メダルボット

 入園式の時他の父母が微笑ましげに談笑しているのに対し、優梨愛は笑み一つ見せなかった。緊張して声も出せなかったと言うのならばまだわかるが、実際には優梨愛はまるで物怖じすることなく真剣な表情でメモを取っていた。園長その他からの注意を書きとめているのか、それにしても優梨愛だけまるで別世界の人間かのように晴れやかな雰囲気がなかった。


(あの子は……そしてあの子は……)

 実際優梨愛が何をやっていたかと言うと、先生や他の家庭の保護者、そして園児たちの挙動をつぶさに観察しチェックしていたのである。

(基弘の先生はあの人ね……見た所結構な年齢だし、それだけ手練れているはずだからまずは一安心と言う所かしら)



 品定めと言う言葉が実によく似合う行為である。もっとも、優梨愛にとってはそれが習性であった、日常であった。

 学生時代から、ある人物から得られる物がなさそうだとなると優梨愛は自然と距離を置き始め疎遠になった、逆に実りがありそうとなると親しくなり積極的に付き合った。その結果付き合いは濃かったが、友人の絶対数は少なかった。


 無論、自身がいくら気を付けて判断した所で基弘が望まざる相手と親しくなってしまう危険性は消えない。

 実際、大学時代に悪友との交流でマリファナに手を出し退学させられた生徒を優梨愛は見ている。基弘にそんな人生を歩ませる訳には行かないのだ。入園式が終わって帰宅するや優梨愛はだれそれとは遊んじゃいけませんよ、だれそれと仲良くしなさいと事細かに基弘に言い聞かせた。

 もちろん日々印象は変わる物であるが、優梨愛はその印象が変わるたびに基弘にその旨を述べていた。


 去年、同じ組で仲良くしていた園児が缶ジュースをポイ捨てした。その缶は基弘が拾ってゴミ箱に入れたが、それを見た優梨愛は家で二度とその子と遊んではいけないと基弘に言い聞かせた。


「まずゴミ箱じゃない所にゴミを捨てたら汚いでしょ、ましてや自分の家にゴミを捨てる様な真似をされたら不愉快でしょ、あの子がやったのはそういう事なの」

「でもだったらやめようと言えばいいじゃない」

「それならばお父さんやお母さんが言い聞かせてるはずよ」


 それをしていない、あるいはしているが聞いている様子がない。そういうモラルのない人間と交流させたくない、ましてや真似などされてはたまった物ではない。

 以後優梨愛は基弘がその子に近付くだけで眉を顰め不機嫌になった、結果基弘も母の不興を買いたくない故に自然とその子から離れた。


「悪い事は悪いとはっきり言うのよ、それで考えを変えてくれないのならばその子とは付き合うのをやめなさい、絶対にね」





 いよいよ四月である。普連小学校は間庭家の最寄り駅から電車で二駅である。最寄り駅へ徒歩十分、普連小学校最寄り駅からの距離は徒歩七分。長いとは言えないが小学一年生には決して楽な道程ではない。

 名門私学に通う以上ありふれた話であるが、その短くない道程を注意するより先に優梨愛が言った言葉はそれだった。もちろん基弘も優梨愛と共に何度か普連小学校に行っているから一応道は知っているが。


「でもね四月いっぱい、いやせめて最初の一週間ぐらいは付いて行ってあげるべきじゃない?どんなに基弘君が賢いからと言ったって所詮六歳でしょ」

「確かに昨今物騒ですけどね」

「幼稚園って家から五分なんでしょ?それがいきなり…えーと確か都合二十五分だったっけ、電車で二駅分離れた所に行くだなんて六歳の子には大変じゃない?」


 健二は市立の家から徒歩十分の小学校に通う事になっている。兄の翔太と同じ学校ではあるが、それでも卓美は四月半ばまでは一緒について行くつもりだった。


「三年間通っていた幼稚園からガラッと環境が変わるのよ?知らない道ではないにせよ健二だって慣れない環境に不安があるはずよ、しばらくは一緒に行ってあげた方がいいんじゃない?ましてや基弘君の場合ほとんど誰も知っている人間がいない所に行くのよ、それとも他にあの幼稚園から普連小学校に行く子とかいたりする訳?」

「いませんでした」

「だったら尚更基弘君心細がってるんじゃない?だからこそ」

「そんな事ができますか、あの子にだって見栄と言う物があります」

「健二に恥ずかしくないのって聞いたけどあの子首を横に振ったわ、翔太も同じ事してたって言ったのが理由かもしれないけど」

「翔太君にやらせればいいんじゃないですか?」

「これは私にしかできない事だと思ってるから。もちろん翔太にも翔太しかできない事があるだろうけど」


 甘い人だ、優梨愛は改めてそう思った。基弘にも見栄がと口では言っているが、実際には小学生にもなって通学に付き添うような卓美の甘さが気に入らなかったのだ。


 とりあえず入学式にはついて行った。さすがにメモは取らなかったものの、彼女の脳内ではやはり教師同級生に対する凄まじいまでの選別が行われていた。

 そしてやはりその目付きは鋭く、顔に笑みはない。誰が基弘にとって毒になるか薬になるか、ただそれだけが優梨愛に取って基準だった。




「半分ぐらいいたよ」


 入学式の翌日初めて一人で学校に行き、授業を受けて帰って来た基弘のその言葉に優梨愛は目を剥いた。

 普連小学校と言うのは確かに基弘の二駅が近距離の部類に入り一時間かけて登下校するような子もいる小学校だが、半分の一年生が親と同伴で登校していたと言うのだ。基弘が親たちを見たのは校門であり、最寄り駅まではもっと多くの児童が親と共にやって来ていた。


