あんまりお母さんに甘えてちゃ駄目だって事なの」

「でもおばさんにだってつらいときってあるんでしょ」

「どうしても自分一人じゃ駄目だって時……本当にどうしようもないなって時、そういう時になったら甘えてもいいと思うわ。でも、そういう所に来るまでは我慢して耐えなければいけないのよ。それを繰り返して人間は立派になるの」


 あんなに脅え泣き叫んでいた基弘がまだそういう所まで追い詰められていないのか、はなはだ疑わしい。それに卓美や優梨愛がいずれ死ぬと言われても、健二にはそれがどういう事なのかわからない。今日すぐ母親がいなくなるかもしれない、その時あなたはどうするのと言いたいのだろうが、そんな過酷かつ突拍子もない事を普通の小学校一年生に想像せよと言うのは無理があった。




「二、三日は安静にしてろって」


 やがて基弘が卓美に肩を抱えられながら戻って来た。


「そんなに重いんですか」

「顔に書いてあると思うけど」


 基弘は顔色は真っ赤なのに表情には生気がない。例えれば暗闇の中で蝋燭に照らされた幽霊のような顔とでも言えようか。そして足取りもおぼつかない。


「しかし二、三日となると」

「少なくとも明日一杯はね」

「明日一杯で済めばいいんですが……四月からいきなり躓くのはちょっと」

「躓かない人間なんてどこにもいないわよ、堂々と休ませなさい」

「いやでも……」

「人生の先輩の言う事は素直に聞く物よ。光弘さんだってきっと、と言うか光弘さんは今度いつ日本に帰って来るの」

「六月です、今は北京にいてそれから三日間日本で休んでそれからサンフランシスコにひと月……」

「それって過労って言うんじゃない」

「光弘さんも家では基本的にぐうたらしてますよ。それに海外でも毎日働き詰めな訳じゃあるまいし」

「そうよね、光弘さんだって休んでるのよね、だから基弘君だってたまには休ませるべきよ、思いっきり甘えさせるべきよ」

「そうなんですかねえ……」

「おばさんはどうしようもない時になったら甘えていいって言ってたけど、今はそうじゃないの?」


 あの朝の基弘の脅えっぷり、そして今の基弘の生気のない顔。それがどうしようもない所まで追い詰められていないと言えるのか。


「そんな事ないよ、だ、大丈夫だって……」


 基弘は優梨愛のために必死に反論しようとするが、その声色には全く力がなく、そして自然説得力もなかった。


「いいや大丈夫じゃないわ、言っちゃ悪いけど今の基弘君には体を休める事以外何もできないわ。ゆっくり休んで体力を回復する事が今の基弘君のやるべき事よ」

「そうなの……?」


 この時、優梨愛は病院から返って来た基弘の顔を初めてまじまじと見た。そしてその生気のない面相にさすがに脅えおののき、慌てて靴を脱がせ手を洗わせそして寝かせた。


「薬は」

「毎食後に二錠だって」


 優梨愛は卓美に薬代と診察代を渡すと、力なく寝ていた基弘の傍らに寄り添った。


「何か欲しい物ある?」

「め、め…」


 ようやく生気を取り戻した基弘は優梨愛に縋り付く様な声を上げた。


「何でもいいのよ、素直に言いなさい」

「め…めだ……あっそう、目玉焼き」

「そう、わかったわ」


 目玉焼きを風邪で倒れている子供が欲しがるのか卓美は不顔を歪ませずにいられなかったが、だがその時背負っていた美佳が泣き声を上げ始めた。


「あらあら、おしっこ出ちゃったのね。ほら健二」


 卓美は健二に持たせていたカバンから一枚のおむつを取り出した。そしておしっこで濡れていたおむつを丁寧に畳んでスーパーのレジ袋にしまい込むと、ベビーパウダーをはたき新しいおむつを履かせた。


「それじゃ私は帰るから、基弘君をよろしくね」

「さようならおぱさん」


 おむつを替え終わると卓美は再び美佳を背負い、健二と共に名残惜しそうに間庭家を出た。

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