介護士の要介護者化

 本来ならば認知症の問題に対抗してしかるべきはずの存在でありながら、今日もまた午後六時に帰宅した介護士・沢真理を、お帰りと言って迎えてくれる声はない。

 同居している弟の月男は、今日は修行のせいか職場に泊まりで帰って来ない。


 月男の話によれば少ないなりに貯めた貯金を使って、近々自分を保証人にして本格的な一人暮らしを始めるつもりらしい。




 ここ数ヶ月、真理の財布はかなりふくれている。

 給料が上がったのではなく、使う気がないからだ。


 確かにここ数ヶ月、特に入居者たちを味方に付けたこの一ヶ月、仕事そのものは非常に楽になった。


 それでも手ごたえのなさは間違いなく、その分だけ消費欲も湧き立たない。

 いつまで、入居者たちが味方になってくれるのだろうか。いつまでいるかわからない存在を当てにする自分が、やたらと不安定な存在に思えて来た。


 その孤独と不安が彼女にスマホを握らせ、ツイッターを起動させる。と言っても、特段書き込む事がある訳でもない。フォロワーのツイートを眺めるだけであり、返信などしない。




 DDS(どこかの誰かさん) 7:01

 浅野先生の新連載、トリプルリゾートすごく楽しみー。でも私単行本派だからな、ネタバレしないように当分目をそらさないとダメなのが辛いデス…………




 好きな物を楽しむためにあえて目を反らす、これは大変な事である。当方きっての人気作家の新作となれば当然のごとく話題に上り、そこから目を背けるのは難しい。


 一応親しい人間にはああ楽しみにしてるんだから言わないでと言えるだろうが、赤の他人にそれを強制する事はできない。ましてやインターネットなど論外だ。

 こちらの都合など知った事ではない他人が自分たちの都合のために平気でああだこうだ述べまくる。


 自分だって、同じようにああだこうだ言いたくない訳ではない。でも不特定多数の人間に向かって褒め言葉ならともかく、けなし言葉を言いふらす事のデメリットをこれまでの人生で嫌と言うほど痛感している身からすればそんな事などできない。




 自分は今、孤立しているのではないか。その不安が真理の心と財布の紐を締め付けていた。


 ここ最近職場で好き放題に罵声をまき散らす事によりようやく精神の安定は保てるようになって来たが、それが職場内での自分の立場をどんどん狭い所に押し込めているような気になって来る。


 真理は冷蔵庫からビールを取り出し、スマホで好きなユーチューバーの動画を眺めながら中身をコップに空けた。元々酒飲みではなかった真理だが、それでも事件の直後はまだ十九歳だった月男の面前でずいぶんと呑んでいた。

 缶ビールはその時に買って来て置きっぱなしにした物であり、冷えすぎるぐらい冷えている。開けていなかったのでアルコールが抜ける事はなかったが、味より先に冷たさが来る。


 月男は決して、真理の怒りと悔しさを否定するような真似はしなかった。なるべく丁寧に、本来向くべき方向にゆっくりと誘導しようとしただけだ。昨日の夜だってそうだ。










「姉さんはもっと楽しいことを知るべきだよ。俺みたいに仕事に夢中になれだなんて言わねえけどさ、浅野先生のサイン会とかでも行ったらどうだ?」

「えーと……」

「最近さ、何か俺の事煙たがってない?」

「そんな!」


 大げさに驚いて見せたが、実際その通りだった。月男の真理に対する言葉に、雑念はない。板前と言う包丁と火を扱う仕事のせいでもないだろうが、常にまっすぐこちらの方を見据えてベストな回答をぶつけようとして来る。


 そんな弟の誠意が、最近また重たくなって来た。延々一年も引きずり続けている自分を見てそれでもなお考えを変えない辺り頑固とも言えるのだろうが、正しい方向に進んでいるのだから仕方がない。


「最近姉さん元気だと思ったらさ、職場の爺さん婆さんに当たり散らしてるんだって?」

「うんそうよ」

「よくもまあ平然とそんな事言えるよな」

「許可は取ってるから、所長さんから」

「知ってるよ、所長さんも最近参ってるらしくてな」


 所長も副所長も、何とかしてその方向から離れて欲しいと願っているのだ。おそらくは、美香子の事件を担当した刑事とその夫で美香子の兄の同僚の男性も。

 しかし、こうして弱り切っていた人間がその方向に進んで回復しつつある現状が目の前にある手前、大げさにダメという訳にも行かない。だからこそ、月男と言う存在を介してその意を伝えようとしたのだろう。月男にとっては願ったりかなったりであったが、真理にとってはせっかくの好機を潰しにかかる余計なお世話でしかなかった。


「爺さん婆さんだってきっと迷惑がってるだろ?」

「私の担当のお婆さんが最初に所長さんに言ってくれたんだけど?」

「そうかねえ」

「じゃ今度行って確かめてみれば?ああみんな優しい人たちだから、あなたがそういう回答を求めてるのを知って合わせてくれるかもしれないけど」


 真理が耳を貸す気などありませんと言わんばかりにスマホで動画を見ようとすると、月男は机にひざ蹴りをかまして深くため息を吐き、もう寝ると言いながら洗面台に向かって歯を磨き、そしてそのまま自分のベッドに入り込んでしまった。



 それで今朝、月男は二人分の朝食を作るだけ作っておはようといただきます以外無言のままで家から出て行ってしまった。

 確かに、もうこの辺で終わりにした方がいいのかもしれない。


 真理は遅番なのをいい事に、朝食を平らげて皿を洗うや歯も磨かずに何べんも見た動画の映るスマホへと視線を落とした。


 五年前にアップロードされ、四年前にその存在を真理に見つけられ、五百回以上見て来た動画の映るスマホへと。




「私だって思いっきり敵をなぎ倒してやりたいけど。そのために少しぐらい無駄遣いしてもいいかなって、まあダメだよねそんなの」


 TASと呼ばれたシステムによりあっという間にゲームをクリアして行く動画、ストレスがたまった時に見ては心を癒すのに使っている動画。

 最近では見る回数がやたら増え、また同じ種類のそれも次々とお気に入り登録している。


 明日からもまた頑張ろうと思えるようになり、それと共に最近つとにこの手の動画の視聴回数が増えて来た事に危機感も感じる。


 ゲーム中のキャラが通常ではありえないレベルの凄まじい戦いぶりを繰り広げ、敵を圧倒して行く。そんな動画ばかり見ている。

 これが自分の願望。親友を思いっきり痛めつけた男を無下に斬り刻みたいと言う自分の中の願望なのか。


 そんな恐ろしい人間に介護されていて人の気が休まる訳がないだろとかブレーキをかけようとしても、スマホを持つ手は止まらなかった。



 とても月男には見せられないそれを遅番をいい事に眺めるその姿は、まるっきり要介護者のそれだった。

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