介護士の退屈

「めしはまだかい」

「おじいちゃん、一時間前に食べたばかりですよ」


 沢真理の職場では、いつもこんな声が飛び交う。覚悟をしていたとは言え、長時間労働は楽な物ではない。


 いや、楽な物ではないはずだった。


「おじいちゃん、昔お笑いタレントでもやってました?」

「バカを言え、こちとら四十五年間公務員暮らしよ。一応酒席での芸の一つぐらいは覚えたけど、そんなモノマネなんぞせんわ」


 ベッドが並ぶ部屋の中で真理と老人がこんな会話をする。


 笑顔の絶えない職場とか言えば体裁はいいが、そうでもしなければやっていられないと言うのが現実だった。




 この半年間で、真理が所属する老人ホームの入所者数は3分の2になった。


 死んだわけではない。退所して行くだけだ。


「どこのサービスを改善しろと言うんだ!」


 退所者が出る度に所長の怒鳴り声が響き、真理たちの心臓が縮み上がる。五体満足なまま退所されては評判が上がるはずはない。


 入所して体調が改善されたとか言うのならばまだいいが、それがアドバンテージにならない事などここにいる全員がわかっている。



「首切り……」

「現時点ではまだ大丈夫だ、と言ってもあくまでも現時点ではだ。所詮商売だからな、金払いのいいお客様がいなくなったらおしまいだ。なるべく逃さないようにしないとまずいぞ」


 詰まる所「頑張れ」なのである。


 顧客様を掴んで離さず、そして次の客をつかみにかからねばならない。入所者数の減少は職員個人の負担を軽くしたが、同時に財布も軽くしようとしていた。

 

「いい人はいるのかね」

「それがまだ」

「何だと、それならわしが紹介してやろうか、妹の孫で二十八にして女っ気なしだけどこれが真面目な奴でな、会ってみるに越した事はあるまい」

「そんな急な」

「急なとは何だ、この話は三日おきにしてるはずだぞ、もう忘れたのかね」


 真理が介護士となってから四年が経つ。時に二十五歳、もうそろそろ結婚の話を考えてもおかしくない年齢である。


「まったくけしからん男だがね、最低級の物を見てそれをサンプルにしてはいかん。もう少し他人を信じてみろ」

「はい……」

「返事が小さい!」

「はい!」



 真理自身、自分の足が恋愛の方向に進まない事は自覚している。

 とは言え、それをあんな事があったし仕方がないで済ませるのは怠惰ではないだろうかと言うのはわかっている。

 それに最近、暇も増えて来た。


 車いすに乗るこの矍鑠とした声を出す老人が、少し前まで自分の名前も言えないほどの認知症であった事をにわかに信じるのは難しいだろう。

 車いすに乗ってはいるがそれも形だけに近く、その気になれば歩く事は十分に可能だった。


「サービスの悪い事だな、甥が妻をめとったらそちらに世話になってもいいと思っとるぐらいだ。ああその時は人手が足りん足りんとほざいているどこかの店にでも入り込んで最後の炎を燃やしてやってもいいんだけどな」


 御年八十歳だと言うのに、傘寿どころか三十歳のように意欲にあふれている。

 それでいて老獪な言い回しでこちらに要求を通させようとして来る、実に嫌らしい老人だった。


「しかしあれだな、わしが少しばかりおかしくなっている間に悪い奴は牢屋に入れられたのだな。まったく二十八歳であんな過ちを犯して人生をぶち壊しにするとは!もちろんこんな年だから許せる物でもあるまいが、それでもこれからの短くない生涯をまるまるフイにする事はあるまい」

「そうですよねー」

「清く正しく生きておれば、それが身を守る事になる。君のようにな」


 少しだけ真理の機嫌が良くなったのに呼応するかのように、老人は立ち上がった。少し散歩でもするかと言う老人の手を引きながら、真理はゆっくりと歩いた。


「来月の、確か十八日だったな」

「おじいちゃん、集楽さんが来るのは十五日ですよ」

「あああの落語家か、良くも悪くも師匠とは全然違う男だな」


 老人ホームのテレビでは、よく落語が流れる。その中で入所者たちに一番人気があったのは三代目天命亭楽命だった。その楽命の弟子である天命亭集楽は、この老人ホームに年六回の単位で来ていた。


「集楽さんは落語家らしく気立てのいい方で、分け隔てなく接して下さるんですよね」

「ただこれだと言う感じはせんな、どこか柔らかすぎるきらいがある。誰にもある程度受ける感じだが、誰かを派手に笑わせる事は出来ていない。だからこそわしらがいい客になってやらなけりゃやらんな」