「ちゃんと見たんだよ。えーと…10、11、12…」


 信じ難かった優梨愛は思わずそうなのと聞き返したが、真剣に訴えかけ指を折り曲げて数え始めた基弘を目の前にして信じざるを得なくなった。

 名門校に通わせる親などそういう物なのかもしれないが、正直甘やかしすぎている。入学が決まってから何度か行って道に慣れさせ覚えさせていないのだろうか。



「ああ、今度の土曜日からね」


 優梨愛は他の親子の甘さを憐れみながら一冊のテキストを基弘の前に置いた。


「こども英語教室のテキストよ。三日後から毎週土曜日に通うから」


 場所は家から徒歩十分、駅と同じ距離だが方向は違う。


「最近は小学校でも英語の授業をやるんだからね」


 基弘がやる気なさげな表情を見せると、また優梨愛は鋭い口調になりながら基弘を睨み付けた。基弘ははいと軽く答えてテキストを読み始めた。

 今回の英語教室の事も、基弘には全く何の予告もない。しかし、基弘が不満に思っているのはそんな事ではない。単に道を覚えるのが面倒くさいだけなのである。


 実際、十一月に合格通知が来てから入学式までの間に基弘は家から普連小学校への道を五回も歩かされた、三回目からは最寄り駅から一人っきりであった。

 基弘も頭は良いので、もう道は覚えていた。だから行って帰って来るのには何の支障もなかったが、だんだん退屈になっていた。

 通学路と言う事かあるのは普通の家ばかりで、一件だけ文房具屋はあったが別段誘惑染みた物はない。


「今月一杯は付き添ってあげるから」


 優梨愛は目一杯の譲歩のつもりで基弘にそう呼びかけた。その瞬間に基弘が極めて嬉しそうに笑ったのを見た優梨愛は情けなくなった。

 もう小学生だと言うのに、この子はいつまで赤ん坊のつもりなのか、母親と一緒がそんなにいいのか。優梨愛が基弘を怒鳴り付けなかったのは、一回で道を覚えるのは無理だろうと言う理性的判断、通学路に比べ誘惑が多いのでかからないようにすると言う教育的判断以上に、怒鳴る気力が湧かなかったからである。






 そんなこんなで始まった小学校生活の二週目の月曜日、基弘のクラスの担任から優梨愛に電話がかかって来た。


「絶対に許さない、何があっても許さないと……」


 基弘がそう言いながら大泣きしていると言うのだ。何を言われたんですか、となるのは必然だろう。


「それがよくわからないんですが……………いやその、どうやら馬鹿だなあと言われた事が理由だそうですが…」


 馬鹿、たったそれだけらしい。優梨愛はそんなまさかと思って聞き返してみたが、基弘君本人が言っている以上としか担任は言わない。




「本当にそれだけだったの?」


 優梨愛は帰宅するや泣き付いて来た基弘にそう質したが、基弘は首を縦に振るばかりで何も言おうとしない。


「お母さんは何でも知ってるよね……?」


 基弘が絞り出すようにそう口に出すと、優梨愛は息子の幼さに憤懣を覚えながらうんとうなずいた。




「じゃあ教えて……メダルボットって何なの?」


 お前まさかメダルボット知らないのか、馬鹿だなあ。そのセリフのせいで基弘は大泣きしたらしい。


「……何それ」


 基弘は優梨愛の口からこぼれたその四文字を聞くや急に泣き止んだ。なんだお母さんも知らないのかじゃあ僕が知らないのは当たり前だと言う事なのだろうか、基弘は母親から飛びのいてごめんねこんなみっともない事しちゃってと頭を下げた。


 実際、優梨愛もメダルボットと言うのが何なのかわからない。優梨愛がわかっている事は、メダルボットを知らないと言う事は小学生、少なくとも普連小学校の児童の中では馬鹿と呼ばれるに値すると言う事だけである。


「メダルボット ゲーム」「メダルボット アニメ」「メダルボット 300万」「メダルボット 攻略」「メダルボット アメイジング」「メダルボット マサロン」


 優梨愛がスマホを開き検索エンジンにメダルボットと入力するや、次々と検索ワード候補が出てきた。


 ゲーム・アニメ・攻略、その3つのワードでメダルボットの大体の正体を察した優梨愛ではあったが、それでも検索のボタンをクリックした。




 アメイジングと言う会社よりちょうど一年前に発売されたメダルボットと言うゲームは、小学生を中心に大ヒットし300万本を売り上げており、この4月からは水曜日午後6時半よりアニメも放映されている。


