復讐は何も生まない!(性描写あり、というかレイプ描写あり)
「山で足をくじき助けを呼ぼうと思ってスマホを手に取ろうとした瞬間力がみなぎって来てさ、こうして自力で下山できたんだよ。でもなぜなんだろう?」
これは、ちょうどひと月前にツイッターに投稿された文である。
助けを呼ぼうとした瞬間に力が沸き上がり、結局その助けの手を借りることなく目的を成し遂げてしまった。不思議と言うより不自然、不自然と言うより不可解なお話である。
しかしツイート当時、このツイートが注目されることはほとんどなかった。
元より閲覧人数100人あまりのアカウントであったとは言え、この奇妙な体験のリツイート数は次の
「こんなもん見られてちょっとラッキー」
と言う文章に7月6日5時43分21秒と言う数字を刻んでいたデジタル時計の写真が貼り付けられていた投稿の3分の1に過ぎなかった。
だが今やいいね!の数は10000を超え、バズりを通り越してネットミーム化していた。
「最初は嘘だろと思ってたけど、なんかこうポンポン話が上がって来ると嘘って感じがして来ないんだよな。って言うかさ、これじゃ本気で商売あがったりだよな」
「でもそんな事が続く訳じゃないけれどね。私の仕事がなくならないように」
あまりにも同質の案件が続きすぎていた中での、第一号だったからだ。
当然ながら文子は、その事を苦々しく思っていた。
この半年で、日本における山岳レスキューの出動件数はゼロであった。そして建物の倒壊等による出動もまた、ゼロである。今やレスキュー隊は消防士と同じように、無駄飯喰いの役職に成り下がっていた。
いつ何時、自分が被災者になるかわからないのが火事なのである。その時に消防士がいなかったらもうどうにもならない。その万が一の時のために、消防士もレスキュー隊もいるはずだ。
「おい、ビールもう一本」
「ダメよ、お酒はほどほどに」
「何でだよいいだろ、まだ俺は三十だぞ」
「本来ならね。でもあなたは体が資本でしょ、それに最近少したるんでない?」
「わかってるよ、お互いにそういう商売だからな……ああ明日早いからもう寝る」
本当なら、このもどかしさを酔いつぶれるまで呑んで解消したかった。
樫男は元々酒飲みではなかったが、それでも職場の先輩に勧められてからは人並みに呑むようにはなった。それでも浴びるほどに呑む性質ではなかったのだが、最近は酒量が増え始めていた。
酒を控えさせる事自体はそれほど悪い事ではないはずなのに、しかし酒を止めさせた文子の顔には暗い影が覆っていた。ここまで続くと、自分がした事が何か間違っているのではないかとさえ思えて来る。
(反則でも何でもいいから、私は止めたかっただけなのに!)
確かに反則かもしれないとも思ったし、強固な意志を踏みにじった行動とも言える。しかしそれは、大勢の人間を喜ばせるためには必要な事のはずだ。滅私奉公が原則の公務員、ましてや正義の番人の警察官としては正解のはずだった。妻だって喜んで応じてくれたし、これでいいと思ってからもう七ヶ月が経つ。
その七ヶ月前の事を境にこの国全てが狂い始めたのかもしれない。たかが自分ひとりにそんな影響力などあるつもりはないはずだ。そう思おうとしても、どうしても無理だった。
思えば去年の今頃だった。夫の先輩で隊長を務めていた飯田康夫と言う男。
常に強くたくましく、それでいて暖かく優しい男。まさに理想のような男性だった。
その男性に三十五歳まで良縁がなかったのは、あるいは一人の女性のせいかもしれないと言う意見も多かった。
飯田美香子。
康夫の一回り下の妹。
康夫と美香子の母は美香子が四歳の時にこの世を去り、それ以来美香子は父と兄と言う男所帯で暮らして来た。
その父も今から十年前に妻の元へ行き、兄妹は文字通りの二人きりになった。康夫はその妹のために粉骨砕身し、消防士の安定していた給与を注ぎ込んで妹を進学させた。
