人肉を喰らいたい女

 真理の包丁の手付きは、おそろしく荒い。


 上手い下手ではなく、乱雑で大雑把。


 ど素人か達人か、どちらかにしか見えないそれだ。


 真理と言う料理のプロではない人間の弟であり、見習いとは言え板前である月男にはどうにも正視に堪えない物であった。


「姉さん、落ち着けよ」

「私は冷静よ」

「…………ならいいんだけど、ってか何があったんだよ」

「この前おばあさんに言われたのよ。人見仁平って男はバカに失礼なヤローって」

「何を言わせてるんだよ!」

「所長にお墨付きまでもらってね」

「…………………………………」



 老人介護の問題が急激かつ唐突に解決の見込みが見えて以来、老人ホームが介護老人の奪い合いになっている事は月男も知っていた。


 しかしこうして一職員の無茶ぶり、と言うよりおそらくはその老女の無茶ぶりを呑まなければならないほどに追い詰められている事までは知らなかった。

 相手が重大な犯罪者とは言え、誰か一人への恨み節をつぶやきながら仕事をする姿は正直美しい物ではない。

 ましてや介護職などと言う仕事においてはことさらだろう。


「それで今度さ、うちに新しい女の人が来たんだよ」

「どんな人?」

「バイトのお給仕さん。まあ平たく言えばウェイトレス。アラサーっつってるけどその割にえらくくたびれた顔しててさ」

「大変ね」

「詳しくは話してくれなかったけど、旦那さんが病気療養中だって。ったく、老人介護の問題がなくなっても何もかもうまくいくもんじゃないね。

 今日も今日とてご老人の皆さまで一杯だったんだけどさうちの店、話してる内容とか聞いてるとやっぱり格差社会ってのがあってな」


 話を変えようとした月男だったが、どうしても同じ方向に行ってしまう。


 月男の店に来られるような老人たちは、おおむね中間層以上である。

 その生活に余裕のある老人たちに連れられるかのように、たまにつましく暮らしている人間が来る。顔を見ても服装を見ても、はっきりとその差がわかる程度の格差。あるいは介護の必要がない程度に元気になったとしても、できた時間を持て余すような事になるのかもしれない。その際にお金があるのとないのとでは、かなりの格差が生じる。(元)要介護者と言ってもそれは変わらない。あの世に金は持って行けない物だが、認知症になり何もわからなくなってしまえばあるいはその格差を肌身で感じる事がなくなるかもしれない。でも身も心も活力を取り戻して他者に触れれば、否応なくその格差を突き付けられる。


「人生の楽しみ方なんてさ、一通りじゃないよね」

「ああ。おふくろは俺にバリバリのエリート街道を進んで欲しかったらしいけど、俺には包丁一本持ってる方が性に合ってる。姉さんもさ、ガチでいい人見つけて結婚した方が良くないか?」

「やっぱりお見合いして結婚した方がいい?」

「俺は今の生活に不満はないよ。強いて言えばさすがに姉さんにたかるような生活はやめた方がいいって事だけだな」

「困るなあ。月男がいないと正直不安で仕方なくって。男手って本当にありがたいなって」

「だからその男手を他に見つけろって言ってるんだよ」

「今からフライパンに火を点けるからちょっと座ってて」


 月男が月男なりに道を選んでいるのに対して、未だにこの姉は過去に囚われていた。いや囚われていると言うより、自ら進んで捕まりに行っている。


 いくら介護が不必要なほど元気になった所で、平凡な九十歳の老人から新しい発想を期待するのは無理がある。

 彼らはこれまでの豊富な経験から判断して、いっその事心の中の憎悪を好き放題吐かせてやる方がいいのではないかと考えたのかもしれない。確かにその結果姉の顔は明るくなり、表面的には活力を取り戻したように見える。でもあくまでも表面的にはであり、裏で単にわら人形をぶん殴っているだけ。


 先ほどの包丁の手つきも、食材と言うより人見仁平を切り刻んでいるような感覚。出来る事なら親友の仇の肉を焼いて喰らいたいような、根深い憎悪。


 そう考えれば、あの乱雑な包丁の使い方にも合点が行く。それを溶かすのに、一体どれだけの時間が要るのだろうか。

 だからそんな事を忘れるために誰か素敵な異性に会って恋愛でもすれば、と言おうとした所で月男は椅子に座らされた。


「俺はさ、そんな風に過去にしがみついている姉さんを見たくないんだよ。昔、俺が板前になりたいっつった時に唯一味方してくれたの姉さんじゃないか。あの時の」

「ほら、出来たわよ!」


 有無を言わせはしないと言わんばかりに盛られた、人前のチンジャオロース。それと中華スープの素で作られた簡素なスープに、あとは白飯。



 それだけの料理を真理は人目も健康もはばからず、淡々と口に運んでいる。余計な事など何も言わせないとばかりに月男を睨みながら、人見仁平の血や肉を喰らうように食事を口に運んで行く。


「姉さん、そんなにお腹空いてたのかよ」

「ああそういう事!あんたは空いてないの?」

「空いてるよ」

「だったら早く食べああい!」


 もしここに父親なり母親なりがいた所で、物を口に入れながらしゃべるんじゃないと言うお行儀のよろしいことは言えないだろうな――――――月男は改めてそんな汚い食べ方をする真理の顔を見つめながら、真理と同じように淡々と箸を動かし始めた。



「ごちそうさまでした!」

「ああちょっと待って」

「いいわよ、私が洗うんだから!ゆっくり食べなさい!」


 結局真理は三人前のチンジャオロースのうち二人前分を胃の中に放り込み、そして自分の皿だけ流しの水を張ったボウルに放り込んで洗い始めた。


 月男が肉ばかりが残った皿にマイペースで手を付けていると、ふと今度やって来た新しい給仕の女性の事が思い浮かんだ。


 外では気丈に元気に振る舞っているのだろうが、そのために胃薬をたっぷり飲み込んで胃の中の不良債権を抑え込んでいるのだろう事がまるわかりの顔。


 内では何とか吐き出せても、外ではできない。その間に不良債権はふくらみ、更に胃を痛めつける。姉の顔が明るくなったのはその不良債権を外でも吐き出せるようになったからだろうが、それは一時的解決でしかない事は火を見るよりも明らかなはずだ。


「少しはさ、ドリプリでも読んだ方がいいよ」

「あんたどこでそんなの覚えたの」

「この前浅野治郎先生の本を買って来たのは誰だよ」


 中高生向けのはずだった浅野治郎作の恋愛小説、ドリームプリズム略してドリプリは現在五巻まで発行され、世知辛い世相の中にあって夢の如き恋愛を描いた作品にファンは多い。


 だが自分の前でその名前を出す事の意味をわかっていた真理の反応は冷たく、そして月男もその狙いが外れた事を察して残ったチンジャオロースに頭と目を向けてしまった。

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