 優梨愛があちこちのサイトを見漁って知り得た情報はそんな所である。


 スマホの電源を乱暴な手つきで閉じた優梨愛はテーブルで指を鳴らし始めた。


 前途ある子どもたちの時間を無用に食い潰すゲームは、優梨愛にとって最も忌むべき存在であり可愛い基弘から最も遠ざけるべき存在であった。


 そういう物から縁遠いはずの名門小学校にまで蔓延していると思うとそれだけで腹が立って来る。



「魔法怪盗ダルちゃんとか…………何が面白いのかしら」


 優梨愛は三年前のクラス会の事を思い出していた。


 その席で誰だかは忘れたが二十年前にやっていた魔法怪盗ダルちゃんなるアニメの話を持ち出すと、それまで独身者の恋愛だの既婚者の夫との生活だの自分のような子持ちの人間の子どもの近況報告だのの方向で進んでいた会話がいっぺんにそれ一色の方向に染まった。


「そういう事言ったって優梨愛だって」


 見てたって言ってたじゃないと言われたが、それは飽くまで話を合わせるために渋々目を向けていただけで全く面白いと思ってはいなかった。

 事実、話が少しでも深い所に行くと優梨愛は全くついて行けなかった、結果クラス会の中盤から優梨愛は孤立気味になっていた。だが、その事を優梨愛は全く苦痛に思わなかった。そうやってアニメにはまっていた所でクラス会で話を合わせるぐらいにしか役に立たない、他に何かいい事があるのか優梨愛には全くわからなかった。


(大体、幼稚園でそんな話微塵も聞いてなかったわ。一年前に発売されたんなら幼稚園の中でももう少し話題になっててしかるべきじゃないの?なってなかったってのはそういう事よね)


 どうせその程度の物だ、まもなくこの人気もバブルとなって弾けてしまうだろう。別に知らなくたって何の問題もない。


「大丈夫大丈夫、大した事ないから」


 優梨愛はつとめて優しく基弘を慰めた。所詮大して役には立たない事だから知らなくても何の問題もない、気にするには値しない、基弘の言う通りよと。

 



 実際には優梨愛や基弘の前でメダルボットの話題を出すのを避けられていただけであり、基弘のいない所では園児たちはメダルボットについていろいろ話していた。これは嫌われていたと言うよりは気を使われていたと言うのに近く、基弘と優梨愛は知らず知らずの内に園児たちに配慮を強いていたのである。

 十一月に基弘が普連小学校と言う異世界に進学する事が決まってからは尚更であり、園児たちは基弘の前では不用意に口を開かなくなった。そこに嫉妬や羨望の様なマイナスの感情はなかった、その代わりに分厚い壁があった。

 基弘がその分厚い壁を目の前にして平然としていられたのは、自分が懸命に勉強していてそしてそれゆえに賢いと言うプライドがあったからだ。


 頭がいい、それこそが基弘の心を支えるプライドであり、馬鹿という言葉はそのプライドに対する挑戦、いやプライドの粉砕を企むテロ行為であり、そのテロ行為に対し基弘は自分なりの最大限の防衛方法を取ったのである。

 相手を物理的に殴りつける事を優梨愛から絶対的に禁じられている基弘にとって最大限の防衛方法とは自分の武器である頭脳を生かした、これまで習得して来た罵り言葉で相手を非難する事であり、今回もその方法を取っていた。


「豚はぶっ叩いても豚だから、お前みたいな邪知暴虐の輩は、億年兆年億兆年経っても許してやるもんか」


 夏目漱石、太宰治、宮沢賢治の混ぜこぜである。とにかくこれまで読んで来た文学作品の中から謗り言葉を適当に引っ張り出して継ぎ接ぎで並べ立て、僕はお前なんかとは違うんだ、僕を馬鹿呼ばわりする資格なんかお前にはないんだぞと基弘は威圧したつもりだった。


 だがいくら名門校とは言え小学校一年生つまり六歳児にその言葉の意味がわかるはずもなく、何を言っているんだと首を傾げられただけだった。元より泣き声で喚いた言葉である以上本人の狙いである知的な圧力を感じる事は不可能だったし、もっとも冷静に言われた所で、この継ぎ接ぎのセリフから知性を感じるのは無理があった。詰まる所、基弘の物言いは肥大した知識を拳の替わりに振るっただけであり中身は六歳児相応に幼い物だった。


(そう言えば来週予防接種だったわね。一度かかって治れば二度とかからないと言うけどね……)


 でも実際自分の子どもが病気で苦しむ姿を見たい親はいない、だからこそ予防接種をさせてごくわずかな痛みで辛い病気から逃れさせようとする。


(ああいう代物に対する予防接種とかない物かしらね……あるわけないか……)


 メダルボットだの魔法怪盗ダルちゃんだの、あんな子供騙しの時間を吸い取るだけ吸い取って何も残さない様な代物を受け付けなくなるワクチンがあればすぐさま基弘に打ち込みたい。優梨愛はそんな突拍子もない事を考えていた。

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