本末転倒

「ああ姉さんさ、何か食いたいもんある?今度俺が作ってやるよ」

「ペスカトーレを板前に頼むほどバカじゃないんだけど」

「一応料理人だぜ俺は、まあ材料今度の休みに買って来て作ってやるよ。姉さんは黙って座ってていいからさ」

「材料ぐらい買うわよ自分で」


 二年間でようやく包丁を握らせてもらう事も増えたものの、いまだに客に出す料理は作らせてくれていない。それでも身内のまかない料理ではそれなりに評判もいいし、最近ではサービスの一環として新米の板前が作った料理を安く出すと言うプランが持ち上がっている。


 そうなれば自分の料理がお客様に食べて頂けるかもしれない、それだけでやる気が出て来る。




 十五年前、両親と姉弟で旅行に行った先で食べた刺身に感動し、その事を中学校時代に思い出し板前を志してはや六年。


 月男は包丁と共に未だ青春の炎を燃やしていた。


 その燃える弟が、今の真理にはうっとおしくて仕方がなかった。


「やっぱりさ、私結婚しようかな」

「おいおい!」

「冗談よ、でも実は今うちの施設にいる人から紹介されそうでね、お姉さんのお孫さんって人。なんでも区役所で婚姻届の受付やってる人だそうだけどさ」

「いくつなんだよ」

「アラサー」

「そうか、まあ気に入るかどうかはともかくいっぺん会ってみるに越した事はないんじゃないかな。姉さんが幸せならそれに越した事はないしさ。じゃあ俺は明日早いんで寝るからさ」

「おやすみなさい」


 まだ八時半である。休みの日の翌日と言うのはどうにも仕事がおっくうになりやすいものだから早めに寝て早く起きて体勢を整える、実に立派な社会人だった。




 すやすやと寝ている弟の顔を見ていると、昔の事を思い出す。おとなしくてむずかる事の少ない、母としても姉としても接しやすい弟。

 それがいきなり板前になると言い出した時は驚くとか怒るとか先に呆れてしまい、自分たちの反対も力弱く弟を止める事は出来なかった。


 それなら自分で家ぐらい何とかしろと言うべきだったかもしれないが、実際こうして姉弟二人で同居して金を節約できている手前大きな事も言えない。

 実際、そのせいで力仕事や心理的に辛い事があったとしても真理は助かっていた。




 最低級の物を見て全体を判断するような事があってはいけない、真理は今日老人から聞いた言葉を反芻していた。

 女子校育ちと言う訳ではないから、学生時代から男なんて山と見て来た記憶はある。


 頭のいい男バカな男真面目な男不真面目な男、ガキっぽい男大人の男明るい男暗い男。ポテンシャルの高い男の子を好きになりアタックをかけようとした事もあった。そんな事を思い出してみるとたまたま自分が関わった男、いや横ですれ違ったような男が最低のそれであっただけでこんなに恋愛に対して臆病になる必要などないはずだ。

 その理屈で臆病になれるのならば、刑事ドラマを見るだけでいくらでも臆病になれる。現実で見る事がないほどに醜悪な犯行をする人間が現存すると思うだけで怯える事ができる。


 真理自身仕事人間でもないつもりだったが、社会人になってからはしばらく仕事を叩きこむために自分の趣味は半ば捨てていた。


 最近ようやく余裕ができて再び趣味に復帰しようとした直後につまずき、そして今まで引きずっている。

 最近増えた暇な時間を、真理はただ寝て過ごしている事も多い。そうでないとすれば、弟が少ない給料で買って来た古い物を漁っていた。今夜もまた、小さな電灯の下で小さな文字がずらりと並んだ文庫本に目を通していた。



 今真理は、浅野治郎と言う小説家の、「天啓の刃」と言う作品を寝転がりながら読む。

 新人賞獲得後の第一作として書かれその名声を確立したその作品の末尾には、八年前の日付と第八版と言う数字が記されていた。作品の評判が広まってから買ったことがまるわかりな数字だが、それが作品に対する安心感と信頼感を示していた。

 五百円の文庫本だが、月男の給料からすれば決して安い買い物でもないだろう。古本屋とかならばいざ知らず、装丁を見る限り古びているようにも見えない。




 江戸時代のある日一帯を牛耳っていた豪商が、ある時手に入れた刀で突如腹を斬った事から始まる騒動を描いた物語だ。


 偽装された闇討ちではないのか、あるいは不正な取引の露見を恐れての行為か。それとも初めて手にした刀に何かあったのではないか。人々は好き勝手に騒ぎ、好悪問わず関係のあった人間が次々と彼の死に振り回されて行く。

 やがて側近の男が謎の日記の存在を明かし、中盤以降はその日記を求めての騒動になる。そして最終的に発見されたその日記には、抜け荷の証拠も何もなくただ自分の栄華がいつ崩れるかもわからない恐怖が記されていた。




「ああ、これでようやく自らの手で私は身を清める事ができる。ずっと我が手により築き上げたこの栄耀栄華が雲散霧消するか、私の生活はずっとこの恐れとの戦いだった。

 だからどうか早くこの世を去りたかった。いくら寺や僧に祈っても寄進してもまったくこの気持ちが鎮まる事はなかった、ましてや他人に言えるはずもない。もはやこれ以上この世にしがみつくだけの気力もない」




 最後の一枚に記されたその文面を主人公の同心が反復する所でこの作品は終わっている。


 自害した豪商の栄耀栄華ぶりはまったく憂いがなく、そして驕りもない。


 彼との競争に負けて潰れた店も登場していたが、それは主人の失態に原因があり世に言う自己責任であった。そんな非の打ち所がない人間のあまりにも重たい最期に、多くの読者が無常さを覚えた。


