呑まれた夫婦

「俺は一滴のアルコールも呑まなかった、わかってるよな」

「はい……」




 午後三時、飯田美香子一周忌パーティーは終わった。


 アルコールを飲まないのをいい事に自家用車のハンドルを握った樫男の隣で、文子はぐったりと倒れ込んでいた。







 結局、文子は浅野治郎に負けた。


 人見仁平と言う男に対する憎悪と言う名の、あまりにも暗い共感。


 しかしそれを個人的な判断ではねのけるには、数が違い過ぎた。そして警察官と言う職業をふりかざして逃げる事も、とてもできなかった。




 あの時の浅野治郎は、人気作家などではなく化け物だった。

 あなたたちもまた自分と同じ不安定な存在に過ぎないのだと、自分の側に引きずり込もうとしている化け物の目。


 もしここで無理矢理に阻止しようとすれば良くて頑迷固陋な仕事人間、下手をすればセカンドレイプの加害者とさえ言われかねない。


 そんな人間を妻に持つ夫にもプラスの影響はもたらさないだろうし、自分の仕事にさえも悪影響が及ぶかもしれない。







「そうですよね、人見仁平がいなければこんな事にはならなかったんです!」







 三十路の女とは思えない甲高い声で、文子は人見仁平に責任を押し付けた。人道と職業上の良心に悖るのはわかっていても、そうするしかなくなっていた。




 実際、人見仁平に対する憤りもあった。罪を憎んで人を憎まずを掲げている警察の人間にとってはできない話だったが、それでも人見仁平さえあんな事をしなければと言う思いだけはあった。

 そして康夫や真理ほどではないが、文子の中でも鬱屈した思いはあった。自分たちが全力で敵討ちを止めた結果、こんなあまりにも都合よく歪んだ世界が出来上がってしまったとでも言うのか。


 それでも自分のやった事はただの殺人事件の捜査と犯人に逮捕という職務だけだし、夫もまた康夫を犯罪者にしたくないと言う真っ当な動機から事を起こしたはずだった。そして、あそこまで枯れ果てた康夫の姿を見てしまうと康夫を責めるのも酷な話に思えて来る。


 火事に立ち向かう事すらできない消防士と言う、アイデンティティを丸ごと剥がされた柔肌に針を突き刺すような事ができるほど、文子は強くなかった。







 そして、浅野治郎である。


 微笑をたたえながらあの狂乱を見つめる浅野治郎の顔には、単行本や雑誌のインタビューに登場するようなおだやかな視線はなかった。


 ここでもしあなたがこの流れに加わらないのであれば、あなたと旦那さんの立ち位置はどこにもありませんよと言う脅迫的な視線。


 自分たちの色眼鏡が入っているのは間違いないだろうにせよ、文子には浅野治郎の笑顔にはそういう気持ちがにじみ出ているように見えた。


 こんな時、一番頼れる存在であったはずの夫さえも、何よりあの時の最大の協力者である夫さえも屈してしまった。おそらくは場の空気ではなく、浅野治郎と言う人間に。


「……………………正直言うよ。俺はあの時、浅野治郎って人に失望した」

「……ええ、私も」


 負け惜しみ以外の何でもない事を、二人ともわかっている。どんなに深いとは言え私的な恨みつらみに関係の深い他人を巻き込むようなやり方は、本来ならば絶対に肯定できる物ではない。




 でも、あの場ではそれに同調するしかなかった。文子の敗北宣言からほどなくして奇妙な空気―――――――――――――和気あいあいとはとても言い難いはずの、しかし殺伐としたとも言い難い――――――――――――――の中で無表情な職員たちによって運ばれた食事は、やけに美味だった。



 苦虫を嚙み潰したような気分のはずの二人でさえそう感じたのだから、あれだけ堂々と悪口を言い合っていた連中はもっとおいしく感じただろう。浅野治郎がどれだけの資金をこのパーティーに注ぎ込んだのかは定かではないが、それにしてもと思わざるを得ない。


 その美食にとろかされたのか、康夫と真理さえも笑顔になっていた。そんな中でである老人ホームの所長以下全員が笑顔を浮かべていると言うのに、渋面を作る事ができるほど二人とも強くはなかった。


「これで俺たちもあの人たちのお仲間だな」

「ええ…………!」


 詐欺の片棒を担いだような気分と言うのが正しいのかもしれない。今でも、康夫を束縛から解き放てなかった事については申し訳ないと言う気持ちで一杯である。だからこそ、マナーなど知った事かいと言わんばかりに料理にがっついたのだ。