そして大学を出させて就職させて、その時になってようやく恋愛を始めたんだと康夫自ら言いふらしていた。
優しく、活発で、母を早くに亡くした暗さをみじんも感じさせない。その上に軽薄な所もなく、しっかりと服装を整えている。
唯一料理だけは兄任せの事が多かったせいでうまくないと自負していたが、大した問題ではなかった。
「まったく隊長ったらさ、いつも妹さんの話ばっかりしてさ、ほらこれ」
「可愛い子じゃない」
「両親も早死にしちまってさ、ずっと兄妹肩寄せ合って暮らして来たんだよな、本当にいい子だってよ」
夫に写真を見せられた時も素直に感心し、いい男の人に出会えばいいなと思って自腹を切って花を贈った事もあった。
そんなきれいな花には、蝶や蜂が蜜を求めて集まって来るのが世の常である。そして、それ以外の害虫も―――――――――――――――。
就職から三年後、兄を必死に口説いて一人暮らしを始めた美香子は、その日もいつも通り職場からの帰り道を歩いていた。
プライベートでも必要最小限の買い物以外はほとんどせず、苦手だった料理にも自信が持ち始められて来ていた。
趣味と言えば、去年ようやく買ったスマホで電子書籍を読む事。未だに兄以上の男性に出会えず、学校にいる時はなるべく兄の役に立てるように勉強ばかりして恋愛を知らなかった美香子にとって、浅野治郎と言う小説家の描く世界は実に新鮮で興味深い世界だった。
浅野の事が気になり新しく購入したばかりの、これまで読んで来た恋愛物ではなく時代物だと言う「白い血」という作品。そのページをめくる事を楽しみにしながら、美香子は歩を進めていた。
「うっ」
だが歩きスマホなどしていない美香子の体が、突如道路に倒れ込んだ。
そしてその体は浮き上がり、気が付くと車の中にいた。叫び声を上げようにも、口が動かない。
口には二本の布がはめ込まれ、両腕も麻縄で締め付けられていた。飯田美香子と言う生娘を殴打し自宅に連れ込んだ男は、たちまち一糸まとわぬ姿になって家族以外誰にもまともに触れられていない肉体をむさぼった。
美香子は体から真っ赤な血を出しながら、うめき声を上げる。目も塞がれ、じたばたする事しかできなかった。
けだもののように激しく肉体をもてあそび機械のように心を冷たく扱ったその男は、ただ目の前の肉体に飽き果てたと言う理由で包丁を持ち出し、彼女の心臓を突き刺した。
「おとなしくしろって言ってるんだよ」
それが美香子の耳に入った最後の言葉だった。
目の前の肉体が亡骸になった事を確認した男は、まるで呼吸をするかのようにその亡骸を車に運び、適当に山に入り込んで投げ捨てた。
二十四時間後山林で遺体として発見された美香子の顔は苦痛に歪み、生前の美しい姿を連想するのは一苦労だった。
それから四ヶ月もかかってしまった事については、ただただ自分たちの無能を詫びるほかなかった。
初動捜査を誤り、犯人が美香子の家から十キロ以上離れた所に住みかつ様々な用具をあらかじめ用意した計画的な犯行である事になかなか気づけなかった。
「もし三日で捕まえていれば、こんな事にはならなかったのかもね」
「かもしれないの話はやめろよ」
ストーカー、それが捜査本部の第一の見立てだった。今時珍しいほどにまじめで優しく活発な女性、それに一方的に憧れたゆえの凶行。
しかしその線で通勤圏の住人を中心に半月近く追っていた結果たどり着いた男性三人から本人以外複数人からのアリバイ証言をされてしまい水泡に帰し、改めてGPSによる捜査を行った結果犯行に使われた車両を割り出したものの、時遅くその車は暴力団組織に横流しされナンバープレートの付け替えをされており、結果的に組織犯罪対策課が発見するまでその車の持ち主を割り出すことはできなかった。
