浅野治郎と言う名の悪魔
「一周忌で集まるだって?」
康夫が職場復帰したひと月後、長江夫婦の元にそんな手紙が唐突に届けられて来た。
宛先人は飯田康夫になっていたが、それにしては手紙の文面に違和感があった。
消防士という、およそ文筆とは縁遠い人間のそれとは思えない力強く、テンプレートにはまっていない文。文字通りの名文。
「誰が参加するの?」
「俺達と美香子さんの同僚で親友だった真理さん、それからその弟さん。もちろん飯田夫妻さんも。
そして美香子さんの所の所長さんと副所長さん。それから消防署のお仲間さんと、美香子さんの所のお仲間さんも」
「ずいぶんな数だな」
「私は出るつもりだけど、あなたは?」
「出るよ」
あの非業の死から一年が経つ、もうそろそろこの辺で終わりにすべきではないか。樫男も文子も思っていた。
康夫がどんな形であれゆっくりと立ち直りを見せている以上、いいかげん過去の歴史にしてしまうべきだ。
一周忌と言っても宗教施設などではなく、普通のホテルでしかない。
手紙に同封されているしおりによれば、故人に対するそれぞれの思いを語り合いながら、ゆっくり食事でもしようと言う事らしい。そうとあれば、出ない訳に行かないだろう。
それに、このしおりの片隅には、樫男たちのミーハー心をくすぐる文字もあった。
「まさかと思うけど、この手紙書いたのって」
「浅野先輩じゃないか……!?」
浅野治郎の文字が、出席予定者の中に紛れ込んでいた。
あの事件の前から、樫男は浅野治郎が高校時代の先輩である事を署内に言いふらしていた。
康夫が知っていたとしてもまったく無理はないし、そして治郎に出席を頼んだとしてもやはり無理はない。浅野治郎と言う大スターが来るのであれば―――そういう理由で参加を希望して来る人間もいるだろう。
この際とばかりに樫男は浅野治郎著作の本を取り出し、表紙の裏をめくった。
「あなたねえ」
「お前だって欲しいんだろ」
飯田康夫と沢真理。あの事件を誰よりも引きずっていた彼らに新たな人生がもたらされるのだと思うと、二人はそれだけで気分が高揚して来た。
「浅野先生!」
「これにサインしてください!」
浅野治郎のネームバリューと言う訳でもないだろうが、手紙が届いてから三週間後に行われた一周忌記念会合には、参加予定者として並べられた全員が出席して来た。
「いったいどこからこんな費用が出せるんですかね」
「何でも噂によれば浅野先生がかなり」
「アハハハハ……」
浅野治郎はその噂話に対し、笑い声をもって肯定に変えた。まったくこれほどのパーティーを自腹で開けるようになるとは人気作家とはいいご身分だなと嫉妬を込めて見つめる目線もあったが、ただ飯を喰いに来ておいてそういう顔をするのはただのやっかみでしかない。
隅っこを見れば、樫男の同僚の消防士と真理の同僚の介護士がいい間柄になっていた。そういう新たな出会い、新しい未来がある以上、後ろや下ばかり見つめているような真似などできない。
これはそういうパーティーなのだろうと、ついさっき「天啓の刃」の初版本にサインをしてもらった長江夫妻はしみじみと実感していた。
「さて皆様、これより飯田美香子一周忌のパーティーを行いたいと思います。今回、司会を務めさせていただきます浅野治郎でございます。皆様、どうか私の本を買ってください、でないと私生きていけませんので」
やがて浅野治郎が奥へと引っ込み、そしてスタンドマイクの前で声を張り上げてジョークを飛ばすと、一瞬だけ引き締まった空気がいい具合に緩んだ。
「さて……皆さん。まあとりあえず日本酒でもどうぞ。ああ飲めない方には私がウーロン茶を用意してありますので」
浅野治郎が右手を大きく振ると、一升瓶六本とペットボトルが二本、そしてたくさんのガラスのコップがカートに乗せられて来た。治郎は自ら女性の元に向かい一升瓶とペットボトル、コップを丁重に分けて行った。
しかし治郎自身はコップを取らず、ただ配るばかりである。
「まあ、私としては皆さん全員にお酒を召し上がっていただきたいのですが。普段言えないような事をも目一杯吐き出してしまっても、酒のせいですから。全て聞かなかった事にして思いっきり言い合いましょう。あと私は幸い下戸ですから、最寄り駅までは運転代行しますよ」
