油秦檜

「来月には復帰するそうだ」




 その報告が樫男のもとに、あまりにも突然届いて来た。

 あの事件からちょうど一年、節目としては悪いわけではない。



「どうだったんだよ、隊長は。お前なら知ってるだろ」

「ほとんど門前払い。最近じゃ家事以外ほとんど何にもしてないらしくて」


 樫男には、康夫の動向は全く入って来ない。


 それがなぜ急に復職を決めたのか、本当にそれができるのか。ひと月前に飯田家へ向かった、数少ない伝手である文子にその理由を求めるのは当然の事だっただろう。


 その文子のあまりにも残酷な返答に、樫男はため息を飲み込みながら右手をテーブルに叩き付けた。




 公子はたぶん、自分たちを許していない。自分たちが全力を込めて康夫の怒りと憎悪を抑え込みにかかった結果、目的も果たせないまま康夫は魂の抜け殻になってしまった。


 何も残らないから復讐は無意味であるとよく言うが、同じマイナスの存在になってしまうのならば願望を果たさせてやった方がよほど良いのではないか、もし公子がそう考えるようになったとしても不思議はない。


 愛する人間を人殺しにおとしめて平気だなんて最低とか言う正論で叩けば、ますます反発するのが目に見えていた。


「ってかさ、ほとんど引きこもり状態だったわけじゃない、そんなんで急に付いていける訳?」

「しばらくは訓練に集中だってさ。それで」

「それで何?」

「今日の晩飯またカレーでいいか?」

「そんなに作りすぎちゃった訳?」

「いや、今日エビが安くってさ」


 お互い、堂に入ったレベルで話をずらして行く。


 公子の自分たちに対する怒りがもし人見仁平に向けられている物と同じレベル、同じベクトルだとしたら。自分がやった事が最悪の事態をもたらす可能性まで生まれていると言う現実に、二人とも目を向けたくなかった。

 捜査の遅れはポテンシャルの問題だが、酔い潰して動きを止めにかかったのは完全な私情だ。



「ってかさ、あなたがこんなにカレーに凝るような人間とは思わなかったわ」

「俺だって信じられないよ。一応人並みに料理はして来たつもりだけど」

「まあね、そのおかげで職場でここんとこまったくカレーを食べてないわ」

「同じくだ。最近じゃみんな暇を持て余してな、三国志だの水滸伝だのに凝り始める連中まで出て来てさ、聞いてる分には面白いんだけどね」


 樫男が火のかかった鍋ばかり見ているのは、特段珍しい光景ではなくなっていた。今日はシーフードカレーにする気らしい。

 なぜカレーばかり作るようになったのか、その答えは本人ですらわかっていない。


「それで中華料理でも誘われた訳」

「中国にもファーストフードってあるらしいんだよ、肉まんとかじゃなくてな」

「じゃあ何」

「油条って言う名前らしいよ、それ食ってみたいとかって言ってるけどな、話聞いたら恐ろしくてとても食えそうにないよ」



 油条のおこりは北宋末期の時代、功臣岳飛を讒言した秦檜と言う男とその妻に見立てた二本の小麦粉の細長い棒を揚げたのが始まりとされている、ファーストフードに類するものだ。まあ詰まる所、奸臣の売国奴を庶民たちが釜茹での刑にしてやっていると言う話である。


 カレーと言うのも、ある意味似ていなくもない。鍋の中に様々な動物の血肉を放り込んで、火にかけて煮る。まるで、釜茹での刑のようだとも言える。



「まあ、あなたの作ってるカレーの味が味だから、外では食べにくいのよね」

「そりゃありがたいなって」

「もちろん、一皿で野口英世さんがいなくなるようなのなら話は別だけど」


 やがて並べられたシーフードカレー、イカとホタテとエビとあとタマネギだけの簡素なシーフードカレーだったが、それでも魚介類の出汁がうまい具合に移っている。

 素人が作った物にしては上出来の上であり、暇と金と情熱を注ぎ込んだだけの価値がある事は文子も食べる前からわかるぐらいだった。


 それほどの美味な料理のはずなのに、二人のスプーンを動かす手はやたらと早い。自分の仕事がないと言う楽なはずなのに空しい感覚、自分のやった事のせいでかえって犠牲者を増やしてしまったのではないかと言う罪悪感。

 その感情が、目の前の食事を親の仇のように忙しく二人の口に運ばせていた。




※※※※※※※※※




 その数時間前、やはりシーフードカレーを、樫男と文子より二歳上の男・浅野治郎も口に運んでいた。

 出版不況などと言う単語は彼に限っては関係ない――そんな言葉を投げかけられるにふさわしいはずの治郎の食べっぷりは、やはり樫男と文子と同じように忙しなかった。


「先生、締め切りが迫ってるんですか」

「いやね、自分の身の上を考えてね」

「身の上だなんてそんな!」

「作家ができなくなったら何をしておまんまを喰えばいいのか、それが問題でね。

 この才能がなくなったら私はおしまいだ。それまでに手に職を付けておかねばならなくなるだろう。だから最近、みっともなくもたった四年間だけいた会社に非常勤で働きたいと交渉の最中でね」