「あの時の泣き方と来たら、正視に耐えないってのはああいう事を言うんだろうなってぐらいで……俺のがウソ泣きに思えるぐらいだよ」
棺桶に取りすがり泣きつく康夫の姿は、康夫の妻の公子や部下である樫男たちをして胸を締め付けられるほど苦しかった。
文子も改めての事件の解決を願ったが、その決意の固さが結果に結びつかなかった現実から目を背ける事はできない。もし文子の言う通り三日で事件を解決していたら、あるいはもっと違った未来があっただろう。
人見仁平とか言うその後もまったく平然と仕事をこなしていた男に会社が給料を払う事もなかったし、今でも康夫は火事と戦っていたかもしれない。
「私はあの時の決断を悔いるつもりはないけれどね」
「当たり前だ」
康夫の仕事ぶりは、事件の前から実に立派な物だった。日々訓練を怠らず、市民の安全は自分たちこそ守る物だと言う自信に満ち溢れた態度。
あの事件の後も、康夫の仕事ぶりは自信と勇気に満ち溢れた物である事は変わらないように見えた。新米の署員も、康夫の事をもてはやしていた。
だが八年間共に仕事をして来た樫男には、どうにもそうは思えなかった。
火は人類が火起こしの段階からの友であり、敵でもある。
その火が敵となり人類たちの生活を脅かした時、それを守るのが消防士の役目。それが樫男が新米の頃に康夫から聞かされた言葉だった。
しかしあの事件の後の康夫は、火に対して敵意をもって接するようになっているように思えた。全てを燃やし尽くし、何もかもを奪ってしまう、自分たちが倒すべき敵。
うまい飯が食えるのも自分たちが使うホースや消防車が作られているのも火のおかげである事を、すっかり忘れているかのように消火に当たっていた。
そして、火を消した後の表情も変わってしまっていた。
これでとりあえずは役目を果たしたという安堵から、もう少し被害を抑える事ができなかったのかと言う失望が強まっていた。相手のこれからの生活の苦難を思う仁徳、もちろんそう取る事はできるかもしれない。
だがその解釈を行う事には、康夫の目が血走りすぎていた。
まるで消したはずの火に乗り移られているかのような目。火を消している時はまだともかく、全てが終わって消防車に乗り込む時でさえ目の色は変わらず、見開かれたままの目。
その目で頭を下げたり口を緩ませたりしても、説得力はなかなか宿らない。
事件から二ヶ月、つまり今から九ヶ月前。樫男は康夫を家に招いた。
警官ではなくただの主婦の顔になっていた文子に対し康夫はいくらでも文句を言える資格はあったはずなのに、それをしなかった。
思えばその時から、第一歩が始まったのかもしれない。
妹に似て真面目だった康夫は、有給休暇もまともに使わなかった。
そのたまっていた有給休暇を康夫が樫男の家から帰った辺りから使い始め、数年前に購入した時点で型落ちだった軽自動車をただただ転がし始めた。
公子を乗せる時もあったが、その時も運転に集中しているという名目でまったく表情を崩す事はなく、そしてまるでそのルートも一定していない。観光地に行く訳でもなく、裏道を中心に味気ない都会ばかり走っていた。
ドライブと呼ぶには無機質で、消防車を運転するときの練習のような感触を公子に与えた。
「その時、なんとなく気付いていたのかもしれないと公子さんは俺に言ったよ。このままでは自分の手で行くかもしれないって」
「口数も減ってたんでしょ」
元より多弁であったり社交性が高かったりという訳でもなく、実直で真面目な人柄に魅かれて結婚した。
真面目で頭がいいから、目の前の相手に憤懣をぶつけた所で何一つ改善しないことがわかっている。その事を八ヶ月前に樫男に話した時の公子の右手には、誕生石だと言うサファイアの指輪が光っていた。
おそらくそうだろうと思いながら聞いてみると、やはりあの事件の後に康夫が公子に買って来たらしい。
