354番

「おい、354番」

「はい」


 354番と言う番号で、男は呼ばれた。かつて人見仁平と呼ばれ、それなりに真っ当な勤め人であったとは信じがたいほどに男の表情は硬直していた。


 小中学生時代にいじめを受けたとか、ブラック企業にいたせいで心と体が壊れたとか、そういった要因は一切なかった。

 冷静沈着に、ターゲットを絞り込んで行われた犯行。反省も後悔もなく、謝罪の気持ちすら表に出そうとしない。ただ淡々と、まるで刺客のように犯行をこなした男。




「日々の激務でストレスがたまり、誰でもいいから犯したかった。そんな中に出くわした純情そうで汚れを知らない存在。ずっとひそかに観察し、そして計画を練りその日に犯行に及んだ。殺すつもりはあったが、考えを変えてくれるのであればそうはしなかった」




 自分でいきなり拘束しておいて、まったく一方的極まる物言いである。

 それが被害者遺族である飯田康夫や、彼女と交友関係にある者をいたぶった事は言うまでもない。

 まるで反省の様子もなく、見る物全てに負の感情を与えそうな存在。


 その罰を今、彼は受けているはずだった。しかし、彼の顔に変化はまるでない。

 刑務作業を終えては看守とさえまるでしゃべる事なくただじっと座り、表情を変える事はしない。必要以上の事は何も言わない。

 それで自分の犯した罪に向き合っているのかと思うと、出て来る言葉は


「ったくなんであの女は抵抗したんだろう。おとなしくしていれば今頃まだ生きられていたのに」


 である。

 康夫らに手紙を書けと言った際にもほとんど中身は変わらず、当たり前ながら一通も康夫らに届く事なく廃棄されていた。

 他の受刑者からも嫌悪されていたがそれに対して彼は何の反応もせず、ただ笑みを浮かべるだけだった。


「………………………」


 収監されてから、もう二か月近く経つと言うのにまるで変わる様子がない。

 少しでも反省したり後悔したりしてくれるのならば少しは溜飲が下がるかもしれないが、自分たちの心を逆撫でするかのように354番こと人見仁平は自分たちを嗤い続けている。




 その事を聞かされた文子はほんの一瞬だけやはり……と思い、そういう考えを吹き飛ばすように頭を激しく横に振ったが、どうしても人見仁平の存在が頭から離れない。




「おい長江、俺たちは私情に惑わされず事件を解決しなければならないのだ!」

「はい……!」

「声が小さい!」


 もちろん、警察官からしてみればあくまで数多の事件のうちのひとつであるからいちいち感傷に浸って躓いている暇はない。その事を踏まえた上で一課長は勤務中にいきなり頭を振った文子を叱責したのに対し、文子は精一杯の誠意を込めて大声を返したつもりだった。


「はいっ!」

「すまん、俺とした事がついカッとなってしまった…………謝る」


 それを小さいと言われて半ばやけくそになってわめいてみたが、その結果吐き出された三十路らしからぬ甲高いキンキン声の返事に署内に失笑が漏れ、課長は薬が強すぎたとばかりに文子に付き合って頭を下げてしまった。



 自分でもそれではいけないのはわかっている。しかし、答えが出て来ない。


 夫にあんなことをさせたのも、ひとえに自分の責任だと思っている。それが、最高のやり方だったはずだ。


 でもその結果、自分が苦しむだけならまだともかく救おうとした人間まで壊れている。

 そしてその闇は、その人間の妻まで覆い始めている。大きなお世話などと言うつもりは絶対にない、ただ単に職務を果たしただけだ。


 その必要のない人間を犯罪者にさせたらその方がよほど職務怠慢のはずだし、こんな事で心を揺らしていては務まる仕事ではないのはわかっていた。


「便所行ってきます」

「お茶お入れしましょうか」


 間の悪さばかりがその場を覆う。二人の逃げようとしたのか、話を変えようとしたのかはわからない。

 確かなのは、文子の症状が重篤だと言う事だけである。


「長江さん、いや文子さん……今日は早めに引き上げた方が」

「いいえ、大丈夫です!」


 夫が窓際族同然の暮らしをしている手前、自分だけでもバリバリ働く姿勢を見せなければならない。その事が文子の心を苛み、焦燥を産んでいた。


 月給ドロボーなどと言う誹り声は、現在の所虫けらの雑音に過ぎない。しかし時が経つとどうなるか。ごめんで済めば警察は要らないと言うが、火事がなければ消防士の価値はない。まるで、消防士の価値を貶めるために火事が起きないようにさえ思えてくる。


 被害妄想と言われればそれまでの話だが、時間がのしかかって薄っぺらいはずの妄想を引き伸ばして行く。引き伸ばされた妄想はやがて広がって人を覆い始め、やがて人の形になって動き始めそして、離れようとしない。


 追い払おうとしても消える事はなく、かえって活動を活発化させて行く。




※※※※※※※※※




 そして飯田康夫は、その妄想ともうどれだけ戦っているのだろうかわからない。

 妻に、同僚、その妻。そして警察。これだけの存在が自分を人殺しにしないために頑張ってくれた。

 その期待に応えなければならないと言う責任感と、どうしても妹を弄んだあげく無残に殺した人間を許せないと言う感情が衝突を続ける。


 最初は社会人として前者を重んじるべきだったしそのつもりだったのが、しかし今度はその奥底にある負の感情をもっともぶつけやすい存在がなくなってしまった。

 それですっかり感情の行き場を失ってしまった康夫は、かろうじて残った気力を振り絞って酒にも暴力にも走らずにいた。


「ああ、掃除するからさ」


 主夫と言うにはあまりにも能動性のない存在。ただ身の回りの必要な事をやって、外にも出ずに夜を待ち、夜になれば朝を待つ。

 最近まるで顔を合わせていない樫男に釣られている訳でもないが、料理も作り始めた。それでも決して、その目に活力が戻る事はない。


「で、カウンセリング受けたの」

「ああ受けたよ。でもさ」

「私はいつでも、あなたの味方だから」


 いきさつを話し切った上で、なお割り切って過ごすべきだ。

 忠言耳に逆らうと言うが、そのカウンセラーの言葉は康夫の耳に入らなかった。誠意がこもっているからこそ、逆らいにくい。

 結果として、更に康夫の心の負荷を増やすだけになってしまった。


「それで、あなたはどういう答えを期待してるの?」

「もう何べんも言ってるだろ……」

「もう一回言ってよ」

「正々堂々と、あの人見とか言う奴を恨ませてくれる事だ」


 実際、その旨康夫は何度も言って来た。

 ただし、妻にだけである。


 妻から文子や樫男たちにどれほど伝わっているのか、康夫は知らない。公子もまた、夫の関係者がどういう反応をしているのか答えていない。それだけで、康夫には十分だった。


「人見仁平……!!」

「ありがとう、そろそろ仕事だろ」

「じゃ行って来るから、お掃除頼んだわね」


 人間としては正しい道ではないのかもしれない。しかしもし、康夫が人間らしく呼吸できる道があるとすれば、もはやそこにしかないのかもしれない。公子は夫のご機嫌を取るべく唸り声を上げながら、夫の部屋を出た。

 夫は妻の言葉に答え、掃除機を取り出す。そしてスイッチを入れ、まったく力感のないポーズで動かし出した。

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