第8話 氾濫

 それから数日、俺達は何事もなく過ごした。


 買い物にヴァイス見物、知り合いを訪れての挨拶回り。グウェンと二人、目的も無くただ散歩したり。目当ての店で食事をし、酒を飲んだり。


 探索者稼業で忙しかった頃は出来なかった、当たり前の日常を過ごした。


 寝て起きて食って、風呂に入って、また横になって。その繰り返し。退屈の無い、安らかな積み重ね。


 グウェンとの会話も、不思議と話のタネは尽きなかった。


 グウェンは俺が木の細工をすると知ってから、思い付いた色々なものをモチーフにどうかと薦めてきた。木や花や動物、雲に風に雪。目に映る沢山のものを、描けたら見せてとせがんできた。


 そうやって話すうちに、俺はようやく、今が秋だと気が付いた。季節なんて当たり前のことを見逃すほど、仕事で忙殺されていたのだと気が付いた。


 グウェンと一緒になって、俺はようやくこの世界に立ち戻った。


 独り身では分からなかった、人が二人で生活するということ。気付くことも、考えることも二倍。出来ることも二人分。


 お互いの頭で理解し、体に馴染ませていく、夫婦の日常を作る毎日。これからはこういう時間だけを考え望み、生きていく。


 俺は、それがたまらなく嬉しかった。


「んんー。意外だが、やっぱうめえなこれ」

「不思議だね。でも、おいしい」


 いつも通りのヴァイスの借り宿。


 調理台を前に並んで立ち、味見用小皿をすすりながら、俺達は感心したように顔を見合わせた。


 俺達は今、料理をしている。理由はない。朝食後、話の流れでお互い気になったからやってみようと始めただけだ。


 作っているのはジャガイモと林檎をこしたスープ。


 市場のおかみさんから聞いたレシピで、しょっぱいもんに甘いもんを? と俺達二人は首を傾げたもんだが、なかなかどうして。肉料理と一緒に食えば、更に酸味が引き立つに違いねえ。