主催者のはずの飯田康夫・公子夫妻は何も言わないで浅野治郎を見ている。司会を任せたと言うより、何もかも丸投げしているだけではないか。樫男も文子も何となく感じていたが、やはりこのパーティーの本当の主催者は浅野治郎ではないのか。浅野治郎が康夫たちのために、この盛大なパーティーを開いた。
売れっ子作家にしてもやすやすと出せるような金額ではないはずなのに、それをポンと出すとはよほど浅野治郎もあの夫婦の事を心配しているのだろう。そんな風に考えながら、樫男と文子は日本酒をあおった。
ラベルがない所を見ると安酒かと思ったが、案外とうまい。
「姉さんは呑み過ぎだよ」
「あなたが呑まなさ過ぎなの、もう二十歳なんでしょ、職場の人たちと」
「うちは居酒屋じゃないんだよ、正々堂々とした鮮魚料理店なんだよ!」
一人一杯と誰が決めた訳でもないせいか、二杯以上飲もうとする人間もいる。
例えば沢真理と言う介護士。彼女は弟の制止も聞く事なく、すでに三杯目をあおろうとしていた。
文子は、彼女の事をよく知っている。
ある意味今日の主役である飯田美香子の友人で、文子が刑事である事を知って犯人逮捕を求めて来た女性。
彼女もまた、あの事件からずっと苦しんでいたのだろう。
その上に今日この場で知り合った彼女の勤務先の副所長によれば、犯人が逮捕されたころから仕事に手ごたえを感じる事ができなくなっていたらしい。
樫男も文子もまだ親は還暦前後で、老人介護うんぬんと言う年齢でもない。
しかしちょうどその頃から火事が起こらなくなったように、老人介護問題も急激にしぼみ始めた。
それとシンクロするかのように、飯田康夫と言う人間も急激にしぼんでしまった。
あの事件から人見仁平が逮捕されるまでの四ヶ月の間、その前にもまして精力的に動いていた人間が勤務さえもままならなくなったのはいったいなぜなのか。
この日も酒どころかお茶さえも呑む気がなくボサッと立ち尽くしているだけで、司会進行も浅野治郎に丸投げしているだけである。
今日もまた、たいして変わる所もなく浅野治郎の方を見つめているばかりである。
「隊長」
「…………」
隊員の一人が声をかけても、何も言い返そうとしない。心配している事が丸わかりの、誠意が籠った目つきだと言うのにだ。これを不誠実だと言えばたちまち疑心暗鬼の塊と言う烙印をもらうに十分な顔から目を背け、康弘は深くため息を吐いた。
「かーっ、ったくギャンブルなんかするもんじゃないっすよね!」
「限度を守ればいいのよ」
「二万円を一日でスるのは限度を超えてると思いますけどね」
「あんたらはこんなおばさんの真似をしちゃダメよ。って言うかあなた何、三杯も呑んじゃってるの!」
「いやあ、ただ酒よりうまい酒はないですからねー!今日のお酒が飲めるのも、浅野先生のおかげです!」
一方では酒をがばがば呑んでいた消防士と茶を飲み干していた介護施設の副所長の女性は、大きな声で話していた。
酒席にふさわしい初対面同士での気の置けない会話。新たなる繋がりに新たなる関係。過去に囚われる人間がいる一方で未来を見つめる存在がある、その姿を見て康夫たちが希望を持てるようになるといい。
樫男も文子も、そして月男もそんな事を考えながら過去に囚われていなさそうな人間たちに希望を抱いていた。
「そうっすよね、副所長さんが競馬でスっちゃったのも、人見仁平のせいなんすよねー」
「はい!?」
「そうなんですよ、オレに彼女ができねえのも副隊長に子どもができねえのも、全部人見仁平とか言う悪魔のせいなんですよ!」
「おいおい」
しかしその三人の視線を浴びた、消防士と言う一般的に言って正義の味方に類する男が、真っ赤な顔で空っぽのコップを振り上げながらそんな事を言い出した。
それと同時に一瞬だけ場の空気が静まり返り、そして月男が右手を上げて酔って暴言を吐いた消防士を止めようとすると、一挙に空気が破裂した。
「そうなんだよ、何もかもあの人見仁平のせいなんだよ!」
「噂によれば、刑務所の中でも威張りくさってるらしいわよ!自分のせいで火事がなくなったとか!まったく何様のつもりなんだか!」
「本当、こんな世界になったのも全部あの野郎のせいだな!」
「もしかして私たちの仕事を奪ったのも!?だとしたら」
