第2話 クローバー

「貴女が来ると話したら、八島教授もとても喜んでいらしたわよ。貴女を実の娘のように可愛がっていらっしゃったものね。早速ご挨拶に伺うでしょう?」

 レイチェルは、さも当然のように絵莉花に言った。

「そうね、明日にでも」

 絵莉花は気が進まないように答える。

「まあ、何遠慮してるのよ。まったく、貴女って日本人なんだから」

 絵莉花は、レイチェルに背中を押されるようにして八島教授の研究室のドアを叩いた。ジョシュアもレイチェルに促されるまま、絵莉花に続いて部屋に入った。

 八島教授は、白髪ながら矍鑠かくしゃくとした老人だった。レイチェルが声を掛けると、仕事を中断し、嬉しそうに両腕を広げて絵莉花を迎えた。

「絵莉花のお陰で、研究はいい成果を上げているよ。またここで研究を手伝ってくれると嬉しいのだがね」

 八島教授は、懐かしそうに絵莉花の手を取り、気さくな笑顔で言った。

「私も、また教授のお手伝いが出来るといいと思ってはいるのですが……」

 絵莉花は口籠もるように俯いた。

「そうか、婚約者が居るんだったな。無理を言うと、そこに居る坊やに叱られそうだな」

 ジョシュアは、知らず知らず八島教授を睨むような目つきで見ていたのかもしれない。ジョシュアは赤くなって名を名乗り、宜しくと言った。

「ジェイムズ・カートン氏の弟さんだね。よく似ておる」

「兄の事を知っているんですか?」とジョシュアは聞いた。

「ジェイムズも私の教え子だよ。もっとも、教えたのは一般教養の生物だけだがね。それに、ユニヴァーサル・コーポレーションは、ハルファ宇宙センターの大事なスポンサーの一つだからね」

 ユニヴァーサル・コーポレーションはジョシュアの兄ジェイムズが勤めている会社で、ジェイムズはそのトーキョー支社長なのだった。

「素敵な姉さんを持てる君が羨ましいね」

 八島教授は、農夫のように日に焼けた顔に笑みを浮かべ、労るような優しい目をして言った。


 

 その夜、ジョシュアは、疲れたろうから早く休むようにと言われ、夜八時には部屋に引き上げた。

 日本との時差は通常マイナス七時間だが、夏時間の今はマイナス六時間になっている。ニュー・トーキョーでは既に午前二時の筈だったが、素直にベッドに横になったものの、簡単に眠れそうも無く、見るともなく天井の模様を眺めていた。

 白地にグレーの、クローバーの模様。やがてその模様は、ジョシュアの頭の中で鮮やかな若草色に染まり、朝露に濡れ、ふるふると清しい風の中で揺れた。

 ニュー・トーキョー郊外の、ジョシュアの家の庭。ある夏の朝、ジョシュアは、九歳になる少し前だった。七年前のその日の事を、ジョシュアは今も忘れていない。


 ジョシュアはバスでインターナショナル・スクールに通っていたが、その日は学校は休みで、おまけに天気も頗る良かった。庭に出てみると、芝生に混じってあちこちに群がって生えているハート型の白爪草の葉の上で、朝露がきらきらと光っていた。触れると、水の玉はころころと転がって他の葉の上に移り、更に転がって芝生の上に落ちた。庭一面に真珠をばら撒いたように、あちこちで、きらきら、きらきらと光っていた。

 見上げる空は咲いたばかりの矢車菊の花のように青く、まだ空気は冷ややかで、吸い込むと、頭も喉も肺も冷たいソーダ水を飲んだように爽快になった。遠くでカッコウが鳴いていた。ジョシュアは嬉しくなって、履いていた靴を脱ぎ捨て、裸足になってそこらを駆け回った。

「あら、素敵ね。まるでクローバーと真珠の絨毯ね」

 振り向くと、庭の林檎の木の下に、真っ白い衿のセーラー服に白い麦藁帽子を被った少女が居た。何処か懐かしいような優しい眼差し。肩の所で切りそろえた黒い髪が、風にさらさらと揺れていた。