 俺はグウェンから小皿を受け取り、洗って倉庫へ。そして、もう一度鍋の中を覗き込み、


「あとはゆっくり火を入れて、と。お楽しみは昼、いや夕食か?」

「そうだね。昼は外で食べよう」


 火の調子を確かめた俺はベッドに転がり、空間から手帳を取り出した。グウェンはそんな俺の上に転がってきて、


「エマ、本出して。赤い背表紙の」

「こないだの続きだろ。よっ……と」

「ありがとう」


 本をグウェンに渡し、俺は枕を背中に挟んでまったりモードに突入した。グウェンも俺の体をクッション代わりに本を読み始める。


 ごろごろするだけの、何もない午前の時間。


 俺は装飾のパターンを手帳に描き留めながら、


「あー、あれだ。怠け過ぎとかよ、怒ってもいいんだぜ?」

「怒らないし、叱らない。ボクもこういう生活がしたかった」


 本のページをめくるグウェンを視界の端に、俺は少し可笑しくなって、


「俺らはダメな夫婦だなあ」

「本音を言えば、エマにはもっと体を休めて欲しい」

「まともな休日なんて無かったもんなあ……」


 忙しかった頃を思い出し、すぐにその思考を断ち切った。今、俺達はしたいこと以外考えない。それでいいし、それがいいからだ。


 俺とグウェン。お互いの今だけを積み重ねる、ゆっくりとした時間。


 俺達がそんな時を過ごしていると、


「俺だ、いるか?」

「開いてるぜ」


 扉を叩く音と同時に聞こえた声に、俺は顔を上げた。扉が開くと、声の主であるガランダが顔を出し、


「氾濫だ。深層に取り残された奴等の救助を頼みたい」


 その報せに、俺達はすぐさま飛び起き、


「グウェン」

「分かってる」


 手帳と本を空間倉庫に入れ、調理台の火を消し寸胴鍋もそのまま倉庫へ。俺はブーツを履いて、剣を腰に。グウェンも靴を履き、ローブを引っ掛け準備完了。


 探索者はいつ何があるか分からない。立つ鳥跡を濁さず。宿を引き払う準備は、いつだって出来ている。


 俺が左手を差し出すと、グウェンがぴょんと俺の体にしがみつき、


「行こう、エマ。人命救助は別枠だ」

「当然だな」







 迷宮の氾濫。


 スタンピード、フラッドとも呼ばれてるが、言い方なんざどうでもいい。


 迷宮における魔力の新陳代謝、循環機能が原因だと言われてるが、その変成に刺激された魔物が階層を上がり、地上に溢れ出ることを言う。


 迷宮へと続く林の小道を足早に歩きながら、ガランダは俺に、


「役には立たんと思うが、最新の情報だ」

「分かった。グウェン、頼む」

「うん」


 ガランダから受け取った地図の束をグウェンに渡す。


 人の足で踏み固められた土の道。目的地に近づくにつれ、魔物と共に氾濫で溢れた魔力が黒い霧となり、周囲の日差しを遮っていく。


 俺は霧で陰る青い空に一度目をやり、


「ホストは?」

「今三層で喰い止めてる。もう後が無い、何としても俺達で仕留める」


 ホスト、ダンジョンマスター。これも呼び名は沢山あるが、分かればいい。


 迷宮最下層にはその迷宮の主となる魔物がいる。迷宮の核を内包した、大物だ。氾濫の多くは、そのホストが地上に向けて上がってくることで起きる。


 ホストを倒すことには意味がある。倒すことができれば他の魔物の数が減り、迷宮は一時的に鎮静化する。つまり、採取と生産の安全性が飛躍的に高まる。


 しかし、それは一時的なもの。一週間と経たずに新たなホストが生まれ、迷宮は再び活動を開始する。


 俺はガランダの緊張をほぐすように、


「ここの面子なら楽勝さ。で、迷宮に取り残された奴等は?」

「確認が取れていないパーティーは三つ。内一つは三十七層が目的地だった。上がってきているとは思うが、帰還予定日からもう三日経ってる」

「ギリギリだな……。間抜け共は何て?」


 早足に歩きながら、ガランダは返事代わりに顎をしゃくった。その方向、木立の合間に見える、赤に金の装飾が施された胸糞悪い天幕が三つ。


「対策を検討し、討伐部隊を編成中。それまで現場でもたせろ、だとよ」

「クソ貴族め」


 こんな時だけ様子見とは、相変わらずのご立派なやり口には反吐が出ますね、と。


 ガランダは天幕から再び前へと視線を戻し、


「おそらく一番深層にいるのは……」

「イリーザか」


 俺の言葉に、腕の中のグウェンがほんの一瞬身を固くする。


 イリーザ達は優秀さがアダになった。今回のことは、ただ運が無かっただけだ。


 ガランダはグウェンを抱えなおした俺を横目に、


「それで、お前とグウェンの分担なんだが」

「俺等は二人で深層に向かう」

「二人で? グウェンを抱えたまま行く気か?」

「ああ、前とは勝手が変わったんだ」

「見せつけやがって」

「うるせえ、うらやめ」

「頼むぞ」

「ああ、任せとけ」


 ガランダが立ち止まり、俺は足を速める。


 木立が開け、目の前には迷宮の入り口。岩場を背にそびえる石造りの大きな門。門前の広場では、溢れた魔物との小競り合いが起こっている。


 俺は靴底に空間の穴を開き、即トップスピードに乗り、


「わりいな、通るぜ!」


 猪型の魔物に斬りかかる探索者たちの頭上を飛び越え、開いた門から迷宮に突入。白い光の空間を通り抜け、第一層へ。


 青空の下、視界に広がるのは、魔物に踏み潰された畑の風景。


 せめてこれだけでもと収穫を急ぐ奴。門に向かう魔物に飛び掛かる奴。その全てを他に任せ、宙を踏んで駆け抜ける。


 二層の樹林地帯も同様に通り過ぎ、第三層に到着。


 記憶と違う、巨大な大空洞に姿を変えた空間を行くと、上半身が歪に膨れ上がった人型の巨躯が見えてきた。


 ホストだ。


 牛の頭に猛々しい二本の角を生やし、右の怪腕で大斧を振り回し、この街の探索者達とやりあっている。


 戦況は優勢にも劣勢にも見えないが、ヴァイスには国内でも有数の使い手が集まっている。こいつ等なら、必ず何とかするだろう。


 そう確信した俺は天井ギリギリまで駆け上がり、その戦闘を飛び越える。火花を散らす地上、首に金のプレートをぶらさげた兄ちゃんが、ホストの角をかすめて飛ぶ俺に気付き、


「おい、中級のオッサン! 一人じゃ無茶だ!」

「よく見ろよ」


 着地し、俺は再加速。振り返らず、グウェンを抱く腕に力を込め、


「嫁と一緒だろうが」


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