メダルボット
@wizard-T
教育ママ
部屋には本棚が建て付けにされ、そこには教育書や参考書、文学作品などが整然と並べられている。机や椅子は高級ではない物の、整然としている。床は茶色いフローリングで、赤茶の絨毯が敷かれている。
おそらく、この部屋に初めて入った者は主を三十歳以上の教育者と推理するだろう。そしてその推理が正しければ、ここはどうと言う事はない普通の部屋、あるいはやはりありふれた書斎である。
入り口のドアを開けてその部屋に入って来たのは、三十三歳の女性。その理知的な顔つきは、彼女の知力が高等な物である事を示すのに十分だった。
「基弘、何やってるの!」
その女性、間庭優梨愛は部屋に入るなりいきなり怒鳴り声を上げた。
「何って言われても……」
「まだ三十分どころか二十分も経ってないのよ!しっかり椅子に座って読みなさい!」
優梨愛の息子、基弘は絨毯の上に寝そべって本を読んでいた。特段目くじらを立てるに値しない光景である、少しお行儀が悪いかもしれないが、基弘が幼稚園の年長、五歳児と考えれば特段どうと言う事もない話だろう。
「疲れちゃうんだもん」
「たかが一時間で!?………本当にだらしないわね、早く椅子に座りなさい」
優梨愛は眉を吊り上げブツブツ言いながら、基弘を本共々抱え上げ椅子に座らせた。
「いい事、ちゃんと姿勢を正し集中して読みなさい」
基弘が僅かに首を傾げて難色、いや難色とも呼び難い疑問の色を呈しようとすると、優梨愛の顔色が一気に紅潮した。優梨愛は満身の力を込めて机に両手を叩き付けた。
当然物凄い音が鳴り響き、そして机の上の本棚が揺れた。その轟音と優梨愛の物凄い形相に、基弘の顔色は真っ青になった。
「母さんの話を聞いてるの!?」
「はい………」
「声が小さいわよ!!」
「はいっ」
優梨愛は突き刺すような視線を崩さないまま、震える手で本を読み続ける基弘を睨み続けていた。
「ったく、ちょっと見てないとすぐだらけるんだから……」
そして優梨愛はその面相を崩さないまま部屋を見回した。
「……その点だけはしっかりできているようね」
床には塵一つない。そして窓の淵にも。
「よし」
優梨愛は窓の淵を指でなぞるとそう言ってわずかに首を下げ、そして再び鋭い視線を基弘に向けた。
「自分の場所も片付けられないような子は、大きくなっても立派になれないわよ」
まごう事なき正論である。正論だけに基弘は抵抗もせず、わずかに頷きながら本に目を通している。
「声が小さい」
「はい、えーと…じゃま、ち、あばれ…」
「邪知暴虐って読むのそれは」
太宰治全集。それが机の上で広げられている本のタイトルだった。
一冊四千円、とても五歳児に与える様な代物ではない。その本にはフリガナなどない。序文の激怒したの文字を読むのにすら三分かかったのだ。
「しんの…ゆうしゃ…メロスよ」
「今日はもういいわ、ちゃんとしおりを挟みなさい」
優梨愛のその言葉と共に、基弘はしおりを挟み本を閉じ、おぼつかない足取りで二キロはある本を抱え本棚に戻した。
「よろしい」
そしてその間優梨愛は一秒たりとも渋面を崩すことはなかった。
「折角大伯父さんがくれたんだからね、しっかり吸収しなさいよ」
「はい……」
本を戻し終わった基弘は椅子に座り込んでぐったりしていた。
(……何か運動させるべき?)