大合唱が始まった。
音程も何もないでたらめなコーラスだが、不思議なほどに同調性が高い。
消防士たちからも介護士たちからも、人見仁平と言う存在への呪詛と怨嗟の声が轟き始めた。
楽であるに越した事はないが、仕事をしている感覚まで奪われては満足感がないし、世間体も良くない。
介護士はまだ独居老人の話し相手とか言う名目が立つが、消防士はそれこそどうにもならない。
数ヶ月でわずか数回、パトカーの代わりの役目しか与えられないような存在を誰が重んずると言うのか。
と言っても、内容があまりにも乱暴すぎる。
「ちょっと!」
「ったくもうなんでこうなるんだか、これも人見仁平のせいですね!」
「ああ本当、あれこそ女の敵ですよね!」
最初は呆然としていた老人ホームの所長と副所長であったが、文子があわてて声をかけると共にそのコーラスに参加した。
そしてほどなくして長江夫妻と飯田夫妻、沢姉弟以外の全員が人見仁平への怨嗟を吐き出し出した。
どうにも正視に堪えないその光景から目を反らすべく首を曲げた文子はマイクの前に立ちっぱなしの浅野治郎の顔を見て、そして血の気が引き腰が砕けそうになった。
浅野治郎は、唇を噛んでいた―――――――――――悔しがっているのではない。
目鼻は激しく動いており、いかにも楽しくて仕方がなさそうに見えた。
(どういう事ですか浅野さん!夫はずっとあなたを尊敬し自慢して来たってのに!それなのにあなたはなぜこんなひどい真似を!)
そう叫んで張り倒してやりたかった。
でも、それをするには圧倒的に気力が足りない。
ただでさえ腰砕け同然の状態なのに、あまりにもその意志に反する存在が多すぎる。
何より、樫男も動こうとしない。
自分が動いたせいでかえって冷静だったはずの人間に火を点けてしまったと言う失態に打ち震えたのか、文子と同じように腰砕けの状態で膝が笑っていた。
「…………ったくよう」
「月男」
「これが姉さんにとって一番必要だったもんなのかよ!」
「…………うん」
「ああそうかい!俺はさんざん姉さんをそっちから遠ざけよう遠ざけようとしてたけど、それって下ごしらえもせずに包丁で材料をぶった切るようなもんだって事かい!」
「まあ……そうなるかな」
唯一、月男だけが吠えていた。
吠えると言うにはあまりにも小さな声で、真理に向かって甘噛みしている。真理はこの弟の甘噛みに向かって吠え返したり振り払ったりする事もなく、ただうんうんとうなずくばかりだった。
康夫はこのめちゃくちゃな現実を頭の中で必死に整理するかのように、あさっての方向を向きながら棒立ちになっているだけだった。
自分の気持ちが伝えたい相手に伝わらない事ほど、苦しい物はない。それが善意であれ悪意であれ、だ。
自分が相手に持つのと同じ善意・好意を相手にも自分に持ってもらいたい。恋愛とか友情とか、あるいは仕事とかもだいたいがその原理で動いている。お互いの気持ちが共有できなければ、組織はうまく回らない。
犯人が逮捕され、無期懲役の刑を受けた所で事件としては終了しているはずだった。
でも、飯田美香子と言う人間が無残に殺されたと言う現実だけはどうしても消えない。その飯田美香子の命と尊厳を奪い去った犯人に対する悪意を、犯人が無期懲役に処されたと言う事実をもってしても、康夫も真理も消す事ができなかった。
その悪意を抑え込もうとした結果その悪意との戦いだけで二人とも消耗してしまい、さらに恫喝的ではないおだやかで力強い外圧のせいで凝縮された悪意は二人をひどく傷付けた。そしてその上に唐突に目の前から目標がなくなってしまったせいで仕事に逃げる事も出来ない。
もしそれが、神が仕組んだ仕打ちだとすれば二人には神を恨む資格があるだろう。では、そのきっかけを与えたのは一体誰なのか。
「文子さん……私も参加していいですかね」
「あの……」
「私だってね、愛する夫を踏みにじったあの輩に対する怒りとかがあるんです。でもそれを言って煽ったらまずいと思ったから我慢していました。
でもそれが今、逆効果だったと悟ったんです。天涯孤独になってしまった夫を私が支えなくて、誰が支えるんですか!」
「あのですね!」
「文子さん」
そして公子さえも、狂乱の中に自ら飛び込んで行く。
