ダモクレスの剣

「本当にすまなかった。でもこれからしばらくはなまり切った体を鍛え直さねばならない。樫男、しばらくはわかってるな」

「はい、隊長代理として隊長を支えます!」




 あの事件から一年、休養から八ヶ月。やっと、飯田康夫は現場に復帰した。


 もちろん、再研修と言う名目で当分は下っ端以下の扱いだが、それでもようやく消防士たる場所に戻って来てくれた事は樫男たちには嬉しかった。


 もっとも、まだ油断がならない事はわかっている。何とかして二本の足で立ち上がろうとしている生まれたての小鹿に、余計な負荷をかけてつぶしてはいけない。

 そう思ったからこそ、隊員たちは全力で康夫を応援する事を決めた。





「隊長は戦ってるんだよ」

「何とですか」

「そりゃお前、なまり切っていた自分の肉体とだろうが!」


 樫男は自分の椅子に座りながら、本をめくっていた。康夫が職場復帰したと言ってももっぱらトレーニングばかりで、本当の意味での実戦復帰はいつになるのかわからない。


 何より火事がないのだから。


 そのせいか飯田康夫の目は、依然として生命力を持っていない。

 パッと見では元気だったが、その奥底におびえとやるせなさがある事を親しく付き合っている樫男たちに見抜くのはまったく難しくなかった。


 かつて、自分たちの頼れる兄貴分として振る舞っていた頃の自信はみじんもない。いるのは、自分たちに必死に縋り付こうとする弱々しい男。


 それでいて馴れ合うのを恐れるかのように、一定の距離を保ちたがっている。


 魂の抜け殻。

 肉体だけが勝手に動き回り、魂はまるで別の国に旅立ってしまったような存在。


 もしこんな時、火事が起きればどうなるか。昔の様に、目に光を取り戻し火と戦ってくれる立派な男に戻れるのだろうか。

 だからと言って、消防士が火事を期待するほど悪質な話もない。


 何せこの国におけるは、堂に入るレベルにまで達していた。


 先日も繁華街で暴行事件を起こした男が逮捕されたのだが、本人が言うにはこの二か月で十八回も放火に失敗したらしい。

 むしゃくしゃして火を点けてやろうと思ったが一向にうまく行かず、その結果暴行事件を起こしたらしい。




 そこまでやって火事が起きないとなると、もはや心がけの賜物とか偶然とか言う話ではない。

 完全に、そうならないように超自然的な力が働いているとしか思えなくなって来る。


 実際、康夫たちのいる消防署だけではなく日本全国の消防署で署員が暇を持て余すようになり、最近では離職者まで出始めていると言う始末である。



 もしこの世界に火事と言う現象がなければ、消防署など無用の長物でしかない。その結果、その消防署に費やしていた人員やコストを、まるっきり別の場所に移す事ができる。


 消火器だって何の意味もなくなるだろう。だがそれは、康夫たち消防士にとってはまったくその存在意義を奪う物である。

 これまでの月日で十分痛めつけられて来たのに、それが一生単位で続くとなると到底耐えられる物ではない。



 レスキュー隊の真似事をしようとしても、これまたほとんど遭難者が出ない。この八ヶ月あまりで、遭難者とされたのはわずかに5名。


 それも自力で下山したのが3名で、本当に遭難から救助されたのはたったの2名である。

 夏の豪雨も、冬の極寒の山もあったのに日本中でたったの2名。


 台風もまともに来ないし、来ても適当に雨と風をもたらして消えただけだった。平穏無事と言うには、あまりにも奇形じみている。


「隊長代理!」

「どうしたんだ!」

「小説読んでる場合じゃないでしょ」


 樫男もまた、こんな緊急性の高い職場のはずなのに暇を持て余して本ばかり読んでいた。樫男ばかりでなく、隊員全員がそんな有様だった。


 消防士と言う危険な職業ながら公務員であるだけに、既婚者も多い。

 そんな中、誰かの手により二年前に持ち込まれた浅野治郎の恋愛小説は最初さほど見向きもされなかった。だが今では未婚者既婚者関係なく読み回されており、ずいぶんと表紙がくたびれていた。








「ダモクレスの剣って言葉を知ってるか」

 ダモクレスの剣と言う、まるで耳慣れない言葉を私の耳に入り込ませて来た彼の息はいつになく荒かった。

「ギリシャにディオニュシオスと言う君主がいた。その君主の家臣ダモクレスがディオニュシオスの権威をほめたたえると、ディオニュシオスは玉座にそのダモクレスを座らせた。その玉座の上には、髪の毛一本で剣が吊るされていたんだ」

