トロッコ問題

 老人ホームでそんなあまりにも歪んだ決定が下されたころ、長江文子は自分の所よりさらに小さなマンションに足を運んでいた。


 そこは自分の家より小さく、そしてそれ以上に実際小さく見えた。


 建物とか部屋と言うのは、主の現状を雄弁に語る。


 そのリビングは、一目整然としているように見える。

 チリもほとんどなく、まるで入居したてかのように何もかもが真新しく見える。







「本当ダメ、かろうじて小さな鮮魚料理屋の給仕の仕事にかかっただけ」

「それってアルバイトでしょう」

「まあね、給料なんてたかが知れてるし」


 くたびれた顔で文子が持ち込んで来たアイスコーヒーをすするのは、この部屋の暫定的な主である公子と言う女性だ。


 より正確に言えば、この部屋の本来の主である夫の妻である飯田公子だ。


 半年前に派遣会社に登録したもののまるで反応はなく、最近はその会社にも半ば見切りをつけるような形であちこちにアルバイトの申し込みを送り付ける生活を続けている。


 それでようやくかかったのが、鮮魚料理屋の給仕だった。

 と言っても週三日、五時間労働でもらえる賃金などたかが知れている。とても夫を養う事など出来はしない。


「ねえ……」

「一応、家事の腕前だけは上がったみたいだけど後は何にも良くなってない」

「でも公子さん、あなただって気持ちは同じでしょ?」

「ごめんなさい刑事さん、私は」

「悪いけど、後悔する気になれないんです」



 あの時以来、公子の夫康夫はすっかり元気をなくしてしまった。


 かろうじて早寝早起きだけはできているものの、朝起きてから夜寝るまでほとんど部屋から出ず、職場にも赴こうとしない。

 半年の間に専門家のカウンセリングも受けてみたが、まるでうまく行く望みがない。

 その結果、妻が押し付けていた家事の腕ばかりが上がり、暇にあかせて掃除ばかりするようになっていた。


 ひと粒たりともゴミを許さないと言わんばかりのその姿勢は、きれい好きと言うより潔癖症、潔癖症と言うよりゲームで100%コンプリートを目指す人間の様だった。


「うちの人がもしあの時、刑務所に入ってたらどう思います?」

「失望したでしょうね」

「私だってそうです。でも」

「考えないで下さいよそんなバカな事」




 この国には、あれ以来一件の火事もない。そして、要介護老人も死にもしないのにあれ以来急速に減っている。そんな消防士も介護士も必要などないと言わんばかりの偶然が続き続けていた。


 しかし偶然も、半年以上続けばもはや時流だった。


 もしあの日、人見仁平を文子が逮捕したその日、樫男たちが康夫を酔い潰して動きを止めようとしてなけどうなっていたか。康夫が仁平を殺して仇討ちを成し遂げていどうなっただろうか。




 答えは簡単だ。

 単に法で裁けなかった犯罪者の存在が一人確定し、法で裁かねばならない犯罪者が一人できるだけの話だ。


 火事や要介護者と同じく、犯罪者など少ない方がいいに決まっている。


「浅野さんって、旦那さんの先輩でしたよね」

「そうですけど」

「これ、浅野さんのデビュー作です」


 公子はゆっくりと立ち上がり、タンスの上の本棚から浅野治郎が七年前、デビュー作として発表した作品をテーブルに置いた。

 ドサンと言う音を立てたその上製本はところどころ薄汚れており、読みこんでいる事が文子にもひと目でわかった。


「それの200ページを読んでください」




 文子が公子の言葉に従い200ページ、本の後半辺りをめくるとそこには主人公の女性が、本命の彼と仲がもつれて迫られている姿があった。







「だからさ、俺にも半分よこせって言ってるだけだよ」

「でもそんな、勝手じゃないかなって」

「勝手はお前だろ。自分一人で解決できるもんなんてたかが知れてるんだぜ」

 彼は私の顔を見つめながら、目を輝かせた。この輝きが来る時は、たいてい頭がよく回っているか怒ってるかのどちらかだった。

 経験上後者の場合が多いけど、前者だったらそれはそれで怖い。私はこの目の前の男性が、元からクラスの誰よりも頭が回る事をよく知っているからだ。

「いいか、トロッコが暴走してるとするよ。その先には何人かの作業員がいてこのままぼさっとしてるとそいつらはトロッコに轢かれて全滅だ。でも、お前が隣にいる太った奴を一人突き落とせばそいつらは無事で済む。その時、お前は一体何人の作業員がいたら太った奴を突き落とせるのかね?」