優梨愛はしかめっ面のままぐったりしている息子にコップ一杯の麦茶を差し出し、その後一瞥たりともせずに基弘の部屋を後にした。
いくら五歳児とは言え、たかが一時間座って本を読むだけなのにどうしてあんなに疲れ果ててしまうのか、優梨愛は不思議で仕方なかった。確かに運動会などで同年代の子どもと比べ遅れを取っているのは知っているが、それでも年中組の時は六人で五十メートル競走をして三位に入ったぐらいだからそれほど体力が劣っている訳ではないはずなのだがと優梨愛は首を捻っていた。
優梨愛の夫、光弘は日本にいない。国際的大企業の渉外担当として、現在はニューヨークに飛んでいる。次に日本に帰って来るのは九月、基弘の誕生日だ。もっとも、一旦日本に帰って来た所で一週間でパリに飛び、そして次に帰って来るのは年末である。去年一年間の内、光弘が日本で過ごしたのは二十八日しかなかった。
当然、基弘の面倒を見る役目は優梨愛がそのほとんどを背負う事になる。
「相変わらず畏まった部屋ね」
翌日。優梨愛の姉・森本卓美が間庭家を訪れた。
「人様をお迎えするってのに汚い部屋にしている方がよっぽど」
「実の姉に向かって人様?」
「物の言いようです、例えば姉さんが見知らぬ他人の家に行った時その家がごちゃついていたらどう思います?」
「まあそうよね、昔っから優梨愛って真面目だからね」
卓美は優梨愛より六つ上である。大学卒業後四年間勤めて職場結婚、寿退職して主婦となったのは卓美も優梨愛も同じである。
「ほら美佳、叔母さんよ」
卓美は腕に抱えている赤ん坊を優梨愛に見せた。だが陽気なリズムで美佳を揺する卓美に優梨愛は渋い顔をした。
「ちょっと、余りそうやって揺する物じゃないですよ」
「もう、ノリが悪いんだから」
「でもその子に何か悪影響があったら」
「はいはい……」
いつもの事とは言え、優梨愛の堅苦しい物言いに卓美は溜め息を吐いた。優梨愛には基弘しか子どもがいないが、卓美には三人子どもがいる。長男の翔太は小学校五年生、次男の健二は基弘と同じ幼稚園の年長、そして美佳が生後二ヶ月である。
優梨愛から言わせれば、我が子をそんな粗雑に扱う姉の振る舞いの方が信じがたかった。
「それで今日はまた何故」
「まあね、特に何もね、単に美佳を見せたかっただけ」
「それと健二君をですか?」
「まあそういうことね」
基弘と健二は居間の隅っこでアンパンマンの絵本を読んでいる。だが基弘がすらすらと読んでいるのに対し、健二は時々つっかえている。
「……これうちのとちがう」
健二の言葉に卓美はどれどれと絵本を見て、そして目を丸くした。
「何これ」
「何って、アンパンマンですよ」
そのアンパンマンの絵本は、「大変です」「困りましたね」とか言う風にひらがなの多くが白く塗りつぶされて漢字に直されており、五歳児には大変読みづらい物になっていたのだ。
「嫌々だったの?」
「いや別に……でも子どもの内からしっかりと」
年中組の時、アンパンマンの好きなキャラクターをと先生に聞かれて、基弘はアンパンマンって何ですかと答えたのである。
組中が驚くやら笑うやらの大騒ぎになった。先生すらアンパンマンを知らない子がいるなんてと愕然としたのである。
「面白いんですかね……?」
「面白くなきゃ続く訳ないじゃない」
それで話を合わせるためにやむなく一冊購入してみた物の、当然ながら平仮名ばかりの文字の羅列に優梨愛は中身を感じる事ができず、全く評価する気になれなかった。
だからせめて漢字を覚えさせるためにとばかり、平仮名を修正液で塗りつぶして漢字を書いたのである。
優梨愛は卓美の身も蓋もない理屈に反論する事も出来ず、それはそうですけどと言いながら首を傾げている。
「テレビ見せてないの?」
「最近のテレビってつまんなくって」
「いやでもさ、昔は私や父さん母さんとかと一緒に」
「今思うと、姉さんを尊敬せずにいられませんよ」
「はあ?」
首を傾げて見せた卓美だったが、その先の優梨愛の答えはわかっていた。
「私より六つも上だって言うのに、あんな子供っぽい物に付き合っていた姉さんを」
「子どもっぽいって、優梨愛が幼稚園児だった時私はまだ小学生よ。十分に子どもよ」
「でも私が幼稚園児の時って姉さんは小学校四~六年生でしょう?背伸びしたくなってくる時期じゃないんですか?こんな子供っぽい物なんかとか」
「ちょっとそれって早すぎやしない?まああなたはそれぐらいの年から好き好んで私が知らないような本を読んでたわよね」
「好きな本を一冊選べって言うからそうしただけなんですけど」
小学校四年生の読書感想文の課題で、優梨愛が選んだのは「かもめのジョナサン」である。
