病院と老人ホームの憂鬱

「また一日で死んだんだって?」

「そうなのよ」




 職場の休み時間、真理は大学の同期の女性とLINEで話していた。


 看護師になってから三年、自分と同じように苦労していたはずの彼女も、最近は暇を持て余し始めていた。



「ピンピンコロリって言う奴でしょ?死ぬ直前まで元気いっぱいで、そしてダラダラと病気で苦しむ事なく死ぬって」

「ああそれ。私なんかここひと月で十人見送ったよ、それで二日以上入院したのってたったの三人だよ」

「素晴らしい事ね」

「素晴らしくないわよ、入院患者が減るから診療報酬が入らないって。一応急患の受付はしやすくなってるけど、そんなのはどこも同じだからね」


 ピンピンコロリは理想の死に方だが、それはあくまでも本人と家族にとっての話であり、病院にとっての話ではない。


 医者と言う商売人としてみれば、ダラダラと通院やら入院やらを続け金を落としてくれた方がありがたい。全く皮肉な話だ。


「ここ半年以上ずっとそんな。終末医療の担当をやらされるって聞いた時はどうなっちゃうんだろうと思ったけど、最近は別の意味でどうなっちゃうんだろうって感じでね」

「でも社会的入院とかあるんでしょ、家族がどうとか」

「それも最近減っててね、真理とかもわかるでしょそういうとこにいると。

 認知症?何それおいしいのってなってない?」

「なってるなってる。最近じゃ演技でやってるのばかりでね」


 老人ホームを離れた老人たちが、好き勝手に残り少ない人生を謳歌しているとは限らないはずだった。

 様々な理由により、孤独で辛い暮らしを強いられている老人は少なくないはずだ。かつての栄光は見る影もなく、ただ立ち枯れて行くのを待つばかり。そんな老人は少なくないはずだ。


 だが最近どうも、そんな人生の悲哀を感じさせる老人は真理の目の中に入って来ない。まるで、意図的に自分の視野から遠ざけられているように思えてくる。




「ったく、真理ちゃんったら元気がないよ!」

「すみません………………あの、どうしたら元気が出せるでしょうか」

「参ったね、そんなに仕事がきついのかね」


 老女からすれば発破をかけているつもりだろうが、今の真理はその発破で粉みじんに吹き飛びそうな程もろくなっていた。

 少し叱責を受けただけで青菜に塩の状態であり、老女の方がかえって戸惑ってしまっていた。


「その、美香子ちゃんが」

「もう終わった事じゃない、犯人はこれから一生塀の中なんでしょ?まともな人間の幸せなんか何も得る事ができないじゃないの、あなたと違って」

「そうなんですけどね」

「美香子ちゃんのためにも幸せになりなさいよ、それが友達のためよ、そうでしょ!」


 幸せと言われても、どうすればいいのかわからなかった。真理がわかるのは、真剣なアドバイスのはずなのにぜんぜん頭に入って来ないと言う事だけ。


 それがわかるからなおさら心苦しくなり、なおさらつらくなる。


「お茶をお入れしましょうか」

「頼むよ。できるだけ熱いのをね」


 仕事に熱中している間は要らない事を考えなくて済む―――とか言う理屈を振りかざして逃げるのは卑怯だとわかっている。でも、その方が気が楽だった。


 あの日以来、すっかり変わってしまった何もかもに目を向けなければならないのはわかっている。でも、いずれ元に戻るのではないかと言う期待が心を縛り付け、慣れてはいけないと必死に頑張りたかった。

 しかし、所長以下自分以外の多くの人間がのほほんとしているのを見るとどうにも心が折れそうになって来る。


















「うおおお!」




「うわっと!」

「すみません、最近仕事に慣れて来たを通り越してだれて来た感じで、気合を入れ直そうと思いまして……」


 先輩職員がお湯を入れたり茶碗を持っていたりしていないのを確認して、給湯室で思いっきり吠えてみる。


 だがそれで気が晴れると言う事もなく、ただ逆に傾くばかり。

 吠えて発散したストレスは、その十倍近い文字数を並べて暴走を謝る事によりほぼ等倍で返って来る。全くの無意味だった。


 そんな調子でお茶を入れて持って行くと、案の定ぶつぶつ文句を言われた。

 しかしやはり頭に入らない。

 言っている方も耳に入れる気などなく好き勝手に喋っているだけだから仕方がないのだが、それでもありがたいはずの先人のお説教がまったく理解できない自分がますます嫌になる。それでも以前は内心で悪態を付きながらはいはいと聞き流せていたが、今はとてもできそうになかった。

 目が泳ぎ、口は乾き、頭は重くなる。そして瞼がこじ開けられて行く。


「こんぐらいで泣くんじゃないよ!」

「えっいやそんな、泣いてませんよ、たぶん………」

「たぶんって………………ああごめんごめん!私とした事がついうっかり、ったく年を取ると頑固になっちゃうってのは本当よねえ!」

「これも仕事ですから…………………」


 へたくそすぎるウソだった。そのウソのせいで老女の顔に一瞬だけ火が付き、そしてたちまち酸素を使い尽くして消えてしまった。


 真理が追い詰められているのは知ってはいたが、ここまでとは思っていなかった————————そして火が消えると共に顔が真っ青になり、目の前の弱り切っていた存在に追い打ちをかけた老女の罪の意識が急激に肥大した。




「婦女暴行犯のバカヤロー!ああ間違えた、バカに失礼なヤロー!」

「ああ、はい、バカですよね…本当にバカな真似をした物ですよね……………」


 最後に真理が笑ったのは、あの人見により美香子が殺される前の日。


 何て言う事のない日で、文字通りの日常だった。その時認知症を患っていた彼女にははっきりとはわからなかっただろうが、それでも今に比べればずっと充実していた事は間違いない。


 その日常を奪い取った人見に対して悪意をむき出しにした言葉を浴びせたのは老女の親心であり、実際その言葉と共に真理の目に光が戻った。


 もしできるのならば、人見仁平と言う男に考えられる限り最大の事をしてやりたい。フライパンを頭に叩き付けるか、それとも包丁で胸を一突きにしてやるか。


 自分の奥底に、いつの間にかそんなとても表出できない感情が溜まっている事を真理は理解していた。

 そしてその上にそんな事をすれば死んでしまい苦痛はそれっきりで終わるじゃないか、もっともっと苦しめてやるべきだとか言うさらに恐ろしい考えが浮かんで来る。


 その考えを表出するのをやめれば、生活に困る事もないし老人たちの心証も悪くならない。ずっとそのつもりで真理はこらえて来ていた。











「真面目に物を言え!」

「でも入居者の方が」

「私が言ったんですけど」

「…………………………他の人の前ではやめろよ」


 もちろん、まっとうな人間ならばそんな風に誰かへの憎しみを抱きながら介護を行うなどありえない。所長が人見仁平への憎しみをむき出しにする事の許可を求めた真理を叱責したのは当たり前の話だった。


 だがしかし、真理をここまで連れ込んで来た一番大事な『お客様』である老女からの要求とあらば飲まない訳にも行かない。

 ましてやただでさえここ数ヶ月入居者が減りまくっており、老人ホーム同士で老人の奪い合いが始まろうとしているのが現状だった。


 この真理の無茶ぶりでしかないはずの要求を撥ね付ければ、最悪彼女を失うかもしれない。所長は結局、この要求を呑む事を余儀なくされた。真理はなるべくテンションの上がった老女の方を見ないようにしながら、しない方がましなレベルの営業スマイルを浮かべた。

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