イワンのばか
もっとも、それで優梨愛のやり方が変わるものでもない。
相変わらず基弘の部屋には一冊の漫画すらなく、文学全集ばかりを読ませられる日々が続いた。
(あの子、諺とか好きみたいね)
そんな基弘が唯一相好を崩し積極的に読みたいと願ったのは、諺や故事成語が載せられた本だった。それとて一冊二千円越えの重たい代物であるが、他の本に比べ随分と積極的に読んでいた。
もっとも、基弘にしてみれば実は余り積極的な話ではなかった。堅苦しく意味のわからない「崇高な文学作品」より、すぐ後に意味が記されておりしっかりと飲み込める諺や故事成語の方がずっと受け入れやすかっただけである。
「こっちも見ておきなさいね」
基弘にハブとマングースの選択をさせている事など全く気付かない優梨愛は相好を崩しながら三枚のポスターを基弘に差し出した。
「これ何?」
「世界地図よ。三枚まとめて揃えて来たから、今父さんがいる所、今度父さんが行く所だけでも覚えておきなさい」
「こんなに必要なの?」
「地球は丸いの、球体なの。それを平面に書き記すのは凄く難しい事なの。だから地図も一枚じゃ足りないの」
楕円形で面積の正しいモルワイデ図法の世界地図、正方形で角度の正しいメルカトル図法の世界地図、真円形で距離の正しい正距方位図法の世界地図。
「父さんはいつ帰って来るの?」
「七日後、基弘が六歳になる誕生日の前の日よ」
そう言われても基弘はやる気が起きない。三枚の世界地図を見るのは面倒だがニューヨークやパリと言う名前ぐらいは知っている、だから探して覚えるのは大変ではない。
問題は父親に対してどう接すればいいかわからないと言う事なのだ。そして優梨愛は後者の理由で基弘が消極的になっているなど思いも寄らず、基弘が怠惰の心を起こしたと思い神経を尖らせた。
「どうしたの?」
本人としてはその感情を最大限に押さえたつもりでその五文字を吐き出したが、それでも基弘の身を竦ませるには十分だった。
「うん、いやなんでも……」
「じゃあ覚えておきなさい」
そして優梨愛は基弘の動揺を察する事なく一方的に話を打ち切った。
「大きくなったな」
「そりゃあねえ、三ヶ月ぶりだからねえ、本当に」
七日後、光弘は家に帰って来た。しかし基弘にしてみれば、光弘に父親と言う気分を持てずにいた。
一年の内二十八日しか日本におらず、そして自分と共に過ごす時間となると二十日を切っているような人間を父親として敬えと言うのが無理がある話だ。そういう父親に対する接し方のわからない基弘は押し黙っているしかなかった。
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのよ、ほらこれ」
優梨愛は基弘の戸惑いなど構うことなくテーブルにモルワイデ図法の地図を広げた。
「この前まで父さんがいた所、どこだったかなーそれでこの後行く場所はどこかなー」
「ここ……そしてここ」
基弘が小声で呟きながらニューヨーク、そしてパリを指差すと優梨愛はえらいえらいと言いながら破顔し基弘の頭を撫でた。
「か、母さん!」
普段全く見ない優梨愛の顔と行動に基弘は混乱してあわわわと叫び、顔を真っ赤にしてキョロキョロし始めた。
「お、おい……」
「大丈夫大丈夫、お父さんの前でいい所を見せられてちょっと浮かれ上がっちゃっただけなんだから」
光弘は何があったんだと言わんばかりの表情をしたものの、優梨愛は全く意に介さない。どちらかという浮かれ上がっているのは優梨愛の方じゃないかと光弘は思ったが、優梨愛の嬉しそうな顔に光弘は気圧されてしまった。
(だからこそ優梨愛なんだけどな……)
光弘と優梨愛は職場恋愛である。幹部候補生であった光弘に対し優梨愛は一般入社であったが、優梨愛の出世欲の強さは社内でも有名だった。