「……………」

 あまりにも難しい問題だ。自分が手を出さなければ作業員の人たちは全員死ぬ。でも自分が太った人を突き落とすと言う事は、自分が一人の人間を死に至らしめると言う事である。

「あー言っとくけど自分が飛び降りるは禁止な、お前じゃ止まらねえから」

 その上に逃げ道まで塞ぎにかかって来る。まったく、実に嫌らしい話だ。







「何人なら突き落とせます?」

「五十人ぐらいですかね」

「私とほぼ同じですね」

「それはそれは……」

「でももし、突き落とす事ができるのがあなたでないとしたらどうします」


 自分の愛する夫、職場の頼れる先輩、夫が慕う存在。


 そんな存在に人殺しなどになって欲しくないと言うのは当然の理屈のはずだ。文子たちはその理屈に従って行動したつもりであり、同時に自らの職務も果たしたつもりだ。


 でももしその結果としてこうなる事がわかっていれば、果たして同じ事をしたのだろうか。

 今現在の、あまりにも都合が良すぎる世界の到来。それがいったい何から起こっていて、どうしたら消失するのだろうか。その答えなど誰もわからない。



 いや、わかりたくなかった。



 人見仁平とか言う強姦殺人犯をとっとと殺せばいい。


 そうすれば、日本人はまだ火事の恐ろしさや老人介護の問題を忘れずに済むだろう――――――だが日本の国家権力にそんな事は出来ない。

 一事不再理と言う原則がある手前、無期懲役と決めた人間を死刑にする事などできない。

 何か死刑に値する罪が新たに出て来て、改めてそれで裁かれて死刑になると言う展開はありえなくもないが、そんな都合のいい話など現状と同じぐらいありえない。


 いや死刑に値するような罪を犯した際の犠牲者がいなければならないので、もっと都合と後味が悪くなる。



 一人だけ、ほんのちょっとだけ怒りを抑え込んで我慢する。

 その結果として、世界は大幅に改善された。ワンフォーオールと言うには歪んだ始まりと結果だが、現実はだいたいそれで合っていた。

 だがもし、それが根源だとしたら一体いつその流れが止まるのか。永遠に止まらないのであればいっそそれでいいかもしれない。

 しかし、地球でさえもあと50億年で太陽に飲み込まれて滅びると言うのに、永遠に続く物など存在するはずもない。


 仮に根源であるはずの飯田康夫と人見仁平のうち片方が死ぬまで続くとして、日本人男性の平均寿命まで生きるとなると飯田康夫ですらあと40年はかかる事になる。

 40年と言う月日は、体験を風化させるには十分過ぎる。いくら必死にかつての経験を訴えた所で、現在進行形の体験がなくなっては重みが伴わなくなる。


(何よ、どうしても犯罪者が必要だった訳!)


 もちろんこれらは、目の前のチート的現象に対して無理くり合理的な説明をしようとして作り出した屁理屈に過ぎない。

 しかし、その屁理屈がもっとも現状を説明するのに都合のいい理屈として通っていると言う現状はどうにも覆しがたかった。




「それは、その……その相手との関係を考えたら……」

「七十億人なら誰でもできるんでしょうけどね」


 結局文子には、そういうお茶を濁すような回答しかできなかった。


 自分たちは飯田康夫と言う存在を突き落とす事により、一億三千万人を助けたと言うのか。


 確かにそれは正しい行いなのかもしれない。でもそれは公子にとっては怒りと恨みを買うに十二分な行いであり、意地悪な皮肉をぶつけるには十分な要素だった。


 お茶を濁す答えに対する皮肉を口にしながらブラックとまではいかないがミルクも大した砂糖も入ってる訳でもないペットボトルのコーヒーを飲み干し、そしてコップを置きながら文子を見る公子の目は勝者の目だった。


 その目がかつて、飯田康夫が人見仁平に対して向けていたそれと遠いようで近い物である事を、対面した事もないのに公子は知っていた。


「ご迷惑をおかけいたしまして」

「いえいえ、こちらこそ失礼いたしました」

「ではお邪魔させていただきます」

「また都合がよければどうぞ」


 調子に乗っている女の頭を、ひと叩きしてやりたかった。乱暴に言うのならば、そんな所かもしれない。そしてそれが一時的な勝利であり、何の意味もない事も公子は知っているはずだ。


 しかしそれでもそうしようとした事の意味とその気持ちの根源に、一人の人間に対する根深い憎悪がある事と、自分の頭の中にももう公的な裁きを受けたはずの人間の存在が巣食い始めている事を感じていた。

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