第15話 その名はビンビンシヴル

 黒い森に積もる白い雪。

 灰色の空を見上げ、息を吐く。


「でっ……けえな……」

「あの木をこうして眺めるの、久しぶりだ」


 目の前には雲を突き抜けてそびえる、巨大な大樹。


 アウフツォークを抜けた二日後の夕方、俺達はようやくその都に辿り着いた。


 世界で唯一の樹状迷宮、ツェンタイルを頂くことからそう呼ばれる、奴隷の国。


 絶対感謝森都、ツェンタイル。


「さあ、グウェン。里帰りだ」


 ボロボロになった灰色のマントをなびかせ、俺は道の無い雪の上を歩きだした。腕の中にはマントにくるまれたグウェンがいる。


 木々の間を進んでいると、いつの間にか森が街になっていた。森と街との境界など無く、気が付けば、視界には人の住む世界が広がっていた。


 森と同化し、樹に寄り添って立つ人工物の並び。植物の文様が随所に施され、自然との調和を意識した建築群。その向こう、樹上迷宮を囲むように建てられた円形階層構造の巨大建造物。


 目にして、即理解した。


 世界一の技術力を備えてるって話は、誇張でも何でもなかった。ここに比べりゃルーガは田舎同然だ。


 その証拠に、と俺は足を踏み、確かめる。


 足元には薄っすらと雪に覆われた、剥き出しの地面。何故だか分からねえが、この土、泥が跳ねない。異常なまでに歩きやすい。


 ……これはハンパねえな。仕組みが全く分からねえや。


 木々の街並みと、行きかう人。機能的なローブを着たこの都の住民。その中を感嘆しながら歩いていると、


「おっ……と、すまねえ……」


 意識が途切れ、ふらついちまった。


 グウェンはそんな俺を見上げ、


「エマ、宿を取ろう。まずは休もう。ずっと走りっぱなしで、昨日だって殆ど寝てない」

「いや、まだ駄目だ」

「エマ、お願いだから……」


 地面に下りようとするグウェンを止め、俺は腕に力を入れ直し、


「すまねえ、グウェン。だがこの国の奴隷制度ってやつを、その実情を目にするまで、俺は安心出来ねえんだ」


 そう、何せグウェンはここを出てルーガに来たんだ。


 俺達がこの都に腰を落ち着けるとして、奴隷の扱いってのがどんなもんか確かめてからでねえと、安心して根を下ろせねえ。


 こいつは魔女で、中身だって強い女だ。だからと言って傷付かない訳じゃねえ。いわれのない中傷や差別。そういうもんから、俺はこいつを守りてえんだ。


 そのグウェンは腕の中、きょとんと首を傾げ、


「エマは奴隷に興味があるの?」

「人の生き死にを人が勝手に決め付ける、その在り方が気に喰わねえ」

「奴隷は志願制だよ?」

「なぬ?」


 言って、グウェンは大通りの一つを指差し、


「奴隷の売り出しは定期的にやってるから、うん、今広場に行けば見物できるよ」


 軽っ。なんそれ。


「でも、約束して。確認したらすぐ休むって」

「分かった。俺は大丈夫だ、グウェン」


 グウェンを道に下ろすと、グウェンは俺のマントの端を握り、その場所とやらに案内してくれた。


 柔らかな土が横たわる穏やかな風景。雪のちらつく森の広場に、沢山の人間が集まっていた。


 広場の中心には晒し台なのか、頑丈そうな木の舞台が用意されている。


 その壇上に並ぶ奴等を見て、俺は思わず、


「何、だありゃ……! 桁外れの達人揃いじゃねえか!」


 驚く俺に、グウェンは当然と言った様子で、


「それはそうだよ、奴隷だもの」

「うおおう?」


 グウェンの説明する、奴隷という生き物。


 奴隷とは、屈辱的な悦びを追求する者。そのために主人と認めた人間に仕え、尽くして尽くして尽くしまくる。それは全て、特大の絶望を味わうため。


 徹底的に磨き上げた自分をゴミクズだとけなされ、突き落とされたい。その一瞬の悦楽のためだけに生きて高まる、克己心の塊にして被虐の化身。


 そして、奴隷の作法。


 奴隷は悦びに浸る様を人目に晒してはならない。奴隷が己自身に許すのは、独りぼっちの孤独な空間に閉じこもっての、最低な絶頂のみ。


 奴隷とは人に非ず、豚である。


 要領を得た俺は頭の中で情報を整理し、


「要は求道者か」

「そうだよ」


 壇上に立つ、五人の男女。屈強な体付きに精悍な顔をした男が三人。唯一の女性は見事な肢体のグンバツな女。


 みな露出度の高い、最早紐なんじゃねえかと思える際どい服を身に着けている、言葉通りの恥晒し達。


 だが、一番やべえのは五人の中心に立つ、見た目普通のおっさんだ。


 だらしないぶよぶよの腹に禿げ上がった頭。何処にでもいる普通の中年に見えるが、纏う圧がハンパねえ。ありゃ一度徹底的に鍛え上げた筋肉の上に、わざと卑下されるためのぜい肉を付けたんだ。