あえて値段を聞く事はしなかったが、おそらくはひと月分の給料は下らないだろう指輪。その指輪が上っ面だけでなく芯からの愛情である事は、額面からしても輝きからしてもよくわかるそれだった。
————————俺はこれ以上耐えられない。信じていないわけではないのだが、それでも自分の手で何とかしてやりたい。
それでも、愛する妻の事を忘れるわけには行かない。様々な逡巡が込められた石。サファイアの青い輝きが、樫男にはつらかった。自分が康夫の真似をして何かを妻に送ろうとしてやめたのは間違いではないと思いたかった。
素人とは言え、ニュースや警察から最低限の情報は手に入れられる。その情報から勝手に判断し犯人像を考えると言うのは、いつも視聴者様がよくやっている事である。
刑事ドラマを見ている視聴者が一体何人いると言うのだろうか。それと同じ事を、現在進行形で康夫はやっているのではないか。
そんな予感に至ってしまった樫男と文子が、そんな事などやめさせるべきだと言う考えに至るのは当たり前だった。
そして当て推量で動く事が何を呼ぶか、答えはあまりにも簡単だ。消防士でも問題があるだろうが、警察官となるとなおさらだ。冤罪、それだけは絶対に避けなければならない。人一人の運命を無茶苦茶にするだけではなく、警察全体の信用にも関わる。
と言ってもおそらくはピント外れな素人推理で結果として冤罪を生むのではないか、その考えは極めて自然であり普通だった。
だが今になって思うと、その素人推理が案外適切だった。
「なるべく足が付かないように生活圏外の存在を狙う。最初からなすべきをなしたら殺すつもりだった」
取調室で人見仁平と言う男が吐いた動機と経緯をつかむのに、警察はひと月かかった。
二ヶ月かかっても犯人が出て来ないと言う前提条件があったにせよ、当初からその方向で動いていたとすれば通俗的探偵小説に出て来るような玄人裸足なレベルの才能ぐらいはあったのかもしれない。
だがその才能を何に使うか、その事を考えたくはなかった。
あれほど立派な人間に、人殺しの汚名を着せてはいけない!
そう思ったからこそ、樫男はあの日康夫を酒に誘った。仲間をかき集めて居酒屋に誘い込み、拘束しようとした。
もし断るつもりであれば、無理矢理引きずってでも止めようと思っていた。
数日前からやたらに明るくなり、その上でやたらに社交的になった。この奇妙なほどの変化に、「覚悟」をしたのではないかと樫男は疑い、文子は断定した。
今日ダメならば明日もやる、明日ダメならあさってもやる。
文子と仲間たちに、樫男はある意味で運命をかけた。
わざとらしく絡み酒を続け、そして一人、また一人と先に酔い潰れようが構う事なく康夫を酔い潰しにかかった。
結論から言えば、この計画は成功に終わり、康夫の計画―――深夜に人見の家へと向かい、起き抜けの人見を刺し殺すと言う――――の阻止に成功した。
人見仁平はその夜文子たちにより、手錠をはめられた。
これで飯田美香子強姦殺人事件は、ひとつの終わりを迎えたのである。
しかしいくら犯行が残忍な上に反省の様子がない所で、今の日本で一人を殺しただけで死刑になるのは難しい。
死刑廃止論がくすぶり続ける中、あの時も康夫の気持ちなど無視して死刑廃止論を唱え続ける弁護士たちが総出で人見の弁護に付き、結果考えうる中でもっとも重いであろう無期懲役の刑に終わった。
収まるべき所に収まった、それが世間の一般的な見方だし、樫男たちもそう思っていた。
有期で出て来られるよりはずっといい、一生自由を奪われ続けるのは、場合によっては死刑より残酷な刑罰かもしれない。
そう七か月前の二人は信じて疑わなかった。
消防士である必要も、介護士である意味も、どこまでも意地悪くはぎ取られて行く現実が、何よりも腹立たしかった。
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