第18話 彼方の日常
「おはよう、エマ」
「あ、ああ。おはよう……」
目を覚ますと、もう日も高い昼前だった。
女王の館のグウェンの私室。ベッドで俺が半身を起こすと、グウェンが扉を開けて入ってきたところだった。
グウェンはノブに手を掛けながら後ろを振り向き、
「ありがとう、イヴお婆ちゃん」
「いいのよ、グッぴー。これはあなたの夫を見物に来たついでなのだもの」
グウェンに続き、背の高い老婆が入ってきた。カートを押し、その上には食事が載っている。
そのことに気付いた俺は、無駄にデカいベッドに腰掛け、
「すまねえな、婆さんよ。あー、と……」
「初めまして、グッぴーの旦那さん。私はイヴレスというものよ」
「は? え?」
婆さんの口した名前に、俺は一瞬で目が覚めた。
何せイヴレスといやあ、世界に名立たる発明家にして魔導学者、いや、最早賢者。ギルドの魔法技術教本には必ず名前が載り、この人に教えを請うためツェンタイルに留学する人間は後を絶たないと聞く。
それほどまでの人間だ。
ベッド脇に立つ白いローブの賢者を前に、俺は恐縮し、
「あんた、いや、貴女があの、ギルド秘蔵の通信魔法を開発した、イヴレス女史? お、俺あその! ルーガで探索者をやってた、エマってもんで!」
「いやだわ、あんな不出来な回路を持ち出して。もう二十年前の技術よ? それにダメ、奴隷に誉め言葉なんて、つまらないにも程があるわね」
ショートボブな白髪だから婆さんと言っちまったが、白い肌はパツパツに張りがあって、シワも殆どねえ。背筋を伸ばした立ち居振る舞いは俺よりも若々しく見える。知性的且つ、溌剌とした人物だ。
イヴレス女史はいたずらっ子の笑みでグウェンを見下ろし、
「グッぴー、夫の躾けがなってないわね」
「イヴお婆ちゃん、エマはこれでいいんだ。だって、エマは師匠の前でも豚にならなかったんだよ?」
「何ですって!? 何て勿体ない人なのかしら!」
イヴレス女史は紫色の瞳を見開き驚きまくっているが、驚きたいのはこっちの方だ。
通信魔法の発明は革命だった。ギルドが国際管理機関なんて言われてんのも、意思疎通の時間距離が大幅に短縮されたおかげだ。それをこの賢者さんは、使い古しだと?
「大賢者が勤める館なんて、やっぱ女王はハンパねえや……」
ここに来て何度目か、数えるのも面倒になったため息を吐くと、グウェンが、
「ここには誰も勤めてないよ?」
「じゃあシヴルの世話はどうすんだ? 奴隷ってのは女王のために働くもんじゃねえのか?」
聞いた俺に、イヴレス女史が先程と同じ笑みで、
「奴隷が働く? まさかそんな、奴隷はただ高まるだけよ。それとも、エマのんはあの女王が他者の働き無しで生きていけないお方だとでも?」
「いや、参ったよ。その通りだ」
ここは絶対感謝森都。俺の常識が通用しない土地だ。つか、エマのん? 何てーか、随分フレンドリーな賢者さんだ。
俺が首肯すると、イヴレス女史は自分の体を突然抱き締め、
「ああ、三十年! 三十年も高まり続けて焦らされて! それでも女王は足りないと仰るの! でもでも私は諦めないわ! 私が人生をかけた研究を、私自身の人生を無価値と認めてもらい、見捨てられるまで! 私は日々悦びと努力を積み重ねてっへええええええええん!!」
天井を仰ぎ、ガックガクに高まり始めた。
クソッ! この婆さん、仕上がってやがる! 当たり前だが手遅れだ……! こんな欲望が世界一の技術力の源泉になるだなんて、知りたくなかったぜ……!
俺が全世界に代わり残念がっていると、イヴレス女史は先程までの盛り上がりをサッと鎮め、冷静な佇まいで、
「ごめんなさいね、グッぴー。私、突然孤独が恋しくなってしまったの。それではエマのん、ごゆっくりー」
いい感じな足取りで退室していった。
二人になった部屋で、俺ははたと気付き、
「あん? じゃあよ、イヴレス女史はなんでこの館にいんだ?」
「師匠に助言をもらいに来てるんだ。この館は出入り自由だから、来たい人が勝手に来る」
「シヴルはあの賢者が教えを乞うほどの識者なのか?」
「そうだよ。でなきゃボクが師匠を師匠と呼ぶはずないじゃない」
「そう、か……」
もうなんか、このままベッドに倒れこんで二度寝かましてえ。
まつろわぬ者が実際にいたら、人の技術や研究はどうなるか。魔女は偉人ってなあ、よく言ったもんだ。あの女王、マジでハンパねえわ……。
無意味に疲れた手で顔を拭うと、自分のなりが目に入った。ブーツは脱いでいるが、それ以外はまんまで寝ちまったらしい。
コートを脱いでベッドの上に置き、魔法で水を出して顔を洗い口をゆすぐ。
ようやくすっきりした俺に、グウェンはカートを押し出し、
「それよりエマ、食事を。冷めちゃうよ」
「……そうだな、ありがてえ。いただきますだ」
礼を言い、朝食を取る。メニューはパンとスープ、小さく切り分けた蒸し肉だ。
俺はフォークで肉を口に運び、その味を楽しみ、
「うまいよ、ありがとな」
「うん、よかった」
グウェンは少し離れたところにある机の前、瀟洒な椅子の上にちょこんと座った。
食事を口に運びながら、考える。考えるのは当然、グウェンのことだ。
やはりグウェンはすげえ奴だ。惚れ直したと言ってもいい。この都で、あの親で、よくぞここまで普通に育ってくれた。奇跡だ。割とマジで。いやマジのマジで。
しかし、だ。
ここツェンタイルは、そのグウェンが安心して暮らせる場所だろうか。
ツェンタイルでの魔女の立場は安泰に思える。しかし、ツェンタイルはビンビンシヴルのための都市であって、グウェンのための場所じゃない。
イヴレス女史には悪いが、俺は気付いちまった。イヴレス女史は、グウェンを通して女王を見ている。昨日の広場の奴等も全く同じ、ビンビンシヴルのことしか目に入っていない。そしてグウェンも、そのことを分かっている。
ツェンタイルが求めるのは唯一、ビンビンシヴルのみ。グウェンが跡取りという立場だったらまた違ったのかもしれねえが、ここ世界の中心に世代交代はあり得ない。
女王は永遠。絶対的な存在だからだ。
心の中で嘆息し、想像する。
ツェンタイルでのグウェンは、透明な存在だったのだろう。誰にも期待されず、ただ女王の寵愛を一身に受け、何不自由なく日々を過ごす。そんな生活の中で、こいつは自分を許せなくなっちまった。
何せあのビンビンシヴルが母ちゃんなんだ。あれを見習って魔女らしくあろうと努力して、こいつはきっと挫折した。
そうだ、グウェンは女王のように振る舞う自信が無いと言った。こいつは強え女だが、極上の屈辱を豚に与えられるような性格じゃない。逃げ出すのも当たり前だ。てか、ぜってえ無理だ。
魔女でも、いや魔女だからこそ、ここにもグウェンの居場所は無い。だが、ルーガよりはマシ。いや、しかし……。
俺が無言で口を動かしていると、椅子の上、俺を眺めていたグウェンが、
「エマ、相談したいことがあるんだけど」
思い詰めた様子で、そう言った。
俺は噛んでいた肉を飲み込み、フォーク片手に頷いて、
「ああ、分かってたさ……」
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