その時高一だった卓美は一読したきり何でこんな物をと思いそれきり手をつけなかったのにだ。もちろん卓美にも読書感想文の宿題はあったが、その時の課題図書を適当に選んで済ませていた。
「それで、お受験する訳?」
「そのつもりですよ」
「昨今のお受験って成績だけ良くてもダメな物じゃないの?」
「もちろん、その事は先刻承知ですけど」
卓美にしてみれば見ただけで目も眩むような名門私学ばかり四つ。面接その他のマニュアルもきっちり揃え、既に対策は完璧だと言うのである。
「あなたも本当に精力的よね」
「我が子の為に骨身を惜しまぬのが母の愛と言う物でしょう」
卓美は優梨愛の圧倒的な威を感じずにいられなかった。その威から逃れるかのように、卓美は優梨愛の出してくれた紅茶を飲み干そうとした。
「えーっ!?」
その時、健二が突然とんでもない高さの叫び声を上げた。卓美は飲んでいた紅茶を吹き出しむせ始め、寝ていた美佳は目が覚めて泣き出してしまった。
「なっ何!」
「お母さん……これ何?」
「知らないの!?」
卓美が胸をさすりながら健二と基弘の方に視線を向けると、健二が両手で携帯ゲーム機を持っていた。
「ちょっと優梨愛…あなた」
「姉さん大丈夫ですか?」
「私は大丈夫よそれより、あなたどういうつもり?」
卓美は胸をさすりながら、優梨愛に混乱を具現化したが如き視線を投げかけた。
「幼稚園でもいるでしょ、もちろん幼稚園に持って来るような子はいないとしても一緒に遊んだり、あるいは基弘君と同じ組のお母さんとかが持ってたり」
「そうでしたっけ……」
実際、優梨愛は父母の集まりで携帯ゲーム機を動かしている母親を見た事はあった、もちろん休憩時間の話であり、無論それは特別ゲームが大好きな母親がたまたま持って来ていただけの話であるが、家に同種のゲーム機を置いている親はかなり多く、そして子どもの為でなく自分の為に動かしている親も多かったのだ。
「高いんでしょう?」
「確かそれ本体で一万五千円、ソフトが…五千円だったかしら」
「うわっ……」
「でもこれは中古店で買ったから本体は一万円、ソフトは三千円よ」
将来何の糧にもなりそうもないゲームなどに二万円も注ぎ込むなど、優梨愛にとっては信じがたい浪費であった。それぐらいなら今家にある作家の大全集本、一冊四千円の代物を五冊買い与えた方がはるかに有効なお金の使い方だ。そう考えている優梨愛は卓美の浪費振りが恐ろしくなり、思わず口に両手を当てて呻いた。
二万円じゃなくて一万三千円と言われてもそういう問題じゃないと優梨愛は言いたかったが、健二が自分を妖怪でも見る様な目で見ている事に気付き、慌ててその言葉を飲み込んだ。
「そう、ですか………」
「でも、基弘君とか」
「欲しくないです」
「ほら基弘もそう言ってますし」
優梨愛にしてみれば、ゲーム機はタブーに近い存在だった。身体能力の向上に貢献できるスポーツならばともかく、ゲームと言う大事な幼少期の時間を凄まじいまでの魔力をもって喰い潰す危険性がある存在はもっとも厄介な敵だった。
だから、テレビでもゲームのCMが始まろうとすると速攻でチャンネルを変え徹底的に遠ざけた。その結果自然CMのないNHKばかり見るようになり、基弘が民放で放映されているアンパンマンを見ていないのもそう考えれば合点の行く話である。
「おーよしよし、美佳、大丈夫だからねー、怖くないからねー」
卓美がしまった忘れていたとばかりに慌て気味に美佳をあやしている有様を、健二はゲーム機を持ちながら呆然と、基弘は何で健二が驚いたのかわからないと言った調子で首を傾げながら、そして優梨愛は不安そうな目で見つめていた。
(昔っからいい加減な人だからなー…)
卓美の適当振りが、優梨愛にとってはなんとも心許なく思えた。幼稚園児に一万三千円の玩具をポンと与えてしまうと言う放漫振りに、思わず卓美が心配になって来た。
「いや別に何もないけど」
優梨愛は卓美が帰る間際に宝くじでも当たったんですかとか言う間の抜けた質問をしてしまった。そうでもなければそんな無駄なお金の使い方をする訳がないと思ったからである、卓美はその間抜けな質問に対し短く笑って否定した。
(あの子にしては愛嬌があるじゃない)
優梨愛は私にとっては浪費なんだろうけどあの人にとっては違うのよね、なんでそれに気付けなかったのと我ながら馬鹿な事を聞いてしまったなと後悔していたが、卓美は四角四面な妹にしては愛嬌のある言葉だと少しほっとしていた。
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