「危ないですね」

「栄耀栄華なんて、そんな物だという事だ!結局の所、楽な人生なんて存在しない。僕がこの先栄耀栄華のまま死のうとも、その剣を頭に抱え込みながらの死でしかない。それに君は付き合う気があるのかい?もちろん、剣が落ちて来て全てを失うかもしれない」

 







 400ページにも及ぶ上製本の、ちょうど真ん中の当たりの文章だ。


 誰かが気に入ったシーンになのかそれとも単に中間点に置いただけなのか、しおりの紐が挟まっている。


 タイトルにもなっている、ダモクレスの剣のエピソード。いつも自信満々でありながらおごり高ぶる所のない若社長が、ほぼ初めて見せた弱音。

 そこからただの上司と部下だった関係がそこから恋愛関係に発展していくというターニングポイントだからと言う訳でもないだろうが、この部分は映画化された際にもかなり取り上げられた。


 今の自分たちも、それほど変わりがない事を樫男たちは知っている。と言うより、人間はみな紙一重の所で生きている物だ。


 それが親しい物だったり、あくまでも生存の手段として繋がっている物だったり、そしてあるいは憎むべき物だったり。何らかの存在にすがって、みんな生きている。人間はそのつながりを時に増やし、時に濃くしようとする。剣が落ちたとしても守ってくれる存在を増やし、また逃げ場を増やすために。


「とりあえず午前中の仕事は全部終わったんだ。別にいいだろ英気を養うぐらい」

「すみませんね、私もついうっかり熱くなってしまって。でも隊長代理、まさかあらぬ事を考えているのではないでしょうね」

「何だよあらぬ事って」

「最近、何でもカレー作りに凝っているそうで、これを機に調理師免許でも取ってとか」

「資格はあるに越した事はないだろ!お前何かあるのか」


 樫男は自分自身も、自分を叱責しに来た部下も、火事を待望しているのを悟っていた。消防士として一番憎むべき存在を待望している―――――――――こんなに醜い話はない。

 火災により一体どれだけの損害が出ると言うのか。家屋に人間、家財道具に、自然さえも失われるかもしれない。


 自己満足のためにそんな悲惨な結果を望むなど、人間として最低の振る舞いだろう。だからこそ、樫男もその部下も即座に話を逸らした。



「放火未遂です!」


 そんな中飛び込んで来たこの報告は、ある意味で吉報だった。無論、未遂である以上警察官の出番ではあっても消防士の出番はないのだが。

 とにかく、火災の恐ろしさを知らせるためにもその存在をアピールせねばならない。


 そう思いながら、樫男たちは銀色の消防服を身にまとい、赤い車のエンジンを入れた。

 あえて派手にサイレンを鳴らし信号も無視して走ったのは、火事の存在を忘れさせたくないという消防士ならではの自己主張であった。







 ————介護離職者が出現すると思われていた会社で働いていた男が、その必要がなくなって自分が首切りに遭いそうだという事になり、それでヤケになって火事を起こそうとしたという事らしい。


 こんな事をしでかす奴が二人もいるのかと思うと、樫男は頭が痛くなって来た。


「そうだよな、介護離職者もここ数ヶ月全然出てないらしいからな」

「老人介護も今や社会問題じゃなくなりつつありますからね」


 消防士に介護士、ITの発達により職がなくなるとかなんちゃらかんちゃらの前に、その二種類の職業の価値は現在進行形で急降下していた。


「でもいつまた、認知症や寝たきりの老人が増えないとも限りませんよね、って言うか確実に増えますよね」

「まあそうだな。でも実際問題、認知症とか寝たきりとか、今に始まったもんじゃないって事だ。お前知ってるかよ、島津義弘の事」

「運転の邪魔です」


 消防士の自己主張に為だけに駆り出された消防車の中で、樫男はまた浅野治郎の小説で知った知識をひけらかそうとした。


 後輩にその事を拒否された樫男は苦笑いを浮かべながら外を眺め、消防署の中でトレーニングに明け暮れている康夫の事を考える事にしようとして、すぐに後悔した。

 そしてその気持ちを抱え込んだまま消防署に戻った樫男を見た後輩の男性が深くため息を吐くと共に、樫男もため息を吐いた。


「ああその、島津義弘はどうでしたっけ?」

「ああそれか、島津義弘って八十四まで生きたんだけどさ、晩年はかなりボケてたらしいんだよ。それでも戦の鬨の声がかかると頭が回り出したってさ」


 島津義弘という、四百年以上前に活躍した偉大なる戦国武将。そんな存在でも避けられなかった認知症の問題。

 根治方法など存在しないだろうその難病との戦いもまた、人類がこの世に生まれて来てから今までずっと向き合って来た課題である。


 現代では、その為に介護士がいるはずだった。

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