 浅野治郎は大学を出た後、一応サラリーマン的な仕事もしていた。

 でも休みの時間を全部執筆活動に費やし、気が付けば二十代で専業作家を名乗れるまでになっていた。

 その結果時間がなくなりわずか四年で退職、それきり浅野治郎は作家以外の仕事など何もしていなかった。

 そんな存在がまだ三十二歳にして、そのような不安を抱いている。編集者の男性がぎくりとする中、治郎は不安そうな笑みを浮かべながら口を拭った。


「困ったご時世ですね」

「与太話しか作れない人間だからね。最近ではライトノベルとかジュブナイルとか、あっちこっちに手を出そうともしているけど、この前の推理小説の出来はどうだい?素直な所を頼むよ」

「ええはい、浅野先生らしい王道でまっすぐな感じですけど、少しラストが湿っぽくて後味が良くないって言うか」

「狙ったんだけどねえ。キミはあの男があの後幸福になれたと思うかい?だからドラマでは本格的にアル中になってもらったけどさ」



 ドラマ化された最新作の推理小説の真の首謀者である男の最後は、小説では特に描かれていない。

 一応細かい所で酒の量が増えていると言う描写は入っていたが、ドラマではひとり残された部屋の中で安酒をあおって空虚な笑い声を上げていると言うシーンが追加された。


「虚しいと思わないかい?他人を食い物にして栄光を勝ち得た人間の末路がああだなんてさ」

「そう考えるとどぎついですけどね」

「似たような事は誰だってやってるよ。子どもの時、アリンコを無為に踏ん付けた事はあるかい?」

「先生って案外ワイルドなんですね」

「君はないの?ほら今、イカを殺してるじゃないか」


 そのイカはかつて水揚げされて呼吸できなくなり、その上で切り刻まれ、火にかけられ、そして今人間の歯にかけられている。

 残酷な仕打ちと言えるかもしれないが、人間はそうやって生きている。浅野と同じシーフードカレーの、イカリングを胃に運んだ担当編集者は自分の小学校時代を思い出し、勉強とゲームばかりやっていた事を思い出して苦笑いした。


 生き物ってのは生まれて来た段階で、母親と言う他者からエネルギーを吸い取っている。

 そのエネルギーは、母親が何らかの食物を摂取して得た物だ。その段階で、間接的に何らかの生物を殺している事になるとも言える。人間に限らず、全ての生物が背負うべき業とも言える。


「私が新人賞を取った時、確か三千近い競合作があっただろう。私はその全てを蹴落として作家と言う肩書を手に入れたんだ。その競合相手の事をせいぜい忘れないようにする、だなんて高尚な事を言うつもりはないけどね。とにかく、三千の相手を食い尽くして今私はこうしている訳だ。キミだって似たようなもんだろ」

「はい、十二社受けて受かったのは半分でしたよ。ぼくを蹴落として受かった人もいればぼくによって蹴落とされた人もいます」


 浅野も編集者も、自分によって蹴落とされた人間が今どうしているのかなど普段は気にしていない。それでも、いざ目の前に突き付けられてみるといつ自分がそちらの側に行くのかわからないと言う恐怖心が芽生える。


 正当な方法ですらそうなのだから、不当な方法ならばなおさらだろう。

 その罪悪感に耐えられるのは、元からそれ相応に面の皮が厚いかその結果何が待つかわかり切った上で実行しているか、そしてただの無知蒙昧かのどれかだろう。


「先生はまさかその為に「天啓の刃」を」

「あれは単に面白いのを書こうとしただけだよ。面白いと思うのを書いてみんながそう言ってくれるってのは至福の体験だけどさ、作品の出来とか売り上げはともかく一番嬉しかったのはあの時なんだよね」


 自分では全くそう思っていないのに、無意識のうちに何かが出来上がっている。自分の中にある何かが、自分にそうさせている。これ以外に生きる道がないと言う焦りなのか、それとも自分が踏み潰して来た三千作の影への怯えなのか。

 その自分でもわからない物を読者が読み取ったのか読み取ってないのか、それは知らない。ファンレターによれば

「不安定な環境にある現代人の、ひと時の安泰がいつ崩壊するのではないかと言う恐怖、そしてそれを誰にも相談できない孤独をよく描いており素晴らしい作品です」

 と言う事らしいが、あるいはそれで正しいのかもしれないと浅野治郎も思っている。と言うより、正確な答えなど浅野治郎でさえもわかっていない。


「ってか先生、やはり速すぎますよ」

「だよなあ」


 編集者が三分の一ほどを残しているのに、浅野の皿には米ひと粒も残っていなかった。農家の人の思いがこもってるんだから残してはいけないとか親や何かに仕込まれて育って来たのかはわからないが、浅野の食べ方とはいつもそうだった。




