第3話 砂漠の星空
「 ジョシュアは、疲れているはずなのに、なかなか眠れそうになかった。絵莉花はもう眠っただろうか。絵莉花も今夜は早く自分の部屋に戻った。絵莉花の部屋は隣だけれど、ジョシュアの眠っている間に絵莉花が一人で何処かに行ってしまい、二度と帰ってこないのではないかと気になった。
けれど、やはり疲れていたのだろう。何時しかジョシュアは眠りに落ちていた。
どれくらい眠っていたのだろうか。ふと物音に目を覚まし、気になって廊下のドアを開けると、絵莉花が、外出の用意をして、今しも出掛けるところだった。
「まだ起きていたの?」
驚いたように絵莉花が言った。
「眠れないんだ。それより、何処かに行くの?」
ドアを開けて立ったままジョシュアは訊いた。
「ちょっと砂漠をドライブして来ようと思うのよ」
絵莉花は微笑みを浮かべ、さらりと答えた。
「こんな時間から? じゃあ、僕も行くよ」
「直ぐに帰ってくるわ。砂漠の夜風に吹かれてくるだけだし、付いてきても、きっと面白くなんかないわよ」
「でも、ひとりじゃ危ないよ。僕は男だからね、何かあったら絵莉花を守れるよ」
何があっても絵莉花を一人で行かせたりするものかと、ジョシュアは思った。
「それじゃあ、寒いからセーターかジャケットを着ていらっしゃい」
ジョシュアは、急いでジャケットを掴んで部屋を出た。
絵莉花の運転するジープは砂漠の中を一直線に走るアスファルトの道路を一時間程走った。
それから、絵莉花はハンドルを切り、道の無い砂の中にジープを進めた。何処を走っているのか、ジョシュアには見当もつかなかったが、絵莉花の顔に不安な色はなかった。それに、ジープには方位計も付いている。ジョシュアは安心して空を見上げた。
砂漠の夜空は明るかった。夜も眠る事なく活動を続けるニュー・トーキョーでは、街を照らす人工灯に照らされ、夜でも空は白っぽくぼんやり光っているが、そんな明るさでは無く、白い色の全く混じっていない、ただただ深く、それでいて明るい群青色をしているのだった。その群青色の上に、あの夏の日の朝露を振り撒いたかのように、数え切れない星が輝いていた。
急激に冷やされた砂の上を渡る風は、昼間の暑さが嘘のように、ジャケットを着ていても思わず震える程だった。
やがて、ジープは静かに停止した。ヘッドライトを消すと、辺りは青い薄闇に閉ざされた。月は既に地平線に沈んでいた。近くには
「怖いような星空だね」
ジョシュアがそう言うと、絵莉花は微笑み、空を仰いで言った。
「寝ころんで空を見てごらんなさい。まるで、地球の上ではなくて、宇宙空間に居るようよ」
ジョシュアは絵莉花の言葉に従い、車から降りて砂の上に仰向けに寝ころんだ。星空が、いきなりジョシュアを押し包むように迫ってきた。
「まるで、世界中に絵莉花と僕の二人だけしか居ないみたいだ」
「見渡す限りの砂の大地、見上げれば幾千万の星の海。私、こうやって、もう一度夜風に吹かれたいと、ずっと思っていたのよ」
絵莉花は、座席の背の上に腰掛け、風の音に聞き入るかのように、黙って目を閉じた。
「こんな道も無い所で怖くないの?」
「ジョシュアは怖い?」
「僕は男だもの。勿論怖くなんかないさ」
ジョシュアは、もし絵莉花が一緒でなかったら少し怖いかもしれないと思いながら答えた。
「辺りには人工的な物も音も何も無い。此処では、自分が人間であることを忘れて、ただの一個の生き物として宇宙に同化できる。一晩中、ずっとこうして居たいくらい」
絵莉花は目を開け、遠い地平線を見つめながら言った。そして絵莉花は車を降り、ジョシュアの隣に腰を下ろすと、やがてそのまま砂の上に仰向けに寝て再び目を閉じた。
「大地に抱かれて、私の身体は地球の夢を見る。そのうち、私の心は身体の事なんか忘れて、そのまま風に同化して、空の高みに上っていくわ。ジェット・ストリームになって地球を回って、だんだん速く、だんだん高く、もっと速く、もっと高く……。普通のジェット・ストリームは秒速90メートルがせいぜいだけれど、私はもっともっと速く回るの。そして、何時か秒速11.2キロメートルになったら、今度は宇宙気流になって星々の間を巡るのよ」
何時しか風も止んでいた。虫の声さえしなかった。絵莉花は、まるで、本当に身体の事を忘れ、魂が抜け出たかのように、ひっそりと砂の上に横たわっていた。
「絵莉花?」
ジョシュアは不安にかられて呼び掛けた。
「なに?」
その声に、ジョシュアは安堵の息を洩らした。
「ううん、何でもない」
絵莉花は目を開け、砂漠に同化したようにじっとして、ずっと星空を見つめていた。
ジョシュアも砂の上に仰向けに寝たまま、再び吹き始めた風の音に耳を済ませた。随分長い時間だったような気がする。
ジョシュアは、絵莉花は何を考えているのだろうと、そればかりが気になったが、今はこうして二人並んで星を眺めていられる幸運に浸ろうと思った。
「そろそろ帰りましょうか」
思い出したように絵莉花が言った。
「こんな道標も無いところ、磁石が無かった頃は大変だったろうね」
ジョシュアは、残念なような、半分ほっとしたような、そんな気持ちだった。
「昔から、砂漠はオールの使えない海だと言うわ。太平洋の真ん中に居る時のように、砂漠を行く時は空を見上げればいい。星が何時でも行くべき方向を示してくれるわ」
「あれがシリウスかな?」
ジョシュアは正面の青白く明るい大きな星を指差して尋ねた。
「大犬座のシリウスはもっと上の方よ。あれは竜骨座のカノープス。トーキョーからは地平線すれすれで殆ど見えないけれど、ここではシリウスの次に明るい星よ。天体望遠鏡で見ると、エータ星を取り囲んで赤い見事な散光星雲があってね、まるで本当に赤い竜が空を横切っていくように迫力があるわ」
絵莉花は思い出を辿るようにゆっくりと語った。
「絵莉花は星にも詳しいんだね」
ジョシュアがそう言うと、絵莉花は、穏やかな微笑みを浮かべて答えた。
「そうでもないわ。以前に、やっぱりこの場所で教わったのよ」
「ふーん。誰に?」
「渚苑よ。その後、ハルファ天文台で実際に見せてもらったの」
それから絵莉花は、振り返って空を仰ぎ、ひとつの星を指差した。
「そしてあれが北極星。私達は、あの星を背にして進めばいいわ。でも、もっと確かな道標がある。ほら、あそこで白く光ってる、あれがSRS-Ⅲ。あの真下にハルファ宇宙センターがある。私達、あの銀色の人工の星に向かって進めばいいの」
絵莉花の眼差しは、まるで、昔家族で南米を旅行した時に見た地下の泉セノーテのように、深く静かだった。
「少し長く居過ぎたわね。もうすぐ明るくなるわ。急いで帰りましょう」
絵莉花は再び運転席に戻り、ジョシュアが乗り込むとエンジンを始動させた。
それまでの幻想をかき消すようにジープは唸りをあげ、ヘッドライトが砂漠の青い薄闇を切り裂いた。
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