お茶くみコピーの雑用から配属された営業部の活動まで、常に目を輝かせながらこなしていたのだ。
もっとも、優梨愛は社内では余り評判は良くなかった。人並みに上司や先輩と飲みに言ったり同僚と遊んでいたりはしたが、付き合いが悪いと言うよりはこうすればいいのかと言うエッセンスを吸収しようとしているような匂いを醸し出していたのである。
実際、優梨愛は酒付き合いにせよ趣味であったダンスにせよ、どうすればうまくなれるのか極めて真剣に考え、極めて真剣に他者の良い所を吸収しようとしていた。その方向性は間違っていない。
しかし実際問題、仕事の時はともかく息抜きのはずの飲み会やダンスホールの席でまでもそんな覇気を醸し出されてはくつろげない。疲れちゃうよと心配する声もあったが、優梨愛はいや別にの五文字を返しただけであった。
実際優梨愛にしてみれば別に疲れてなどいなかった、全てが自らのステップアップの為に必要だと感じたからであり、その為には疲れたなどと言っていられなかった。
そんな優梨愛がわずか四年で退社したのは、光弘との恋愛にうつつを抜かしたからでも社内で孤立したからでもない。実際プライベートでは余り付き合いはよくなかった優梨愛であったがその仕事ぶりは極めて真面目かつ丁寧で、社内でも出世を見込まれていた程である。だが、内心ではやはり疲弊していたのである。
(頑張っても頑張っても成果が上がらない……)
新入社員が二年や三年頑張った所で、急に出世できる物でもない。もちろん先刻承知であったはずであるが、はっきりとした戦果が出ないとなると不安になって来る。
そんな彼女に止めを刺したのは、漢検だった。
入社三年目の一年間日に三時間以上勉強したのにも関わらず、一年間三度の受験で全て落ちてしまったのである。ちょうどその頃から光弘と交際をしデートするまでに至っていた、と言っても優梨愛の部屋で光弘が優梨愛の勉強に付き合うと言う何とも奇形染みたデートを繰り広げていた優梨愛は、自分の実力の限界を感じ始めていた。
三度目の受験に失敗した後優梨愛は光弘の胸で大泣きした、記憶が正しければ泣き止んだのは一時間は後だ。気丈な優梨愛があそこまで大泣きした結果、光弘は見事に落ちてしまった。
(「男には男の役目があるんでしょ……?私は光弘を信じてるから」)
光弘は基弘が生まれた直後に渉外担当になったのだが、その際優梨愛にお前と基弘を残して行くのが心配だと語った時、優梨愛は強く光弘の手を強く握り締め、大丈夫だからと連呼したのである。
光弘には、自分ができなかった分自由にその才能を生かして欲しい、逆に言えばそういう人間だからこそ優梨愛は光弘を好きになったのである。
そして十一月。基弘は普連小学校に無事合格した。
「おめでとう。で……普連小学校ってどういうとこなの?」
卓美も普連小学校の名前ぐらいは知っている、もっともそれ以上の知識はない。
「校是がこれなんです」
「イワンのばか?……いや名前ぐらいは知ってるけど」
内容は知らないと卓美は首を傾げた。イワンのばかと言えば日本ではトルストイが出した作品が著名である。極めて大雑把に言えば欲の深い二人の兄に対しばかなイワンはまっすぐに働く事しかできないゆえに悪魔の誘惑に惑わされず王となり、誘惑の手の尽きた悪魔は頭を打って地中に埋もれてしまうと言う内容である。
普連小学校では、必ず新入生にイワンのばかを渡していた。征服欲と金銭欲に取り付かれた二人の兄が悪魔の誘惑に負けて破滅していくのに対し、愚直に働いたイワンは悪魔の誘惑を受け流し続ける有様を描いたイワンのばかは、大欲は無欲に似たり・最後に勝つのは真面目な者と言う事を教え込むための最高の教材。それが校長の信念だった。