※※※※※※※※※




「まいったな」


 そしてそれが、ちょうどその時浅野とほぼ同じタイミングでコンビニ弁当を米粒ひと粒まで食い尽くした彼のここひと月あまりの口癖になっていた。


 あの時に中途半端なお墨付きを与えてからと言う物、評判は芳しくない。


 いくらその相手が強姦殺人犯であろうと常に特定の対象に対して悪意をむき出しにしているような人間に自分だったら介護などして欲しくない―――と言う正論が、自分の株を下げていた。



 許可を与えてからと言う物、沢真理は実に生き生きとし始めた。それに釣られるように彼女に許可を取るように迫って来た老女も、かなり元気になって行った。


 わかってはいるがそれはあくまでも特別な関係だから他の人の前では言うな、そうきつく言い聞かせたのが他の入居者に漏れたらしい。

 それで入居者が次々と真理と老女に同調し、気が付けばホーム内の老人全員が真理の欲望にお墨付きを与えていた。


「所員の福利厚生を何だと思ってるんだって、ったくこんな福利厚生前代未聞だよ!」


 好き放題に悪口を言わせるのが福利厚生なら、こっちだって真理への悪口を言ったっていいだろう。自分としてはそう思っているのだが、どうにも入居者たちの目が冷たい。

 老人たちが言うには真理は下っ端だから少しぐらい騒いでもよく、自分は所長だから我慢しろだそうだ。思わず右膝で机を蹴飛ばしてみるが、気持ちは全然浮かび上がって来ない。


 もし自分も、真理のようになってしまえば楽なのだろうか。しかし、職員は別に自分と真理だけと言う訳ではない。他の職員が聞いたらなんというだろうかと言う論法で真理を抑え込む事は十分可能だと思っていた。

 現にこの老人ホームのナンバー2で、指導役でもあった副所長の女性には真理も忠実だったはずだ。


「お食事は終わりましたか」

「見ての通りだ」


 その副所長が、所長が空っぽになったコンビニ弁当の器と一緒に500ミリペットボトルのお茶があるのにも構わず、湯呑に入った緑茶を置いた。茶柱が立っていたが、今の所長にはまったく吉兆に見えなかった。


 副所長は事件直後から真理に対しなるべく穏便に、いろいろな楽しみを教えようとした。老人ホームに設置されているのと同じゲームに、読書。それからお茶や美食など、あらゆる事を勧めてから遠ざけようとした。

 しかし何をやらせても、仕事の時の方がずっと元気で楽しそうだった。確かにあれ以来老人たちは量が減り手間もかからなくなったので仕事はずっと楽ではあるが、それにしてもいかなるレクリエーションをしても仕事より楽しくなさそうと言うのは深刻に思えた。あるいは上司である自分に遠慮しているのかと思って同僚たちに誘わせてみたが、気が晴れた様子はなかった。


 それが、ここ最近堂々と人見仁平を罵れるようになってから元気になったと言うのだ。

 一番、自分たちが望まない方向への進化。それがもし彼女を支えているのだとすれば、あまりにもやるせないと二人とも思っている。


 しかし、そう思っている人間が今一体何人いるのだろうか。もちろん圧倒的に多数のはずだと思いたい、でも八方手を尽くしても改善の様子のなかった人間が元気になっていると言う現実を見ると、まるで自分たちの方がまずい事をしたかのように思えて来る。


「なあ、旦那さんは元気か」

「幸い元気ですね、私がうっかり福沢諭吉さん二人をJRAに寄付しちゃった事を知らない限りは」

「お前まだそんな事やってるのか」

「所長こそ自転車で」

「俺は樋口一葉一人だけだぞ!」

「でもねえ、あの7番……いや15番の馬があんなに強いだなんて思わなくて」

「だからあの野郎が、あんなに追い込み脚があるだなんて思わなくてさ」

「はっはっはっは」




 三十年以上の付き合いだっただけに、基本的には遠慮がない。


 お互いの秘密も適当に握り合い、適当にいじくっている。普段なら人間関係の潤滑油たるべきその会話も、今は妙にむなしく響き渡る。

 この前おけら街道を歩いていた自嘲の言葉も笑い声も、どこか上滑りしている。もしうかつにあいつのせいで自分たちは負けたんだと言えば、たちまち真理にあんな事言っといてになる。


 民主主義とはこれだと言う訳でもないだろうが、この狭い空間の中で自分たちの意見が少数派になっている事を二人はよく感じていた。


 実際、所長室を出た副所長に対する老人たちの目は冷たい。

 弱り切っている真理の気持ちをちっとも斟酌しようとせず、逆に追い込もうとした頑迷な人間。それが最近の自分の評価になっているのかと思うと、自分でも恐ろしくなる。

 一番汚らしい言い方をすれば飯の種でもある老人たち、ある意味でこちらの財布を握っている老人たちを敵に回しては、自分たちの身が危うい。


 あるいは自分も遅かれ早かれ人見仁平とか言う存在に憎悪をむき出しにしなければならないのかと思うと、二人ともまだ五十代半ばだと言うのに八十代の入居者たちよりずっと老け込む事ができた。

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