 どうやってかは分からねえ。だが、想像を絶する訓練だったろう。


『それではこれより、豚の選定を始めます』


 俺が戦慄しきりでいると、司会と思われる黒いローブを着た上品な姉ちゃんが壇に上がり、拡声の魔法で広場に呼び掛けた。


 すると司会に続き、数人の商人らしき人間が壇上に現れた。あの奴隷達を選び、所有するために来た主人候補なのだろう。あれほどの達人を自分の物に出来るとなりゃ、そりゃ世界中から人が集まんだろうさ。


 商人達は衆人環視の前、目当ての奴隷の前に立ち、罵詈雑言を浴びせ始めた。


 一人の商人が、三番目のおっさん奴隷の頬を叩き、


「こ、この醜い豚野郎め!」

「豚ですが、何か?」


 平然と答えるおっさんに、商人は二の句が継げず赤面した。


 分かる。


 あんな罵りでは、奴隷に悦びを与えられる筈がねえ。壇上の五人は、自分が人以下の豚だと自覚している達人ばかりだ。


 主人候補達は奴隷に向かいあれこれ頑張り続けるが、一目瞭然、どいつもこいつも役不足。


 奴隷の主人になる人間は、奴隷が悦ぶ、屈辱的な倒錯を与えられる人間でなければならない。観衆の前で自分の能力を証明し、奴隷以上に剥き出しにならなければならない。


 でなければ、人は何も感じない。


『そこまで』


 アプローチタイムが終わったのだろう、司会の姉ちゃんが中止を呼び掛けた。そして俺の予想通り、商人達は肩を落として退場していった。


 全員、主人失格。


 壇上に並び立つ、五頭の豚達。人にして豚である猛者共を眺め、俺はこの国の性質に深く納得した。


 あいつ等は他人を踏み台にすることを絶対に考えない。自分の力だけで昇り詰め、最後に突き落とされるのを望む者だ。


 ツェンタイルには一切の犯罪が無く、世界で最も治安がいいことで知られる。眉唾だったが、こんな奴等が集まってりゃ、そりゃ犯罪など起きんだろう。


 俺は感心しながら白い息を吐き、


「なるほどなあ、達人を満足させられるのは達人だけって訳だ。こりゃ一筋縄じゃいかんわなあ」

「そういうこと。他の国が求めるから、ツェンタイルはこうして奴隷市を開いてるけど、買い手が付くことなんて滅多にないよ」


 魔女の子分に相応しい人間であるために、徹底的に己を律し、磨き上げましょう。他人のことは気にしない。全ては自分が何処まで昇り詰められるか、なのです。


 つまりは研鑽者であり、献身者の集い。


 そんな奴等が集まって国が出来ちまうなんて、考えもしなかったぜ。ちっと能力至上主義なきらいはあるが、生まれで身分が決まるルーガよりはよっぽど理解できる。


 俺はいきなり突き付けられたこの都の実態に、力なく笑い、


「しかしまあ、よく物好きが揃ったもんだ。なんでそこまですんのか、俺には分からねえや」


 寒空に呟いた、その時、


『おーっほっほっほ! おーっほっほっほ!』


 突如として広場に響き渡る、超越的な笑い声。俺が声の方を向くと、壇上の右端、何もない空間に豪奢で巨大な扉が出現し、


『何故かですって!?』


 そして、その扉が勢いよく開かれ、


「これがお約束だからよ!」







『こ……』


 粉雪の舞う、灰色の空。世界の中心にそびえる、大樹の麓。


『光臨! 女王、御光臨!』


 人の集う森の広場。奴隷の並ぶ、木の壇上。司会の姉ちゃんが拡声の魔法で叫び、腰を抜かした。


 扉から現れたのは、一人の少女。


 腰まで伸びた長い黒髪に深紅の瞳。

 清楚な刺繍があしらわれた黒い上下の下着と、黒い長手袋。

 この雪の日に白い肌を惜しげもなく晒し、素足で歩く、その姿。


 あの少女こそツェンタイルが、この世界が誇る最強最高齢の女。この世で最も女王で女王な女王にして、お伽話の存在。


 魔女、ビンビンシヴル。


 広場に集まった人間のことなど一切興味が無い。冷酷な表情で黒髪をなびかせ嫣然と歩く、威風の女王。放心した群衆に混じり、俺はその存在を、ただ眺めることしか出来ないでいた。