 男についても同じなのだろうか。これまで幾多の実績を積み上げ、安心と安全の保証がついてなければ何をするかわからない物だろうか。

 それでいてなお、合う合わないの問題がつきまとう。そうやってためらい続けて婚期を逃す事ほどバカバカしい話もない。


「もう寝る!」


 いくら翌日が遅番泊まりとは言え、そう無駄に考えて時間をつぶした所で何になると言うのか。真理は本をしまうとベッドに入り込んだ。









「姉さん!ガスの元栓が閉まっていないじゃないか!」


 翌朝、真理は月男の怒鳴り声で目を覚ました。寝ぼけまなこを抱えながら台所に行くと、月男の言う通りガスの元栓が入ったままになっていた。


「俺は確かに閉めて寝たんだよ!姉さん何したんだ」

「ああ、しまった!ごめんなさい、ごめんなさい!」


 ベッドに入り込んだものの目が冴えてしまい瞼を閉じさせるために紅茶を一杯沸かして飲んだ事を忘れていた事に気付いた真理の頭が一気に覚醒し、そしてそのまま平謝りを繰り返した。


「いや本当ごめん、本当ごめんなさい!」

「最近姉さんさ、気が緩んでない?あんなニュースを見れば気が緩むのはわからないでもないよ、でもだからと言って明日起きないなんて保証がどこにあるんだよ」

「やはり板前って違うのね」

「板前とか関係ないだろ!」


 老人ホームだって、当然ながら火を使う。入所者たちにお茶を飲ませたり、職員たちが自分たちの食事のために利用したりする。


 その際にも無論、出る時や寝る時にはきっちり確認する。小学生の時から叩き込まれているはずの事ができなかった、その現実がまた真理を痛めつけている。


「どうせ姉さんは遅番なんだろ、もう少しゆっくりしてな。今日は俺が朝飯作ってやるからさ」


 朝っぱらから弟に叱られ、平身低頭しながらベッドに籠るしかなかった。

 情けなくて仕方なくて、涙が止まらない。そしてたかがそんな事で泣いている自分が情けなくなり、ますます涙があふれて来る。


「ああもう、朝っぱらから泣くんじゃないよ!ほらできたから」

「うん……」

「今日も爺さん婆さんが待ってるんだろ?そのために気合を入れてくれよ!あさっては休みなんだろ?」

「そうなんだけどね……!」


 もし自分の店の先輩や同僚に同じことが起きた場合、自分がこうならずにすむだろうか。

 最初の頃はまだ大丈夫だったし、七ヶ月前にはようやく落ち着いたかのようにこれまでの自分を取り戻していた。

 そんな彼女が、今ではすっかり弱ってしまっている。


 真理は弟の食事を腹に詰め込みながら心の中で三回、食べ終わってから実際に三回深呼吸を繰り返した。

 そしてマンションのドアを開けて日の光を浴び、元気を取り戻したつもりになった。











 そんな真理が仕事場に着いてほどなく、一人の老女から呼び出された。


「ああもうどうしたんですかおばあちゃん」

「真理さん、すいませんけれどねえ」


 ぐっしょりと濡れたオムツ、それと見たくもない女陰を見せられ、新しいオムツをあてがう。

 慣れたくもないが慣れてしまったはずのその光景が、今再び苦痛になっていた。


「ったくおばあちゃんったら、行きたいときは言ってくれないと」

「あーあ、ったくそのつもりなんですけどねえ……本当に申し訳ありません」

「もう大丈夫ですから」


 空しいとしか言いようがない会話だ。御年九十を越えたその老女がオムツを濡らしたのはひと月ぶりである。


 小便組と言う言葉がある。江戸時代に妾となって支度金を手に入れ、わざと寝小便をして向こうから縁を切らせて支度金をだまし取る詐欺行為を働く人間の事を言う。

 ある意味ではその老女も小便組かもしれない。ただこの場合、金をだまし取るのではなくくれてやっている。




 その老女も、真理に見合いを勧めて来た老人と同じだった。


 七ヶ月前のあの日以来、進んでいたはずの認知症の症状が突然消し飛び体力も六十代半ばにまで戻っていた。

 もし彼女に身寄りがいれば、とっくにこの施設から出て行ったかもしれない。


 それを必死につなぎとめているのは自分の面倒を必死に見てくれているこの施設の職員を飢えさせたくないと言う、奇形じみた親心だった。


「最近ねえ、よそのお年寄りもみんな元気になってねえ、ほらあるでしょ?あの介護離職って奴。あれで離れてた人がみんな戻って来られてるって」

「そうなんですよね」

「あの子もいい子だったんだけれどねえ」

「おばあちゃんの」

「ああ次男ね。あの子は真面目でいい子だったんだけどもう三十年も前に交通事故で二十六歳で死んじゃってねえ。それ以来うちの人もすっかり弱っちゃって、一応天寿は全うしたけど、と言っても結婚した時は七つも上だったのにもう十八個も年下になっちゃって。ああこんなしわくちゃ婆さんになっても愛してくれますかねえ」

「無論ですよ」




 あの事件が、全てを歪ませてしまったと言うのか。


 介護職員が老人に介護されている。養われていると言うのならばまだともかく、完全な本末転倒である。


 彼らが強いのか、自分たちが弱いのか。年を取ると心が子供に戻りその分だけ新しい事に対しても強くなるのだろうかとか、真理はあらぬ事を考えたくなってしまった。

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