 その時、急に強い風が吹いた。セーラー服の少女が、あっ、と声を上げた。被っていた白い麦藁帽子が、手で押さえる暇もなく、風で飛ばされてしまったのだ。そして、白い麦藁帽子は、林檎の木の梢近くの枝に掛かってしまった。

「ぼくが取ってあげるよ」

 けれど、ジョシュアには手が届かなかった。

「いいわよ。きっと、また風が吹いて落ちてくるわ。それまでの間、四つ葉のクローバーを捜さない? 四つ葉のクローバーの言葉を教えてあげるわ」

 その年上の少女は、三つの葉がそれぞれ、希望、信仰、愛情を表し、四つめの葉は幸せを表しているのだとジョシュアに教えた。

「四つ葉のクローバーを見つけると、幸せになれるのよ。ここでなら、きっと見つかるわね」

 セーラー服の少女は、スカートが朝露で濡れるのも構わず、両膝をついて一生懸命探し始めた。ジョシュアは、相手が誰なのかを確かめるのも忘れ、かがんで一緒に捜し始めた。変な形の五つ葉や六つ葉はあったけれど、綺麗な四つ葉はなかなか見つからなかった。

 諦め掛けた時だった。二人は殆ど同時に、一つの形のよい四つ葉のクローバーを見つけた。

 ジョシュアは、手を伸ばすのをやめて少女に言った。

「君の四つ葉だよ」

 ジョシュアは、多分、歳より増せた子供だったのかもしれない。

「貰っていいの? 嬉しい。ずっと大事に持ってるわ」

「うん、約束だよ」

 ジョシュアの母が庭に出てきたのはその時だった。庭に座り込む二人を見つけて頓狂とんきょうな声を上げ、少女は、慌てて立ち上がって名を名乗った。

「よろしくね、ジョシュア。私達、もうすっかり仲良しね」

 それが絵莉花とジョシュアの出会いだった。

 あの時のことを、今も絵莉花は覚えているだろうか。今もあの時のクローバーを持っているだろうかと、ジョシュアは思った。

 絵莉花がなぜジョシュアの家に来たのか、その理由をジョシュアが知ったのは、そのずっと後になってからだった。両親を飛行機事故で同時に亡くし、ジョシュアの父は、遠い親戚でもあった友人の一人娘に引き取り手の身内が居ない事を知り、絵莉花を家族の一員として迎える事にしたのだった。

 あの日、絵莉花は、どんな気持ちで四つ葉のクローバーを探したのだろうか。明るい笑顔の下で、どんな寂しさを抱えていたろうか。ジョシュアは、その時に心密かに誓った。兄よりも父よりも立派な強い男になって絵莉花を幸せにすると。


 けれど、ジョシュアは兄には敵わなかった。そういえば、あの時の絵莉花の麦藁帽子を、林檎の木の枝から外して絵莉花に手渡したのもジョシュアの兄だった。あの時ほど自分の幼さを悔しいと感じた事は無かったとジョシュアは今も思う。

 ジョシュアの兄ジェイムズが絵莉花に初めてプロポーズをしたのは、絵莉花の十九歳の誕生日だった。絵莉花はほんのりと頬を染め、ころころと愛らしく笑いながら、まだそんな先の事は分からないわと答えた。

 ジェイムズは、それ以来どんなに忙しい時も絵莉花の誕生日には必ず帰宅して、毎年プロポーズしていた。誕生日でなくたって、ジェイムズは事有るごとに絵莉花にプロポーズしていた。心変わりしていない事を絵莉花に知らせる為さと、ジェイムズは笑ってジョシュアに言ったものだった。

 ジョシュアから見ても二人はお似合いだった。ジョシュアも、兄ならば仕方無いと思う。

 でも、今は兄はニュー・トーキョー、ここには居ない。ジョシュアも数ヶ月後には、初めて会った頃の絵莉花の年齢を追い越し、来年には十七歳になる。あの時のような子供ではない。


 ジョシュアは、気持ちを新たに誓った。きっと絵莉花は自分が守るのだと。

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