 目が離せない。


 全身の細胞があの女王を追い求め、女王に関わる全ての要素を逃さず取り込もうとしている。


 そんな静寂の中、女王がぽつりと、


「寒いわね」


 真っ赤な唇から、ほうと息をこぼし、


「凍えそうよ?」


 んな恰好してりゃ、当たり前だ。


 そう思いつつも、気付けば俺はマントと上着を脱ぎ捨て、全力でスクワットを始めていた。周囲の男も俺同様上半身を露出させ、マジ顔で運動を開始している。


 何のために? 決まってる。女王に熱を捧げるためだ、


「はっ……! はっ……!」


 やがて、俺達の汗と熱で広場が程よく温まると、女王は満足そうに両腕を広げ、その熱に身を浸らせた。


 白い肌に生まれる、しっとりとした艶。ここからでも分かる、感じる、滑らかに輝く命の表面。


 それだけで、


「う、おお……!」


 何たる光栄。


 あまりの喜びに諸手が挙がる。俺達が発した熱が、女王を温めている。俺達の運動量をあの女王が纏っている。それがたまらなく嬉しい。それだけで満たされる。


 ありがてえ……!


 俺達の歓喜の中、女王が両手を広げ歩いていく。


 ありがてえ……!!


 群衆の意識が一つになった、その時、広場に乾いた音が響き渡った。


 平手、ビンタだ。


 女王が壇上左端の男に平手打ちを食らわせただけ、それだけで、


「んほぅっ……!!」


 奴隷の男が声を漏らし、全身を快感に震わせた。観衆の視線が男の中心に集中し、俺は思わず手で口を押えちまった。


 危ねえ……!


 知覚の外から浴びせられた、女王による突然のご褒美。あれで昂らねえ男は、豚じゃねえ!


 グウェンに聞いた奴隷の作法。もし一滴でも愉悦を漏らしてしまったら、その瞬間に奴隷としての豚生が潰えてしまう。


 男は荒い息を吐いて呼吸を整え、何とか何かを我慢し、平静を取り繕った。その姿に広場が安堵した、次の瞬間、


「んいぃっ……!!」


 再び乾いた音が鳴り響き、豚の喜声が上がった。


 二人目、二撃目。


 男の頬に刻まれた、小さな赤い魅惑の紅葉。期待通りの未来が訪れた満足感に、二人目の男はあっさりと理性を手放し、痙攣しつつ耐え忍んだ。


 まさか、これを続ける気なのか。


 群衆が動揺する、その中。女王が三人目の前を……、


「ッッ……!!」


 息を飲む。その行動に観衆全てが驚愕し、絶望する。


 あの女王! 通り過ぎやがった……!


 何もせず、目もくれず、女王が三人目の前を素通りした。


 完全放置を喰らった、見た目普通のおっさんの表情が困惑で歪む。


 何故? 分からない。恐怖。悔しい。でも感じちゃう。何故自分には苦痛をいただけないのか。自分にはその価値すらないのか。放置により徐々に昂る体。価値を認めてもらえなかった自分にやっぱり感じちゃう。いやん!


 何て、こった……。


 広場を憐憫が包んだ、その時、混乱の渦中に放たれた平手の音、三撃目だ。


 そして、


「はあ……」


 三人目の豚に振り向き、平手打ちを終えた女王が小さくため息を吐いた。


「んもぅっ……!!」


 絶望からのご褒美と、女王の落胆。


 女王から褒美を与えられた。しかし、そのために女王をわざわざ振り返らせてしまった。その事実は三頭目の豚の精神を瓦解させるには充分だった。しかし……、


「ッッ……!!」


 立っている。


 三頭目の豚は白目を剥きながらも何とか耐え、二本の醜い足で立っている。


 見事だ……! 豚よ……!