「まあ、よろしければ差し上げますが」
「いいの?」
「家にありますし」
もちろん、校長が渡すのは小学生にも読める様なごく一部しか漢字を使っていない代物である。だが間庭家にはしっかり装丁されたイワンのばかの本があった。普連小学校には毎朝イワンのばかの朗読を行う授業があったが、その時には家にあるイワンのばかの本を持たせるつもりだと言う。
A4サイズだったのでランドセルに入れるのは問題なかった、が優梨愛が持って来たそのイワンのばかに、卓美は思わず目を剥いてしまった。
「うわっ厚っ……」
そのイワンのばかは卓美が長男にプレゼントした中学生用の簡易英和辞典に匹敵する厚さがあったのだ。当然重く、毎日持ち歩くとなると小学一年生にはきつそうだ。現に優梨愛は両手で抱えて持って来ている。
「その方が体力も鍛えられますし」
実際どんな物が配られるかは優梨愛も知らないのだが、おそらく小学校一年生でも持ち歩けるような軽い物だろう。それを六年かけて読破するのが普連小の伝統のカリキュラムである。
「良かったらちょっと貸してくれない?」
「え?」
「私こういうの全然疎くって……試しにいっぺん読んでみたいのよ」
「いいですよ、けど汚さないでくださいね」
「大丈夫だって」
以前、夏目漱石の本を基弘に読ませた時眠って涎を垂らしてしまい、消えない跡を残してしまった事がある。その時基弘が泣き喚いて頭を下げまくったため怒鳴る事はしなかったものの、その後優梨愛の方が基弘以上に大声を上げて泣き喚いた。
「基弘君は今何を読んでるの?」
「それからです」
「それからって言われても」
「ですからそれからって作品ですよ、夏目漱石の」
「それから」は「坊っちゃん」や「吾輩は猫である」と同じ夏目漱石の作品であるが、「坊っちゃん」や「吾輩は猫である」とは相当に毛色が違う。
「わかるの?内容」
「下地を作っておく事は必要です」
「ああそう言えば、翔太と一緒に陸上の練習してる子が、今度授業で坊っちゃんを読むって話らしいけど」
翔太が五年生である事は優梨愛も知っている。だから、いずれそれぐらいの年齢になればほっといても触れる物である、だから早くに学ばせておいて損はない。
優梨愛は改めて、自分のやり方が間違っていないと確信した。もっとも、その子が中学三年生である事は卓美も知らなかったのだが。
「それはねえ、体にこういう危ない物がいるんだって教えてあげるためにだよ。そうすれば、危ない物が来ても対処できるじゃない」
ここで時はさかのぼるが、十月に幼稚園で予防注射が行われた。注射が行われると知るや、幼稚園児たちは恐怖に震えた。注射が怖くない幼稚園児など滅多にいない。だが基弘はその滅多にいない幼稚園児だった。基弘は何でそんな痛い事なんかするのと言う同級生からの質問にそう答えたのだ。
「よく知ってるね」
「お母さんが教えてくれたからです」
先生は基弘を褒めてくれたが、一緒に注射を受ける組の仲間たちからの視線は冷ややかだった。まず大半の児童は基弘の説明の意味が分かっていない、だからこいつは何を言ってるんだと不可解に思いそして故に不愉快に思う。
また精神的に幼い児童にとっては基弘が先生に褒められているのが面白くなく、そしてまた別の児童には基弘がさかしらぶって威張っているように見えて仕方なかったのである。
基弘にしてみれば懇切丁寧に教えてあげたにすぎない、そこには一かけらの悪意もありはしないのだ。
「間庭さんとこのお子さんってどうも……ねえ」
基弘は幼稚園でも孤立していた。アンパンマンって何って言い出した時点で目に見えていた事態と言えるが、実はそれ以前から孤立気味だったのである。
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