 もちろんそれは浅野治郎への憤懣をぶつけるつもりの演技でもあったが、その醜態を見つめる浅野治郎の目は実に温かかった。


 あるいはそれは、自分たちが康夫を見つめるそれであったのかもしれない。


 二人ともそんな事を考えながら自家用車の中でため息を吐き、自宅マンションに戻ると着替えさえせずに倒れ込んで寝てしまった。








 悪夢ではないかと言う長江夫婦の願望は、一日が経っても依然として消えていなかった。


 あの時、飯田康夫は何も言わなかった。

 本当に何も言わないまま、司会進行の全てを浅野治郎に丸投げして最初から最後まで立って、食事をして、出て行っただけじゃないか。


 飯田美香子一周忌とか言いながら、故人を偲ぶスピーチその他のイベントも全然ないまま終わった。

 要するに酒や茶を飲んで悪口を言い合って飯を食っただけの最低なイベント。故人の遺志を何だと思ってるんだよなどと言うをこねるには、その後の結果が悪い方向へ向かいそうにない事がうっとうしかった。








「おはよう!」

「おはようございます!」


 実際、イベント明けの康夫の顔は、ずいぶんと明るかった。あの後飯田家で何があったのかは知らないが、数ヶ月に渡り康夫の顔を覆っていた仮面がまるで叩き割られたかのように消え去っていた。


 その仮面が今度は自分に張り付こうとしている事を知った樫男は、昨日の長い睡眠で回復させた気力を振り絞って同調の声を上げた。


 自分以外の全員が、実に生き生きとした表情で動いている。まるで、あの事件がなかったかのように。

 それでいて緊張感が失われている訳でもなく、いつ来るかわからない本番のためにきびきびと動いている。


 でももしこれが、人見仁平とか言う一人の人間に対する悪意と言う形で結びついているとしたら。

 本来、消防士にとって最大の敵は火事ではないか。それも人の命や家屋を奪う「火事」であり、「火」ではない。


「火事だそうです!」


 とか言う負のスパイラルに樫男の思考が陥る直前に、オペレーターの声が鳴り響く。八ヶ月ぶりの火事。

 まるで新米の時のように、緊張した面持ちになった隊員たちは銀色の服を身にまといながら、消防車に乗り込む。

「田中さんの家、寝たきり老人の男性とその長女とそんな夫の三人暮らしの」

 寝たきり老人、それもまた久しぶりに聞かされた言葉だった。あの時以来、そんな存在はほとんどいなくなっていた。

 仮にそうだったとしても死ぬ間際の二十四時間ぐらい、いわゆるピンピンコロリがやたらと増えていた。




「早く助け出すんだ!」


 火災現場にたどり着いた隊員たちの中で誰よりも早く口も手も動いていたのは、康夫だった。その時の康夫の顔は、かつて樫男を怯えさせた時とほぼ同じだった。目は真っ赤に輝き、血走っている。

 無論その事を表に出す暇などはなかったが、それでもボサッとしていると火より先に康夫に呑まれそうに思えて来るほどに恐ろしかった。


 やがて消火が完了すると、家主の妻が焼け焦げた家を背に樫男たちに礼を述べた。不幸中の幸いと言うべきか近隣への延焼もなく、家屋そのものも全焼と言うほどでもない。

 そしてその半焼した家屋を見つめる康夫の顔は、やはりあの時と同じくもっと早くしてやれなかったと言う気持ちに満ちている。


 しかしそれは、決して無念と言う物ではない。戦いに臨んだ戦士が自分の戦いぶりに不満を覚えてする、求道者のそれだった。


「ったく、本当に忘れそうになる所でしたよ……!発見が早かったからお父さんは死なずに済みましたけど、私自身火事ってのを甘く見始めてたんです!」


 樫男はこの時、改めて敗北を認めざるを得なくなった。自分のせいなどとはみじんも思っていないが、それでもあの時自分が頑迷にあの空気に水を差そうとしていたらおそらくこの女性は助からなかっただろう。


 いやそれ以上に多くの人間が、火災の恐ろしさを忘れ切っていたかもしれない。知らぬ存ぜぬを通すにはその女性の顔が辛過ぎたし、それ以上に康夫の顔が良すぎた。



 樫男が最後の抵抗さえもあきらめた気持ちで消防署に戻って来ると、一人の見知らぬ男性が立っていた。


「NHKの人だそうです」

「は?」


 数ヶ月ぶりに発生した火事と言う事で、その恐ろしさを伝えなければならないとばかりにテレビや雑誌新聞など多数のメディアが、康夫たちだけでなくあちこちの消防署に押しかけていた。