「今度の演目は何でしたっけ」

「ちはやぶる、じゅげむ、目黒のさんま……まったくいつも通りの代物だ。そんな前座話から始まって最後に創作をやるらしいけど、さてどうだか」

「私も目黒のさんまみたいな事をしないようにしなきゃいけませんね」


 真理も老人も、さほど落語に関心がある訳でもない。それなのに二人して天命亭集楽と言うひと月以上来ない落語家の話で盛り上がれていた。いや、真理が盛り上げさせていた。


 真理自身、あの時の傷が癒えたのかどうかわからない。首切りと言う話題が上がる度に、自分がやめればいいのかもしれないと思っている。

 所長は現在真理が一番活躍しているからと言う理由でやめないように言っているが、それでも真理自身意欲が萎えかかっているのを感じていた。







「姉さんお帰り」


 真理の帰宅は、日を追うごとに早くなっている。職員の数がそのままで介護対象が減っているのだから仕事が減るのは当たり前であり、半年前に平均六時間だった睡眠時間は現在七時間を超えている。

 一応施設に泊まりと言う事もあったが、それでも最近だいぶ寝覚めが良くなって来た。


「月男、ご飯は何食べたの」

「麻婆春雨。と言っても出来合いのやつだけどね、俺は中華料理屋じゃないし」


 真理のマンションに弟の月男が飛び込んで来たのは二年前である。


 この自分よりずっと勉強のできた五つ下の弟は中学卒業後両親の希望を蹴飛ばして料理学校に入り、最近ようやく鮮魚料理屋の板前になった。この弟の仕事ぶりは、自分のそれがぬるま湯に感じるほどに激しいだろうことを真理はひしひしと感じていた。

 この日は休みであったが、そうでない日は自分より早く出て遅く帰って来る。


「最近さ、じいさんばあさんがやたらたくさん来るんだよ。そのせいで店がもうかってるのは別にいいんだけどさ」

「忙しいの」

「ああ忙しいよ。まあ俺は包丁なんぞなかなか握らせちゃくれねえけど配膳だけでもうてんてこ舞いだし、何せああいう人って舌が肥えてるからね。批評がいちいち重みがあるんだわこれが」


 老人だから肉より魚を好むなどと言うデータはどこにもないが、確かに最近月男が勤めている店にはそういう老人の客が多かった。それも六十五、六十六歳ではなく七十五歳、八十歳ぐらいのである。


 月男が勤めているのはそんなに格式ばっていない店であったが、それでも一般的なファミレスと比べるとやはり値は張る。


「最近老人の皆さんたちが妙に、いや妙にっつっちゃあ失礼なんだけど元気がいいんだよな。ほら話題になってたじゃん、高齢ドライバーの事故って奴。あれさ、急に起こんなくなったって話」


 その値の張る店に通う老人たちの中には、自ら自動車を転がして来る人間も多い。もちろん店の方で禁酒は心掛けさせているが、それでもやはり様々な能力の衰えから来る事故は社会問題になりつつあった――――はずなのに、ここ最近は急に減っていた。


「俺はいいよ、姉さん大丈夫なの?」

「今の所は……ね、今の所は。でも十日前にも一人トメさんって人が」

「あー、それであれなんだろ?ったく因果な商売だよな」

「商売って言わないでよ!」


 真理自身、介護士になったのは高齢化社会を鑑みて食えなくなる事がなさそうと言うだけでそれほど深い志があった訳でもない。


 だがそれでも今の職場で過ごす内にだんだんとその自覚が芽生え始め、立派な介護士として歩もうとしている最中だった。

 リンゴが赤くなると医者が青くなると言うが、医者と言うのは患者がいなくなれば成り立たない。実際にはいなくなりようがないのだが、それでもその現実からは逃れようがない。


「ったくそんな本ばっかり読んでないで包丁でも握ったらどうなの!」

「いいじゃないかよそんなにカッカしなくったって、何かあったのかよ」

「月男、あなた彼女は」

「いないよ、いたら紹介してほしいぐらいだよ。まあ男ばっかりの職場だしさ」

「ちゃんと貞節を守りなさいよ、童貞童貞ってバカにするような女は気にしなくていいからさ!」

「よくわかりました」


 月男にとって、およそ一年ぶりの言葉だった。その時は姉からではなく母親からだったが、いずれにせよその切羽詰まり具合は同じだった。こういう時はひたすら平身低頭するしかない事をわきまえていた月男は本から手を離し折り畳んだ。







 真理にとってあの事件は、未だに現在だった。

 裁判官や警察官にとっては事件は日常だが、被害者にとって事件は永遠に過去にはならず一生を揺るがし続ける。当事者のみならず関係者にとってもそれは変わらない。大なり小なり、何らかの影響を受け続ける。



 もし許されるのならば、十一ヶ月前のあの日に帰りたい。

 そして何とかして運命を変えてやりたい。


 そんな不可能な考えを心から追い出し必死に仕事に励んでいたのにまた今日かさぶたを剥がされたような気分になりつい神経を尖らせてしまい、それでも仕事場にいる間はこらえられていたが家に帰って来ると出てしまった。

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