引き離そうとするだけ、逆に引っ付いて行く。
樫男も文子も、自分たちがやった正しい行動が、もしここにいる全ての人間をここまで追いつめているとは一分も思っていない。
だがそれでもと文子が思っていると、月男が真理に立てていた牙を放して二人の方に向かって来た。
「ひと月ほど前から、姉さんの担当の婆さんが好き放題人見ってやつの悪口を言っていいよって言ったんです。最初はもちろん所長さんも怒ってたんですけど、肝心の本人からああ言われちまってはどうにもね……」
「そんな…………」
「老人にそっぽ向かれたら老人ホームも終わりですからね、お客様を繋ぎ止めておくためならばしょうがねえかって」
もしその分だけ真理が康夫より元気なのだとしたら、悪意を受け止めてくれる存在の有無、そしてその悪意を出してはいけないと言う抑制の力の強弱と言う問題になって来る。
その抑制の力を自分によって強くかけられた飯田康夫がこの狂乱を傍観し続ける中、一人の消防隊員が樫男の方をにらみながら康夫に寄って来た。
「副隊長!」
「おい……」
「副隊長!もしかして副隊長のせいで隊長も真理さんも遠慮してるんじゃないですか!」
その隊員の言葉と共に、他の隊員が三名ほど樫男に近寄って来た。
見れば、あの日自分と共に強引に康夫を誘って康夫を酔い潰した連中だ。
その顔を見た途端、樫男の顔は真っ青になった。
「お前ら……!」
「いやさ、俺らも悪かっただろ」
「本当に申し訳ありません、どうかお許しください!」
「ダメーッ!!」
消防隊員の一人が豪華な絨毯の上に土下座しようとすると、罵倒の大合唱で満ち満ちていた部屋にそれ以上の大声が響き渡った。
その大声により罵倒合戦は止み、大声の主である文子の元へと視線が集まった。
「超能力者様かよ刑事様は!」
こんな事をこれ以上させてはいけない!そう思いながら感情のたけを吐き出して放ったはずの、文子にしてみれば渾身の一撃だったはずの拳に、しかし即座に横から殴り返す手が飛んで来た。
どういう意味よと噛み付く余力は、もう文子にはなかった。
超能力者様と言う単語に込められた「飯田美香子さんはこんな事をして欲しいんじゃないのって言いたいんだろ?じゃそれをどうやって証明する気だ?」と言う一文が含まれている事は明らかであり、そしてそれに言い返せるだけの論拠を文子は持っていなかった。
そして何より、その発言の主が月男である事が樫男と文子の気力を一挙にもぎ取り、樫男は尻餅をついて倒れ込んでしまった。
そして浅野治郎は、この大騒ぎを黙って見ているだけだった。その目鼻の動きと笑いをこらえるかのように動く口はまったく変わらず、参加者たちをじっと睥睨していた。
「そりゃあなたから見れば悲しくて醜くてやるせないでしょうよ、あなたから見ればね!でも結局の所、あなただって我意を通そうとしたじゃないですか!」
「……………見たいの?」
「はい、見たいです!」
自分の尊敬する上司や姉が誰かを口汚くののしる姿を美しいと思う感性など、文子にはない。だがこの二十歳の青年は、それを見たいと言って来ている。
一年近く姉に接して来て慣らされた、と言うより疲れ果てたこの青年はもういい加減この辺で終わりにしたいと思っているらしい。
その点では、文子も同じ気持ちだった。しかしこうなってしまうと、もはやどっちの意志が正しいとか言う問題ではない。
どっちも我意を張り通そうとしているだけであり、そこにはもはや康夫や真理の意志さえない。
「人見仁平のバカヤロー!!」
「………………………」
「すべてはあの男のせいだ!あんな奴があんなことをしなければみんな平穏無事に、まともに過ごせたんだよ!」
それでも抵抗しようとした文子の耳に、再び大きな罵声が轟いた。
声の主は、樫男だった。文子が口を大きく開けて空を仰ぐ中、素面だった樫男は声をこれまでで一番大きな声を上げた。
それを制止しようとする人間は、ひとりもいない。
「文子さん」
樫男の罵声が消えると同時に、浅野治郎の口が開いた。
歪んだ笑みを浮かべながらこの乱痴気騒ぎを見ていた治郎からの名指しの指名に、文子は身体を固くしながら治郎の方を向いた。
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