 緊張の中、女王は再び歩き始める。そして四頭目、四撃目。


 四番目のメス豚は心構えに余裕があったのだろう。女王の平手を思う存分味わい、心に留めようとしているのが伺えた。


 だがしかし、


 去り際、女王が左手の人差し指で自分の唇に触れ、その指で女の下唇をゆっくりなぞり、ルージュを引いた。


 マーキングだ。


「んあぁっ……!!」


 今すぐ自分の唇にむしゃぶり付きたい。女王の成分を体に取り込みたい。その欲求を我慢することすら快感になる。あまりにもあまりにもなご褒美の形に、四頭目の豚は全身を桃色に染めて悶えすくんだ。


 次は五頭目。


 張り詰める緊張感。何をされるのか、されないのか分からない。未知への恐怖。


 乾いた音が鳴り、五回目の平手がつつがなく終わった。


 五頭目の豚が安堵し、意識を緩めた刹那、女王が人差し指で奴隷の顎に触れ、視線を合わせた。


 男の目線が語る、男の心境。


 今、女王が見る世界に自分がいる。今、女王の視界には自分だけがいる。


 一瞬の顎クイ。そして女王は男から離れ、歩き始める。


 ああ、女王が自分の視界から消えていく。女王の世界から、自分が外されていく。女王の世界に、自分はひと欠けらの存在も残せない。


「んごぃっ……!!」


 その絶望が、最後の豚の精神を崩壊寸前まで追い詰めた。でも頑張って立ってる。すごい。


 そして、俺達は気付く。


 壇上の豚は五頭だけ、つまり、この時間がもう終わってしまうということに。


 待ってくれ……! 俺達を置いて行かないでくれ……!


 群衆全てが両手を上げ、小さな背中を追い求める。だが、女王は歩く。壇上端の扉に向かい、何処までも無慈悲に、当たり前に。


「待ッ……!!」


 その姿が扉に消える直前、俺達の願いに応えるように、女王が黒髪を舞わせ振り向いた。


 自分以外は、全て豚。


 その意識を体現するように、壇上の奴隷はおろか広場に集まった俺達でさえもそう見下ろす、怜悧で傲慢な真紅の瞳。


 んほうっ……!!


 俺達がその視線に悦っていると、女王は両手の長手袋をゆっくりと外し、広場へ放った。


 放たれた長手袋は風に乗ってほどけ、光り輝く糸へと変わる。そして空気に溶け、女王の芳香が俺達に降り注いだ。


 広場に集う人の手が波となり、女王の残滓に触れ、全てが喜びで満たされる。


 束の間の至高。


 その忘我の彼方、壇上の中心、三頭目の豚が最後の力を振り絞り、


「あ、あり……」


 五頭の豚が、声を揃え、


「「ありがとうございましたァ!!」」


 全身全霊、感謝の言葉。


 その声が届いたのか、扉が閉まる直前、女王が髪をかき上げ、みずみずしい背中をさらけ出した。


 それから、ほんの少しだけ振り返り、


「よろしくってよ……!」


 そして俺達の願いとは裏腹に、豪奢な扉はあっさりと締まり、宙に消えた。


「う、おお……!」


 息がこぼれる。世界を恍惚が支配する。


 皆、目は開いているが、その瞳には何も映していない。皆、思い描いている。数瞬前までこの場にいた、あの女王の姿を。


 これが絶対感謝森都。あれが女王、ビンビンシヴル。


 壇上に立ち並ぶ五頭の豚。苦痛と快感と恥辱と尊敬に膝を笑わせながら、それでも奴等は立っている。そして耐えている。


 心の底から、思う。


 豚よ、お前は美しい。


「くはっ……!」


 とてつもない充足感と忘れていた疲労感に襲われ、俺は地面に膝を突いて這いつくばった。体と心が、あらゆる意味で限界を迎えたんだ。


 俺は荒い息を吐き、震える声で、


「分かったよ、グウェン……。奴隷ってのは生き方だ。崇高で厳格な、人の生き様だ……」


 服を着るのも忘れ、剥き出しの上半身からぼたぼたと脂汗を落とし、


「そして、女王ビンビンシヴル。あいつはやべえ、あいつはやば過ぎる……」


 目をつぶり、吐き出すように、


「人間じゃ、ねえ……!!」


 そうだ。あの女王を前に、俺はいつの間にか正気を失っていた。あれは、あの女王は、完全に俺の理解を超えた存在だった……!


 雪のちらつく森の都。歓喜の表情で跪く、豚の群れ。


 氷の魔女は広場に一人、平然とした様子で、


「言い難いんだけど、エマ」


 グウェンが告げる、あまりのことで俺が失念していた、当然の帰結。


「あれがボクの師匠なんだ」


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