 国家的にメディア業界へと動員がかけられたとか言う噂が市井で飛び交っていたが、そんなのは康夫たちにはどうでも良かった。


「しばらくはあっちこっちで取り上げられるだろうな」

「うちだけじゃないと思うけどな」


 失火、放火、ボヤ、不審火。ありとあらゆる火関係の災害が、これからしばらくはメディアを席巻し続けるだろう。決して火の脅威は去った訳ではない事を、国家的に宣伝しなければならないからだ。

 しばらくニュースは、火災一色に染まるだろう。自分が脱色してしまった色、必要な色の絵の具をべったりと塗り付けて行かねばならない。その苦悩を思うと、自分の小さな不満など何でもないように思えて来る。その不満を人見仁平のせいにする事ぐらいは許されてもいいだろう、樫男はそう思いながら取材に応じた。




※※※※※※※※※




 数日後樫男が全国のニュース番組に出ていた頃、文子は鮮魚料理店にいた。今日は板前ではなくただの客である月男と共に、ランチコースの海鮮丼を食べている。


「お姉さんは元気?」

「姉さんはもう、怨嗟の声を吐く事もなくなりましたよ。同僚の人がほら、あの時消防隊員の人とカップルになったでしょ?」

「じゃお姉さんも」

「その消防隊員の高校時代の同期で、商社に勤めてる人と今度デートするらしいですよ」


 ただの宴会でしたから。


 そう強弁して職場に立ち続ける文子だが、それでもまだもやもやが消える事はなかった。だから自腹を切って康夫と並ぶ被害者である沢真理の弟で、そういう存在に悩まされて来たはずである月男を誘ったのである。


 月男の店にしたのは先輩の技を間接的に盗みたいと言う月男の希望であり、文子にもためらいはなかった。そこで聞かされた真理があの時以来ようやく男女交際を始めたと言う話に、文子は箸を止めてお茶をすすった。


「俺はお役御免ですし、何よりタンカを切って家から飛び出しながら姉さんの家に飛び込むような情けねえ身分からは卒業したいんですよ」

「悔しくはないの?」

「悔しかったですよ、でもあれをきっかけに姉さんが変わってくれたんなら別に構わないですけどね。でも悪いけど文子さん」

「わかってるわよ、最後まで抵抗してみたかっただけ」


 往生際の悪さについてはわかっている。

 でもここまで何もかもがあの日以来急激に改善された中、それでも無駄なあがきを続けたり背を向けたりするのは自己満足以上の物ではないだろう。最後まで浅野治郎に抵抗していた文子も、この時はっきりと匙を投げた。


「でも姉さんはまだまだ別の意味で苦しいかもしれませんけどね」

「え?」

「認知症や寝たきり状態から回復した老人の皆さんが、あれ以来元の木阿弥に戻ってるって話を俺はひとつも聞いてません。旦那さんが向かった仕事先の人ってそんなのと関係なく、あの後に何らかの原因があって寝たきりになったんじゃないですかね」


 まだあの狂乱の宴から、二日も経っていない。これからしばらくは、火事と同様に消えていたはずの老人介護問題との厳しい戦いも再び始まるだろう。

 だが月男の言う通りだとすれば、老人ホームに入って来るような要介護老人の数はなかなか増える物ではない。老人の取り合いはまだしばらく続くだろう。


「それにしても」

「それにしても何?」

「浅野先生の本、全部捨てちゃったっつー話は本当っすか?そんなら誰かにやりゃいいのに」

「欲しかったの?」

「そりゃもちろん!」

「ったく、そんなでたらめな話誰が言い出したのやら!」

「ああそりゃよかったですね!まあここだけの話、さっき言ってた姉さんの同僚の人なんですけどね」


 本当は、今度の休みにでも古本屋に売りに行こうと思っていた。


 浅野治郎と言う存在に対する、せめてもの意地悪。発行部数も多ければ何べんも読んだせいで装丁も汚れている本など、10円20円にしかならないだろう。

 そうすれば少しは自分の溜飲も下がると思っていた。


「今度は、いやいずれ旦那さんとも来てくださいよ!お二人にも俺が捌いた物を食わせますから!」

「ありがとう……それで、どう思う?人見仁平って存在?」

「嫌いに決まってるでしょ!」


 その言葉と共に文子はお茶を飲み干し、そして月男から目を背けた——————笑うために。ただただ、笑うために。


 憎悪も、不満も、文句も何もない。目の前の青年の素直な感情を受け止めてやるために。そして笑い声を止めると、空白になった自分の中に残っていたおいしい食事を詰め込み出した。


「新居が決まったらまた連絡ちょうだい、浅野治郎の本全部あげるから」

「ありがとうございます!」




 そして文子は夫に内緒でそんな約束をしてしまい、月男がいなくなってからつい勢いで口を滑らせた事を軽く後悔して、それも人見仁平のせいだと思う事にした。

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ダモクレスの剣 @wizard-T

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