ダモクレスの剣

@wizard-T

火事のない国

 機嫌がいい時は、何を見てもさわやかな気分になれる。空に浮かぶ雲が黒くとも、果たしてその雲が期待通りに雨を降らせたとしても、それは自然の営みに過ぎないのだと納得する事ができる。


 そして、逆もまたしかりである。


 灰色の壁。


 よく言えば落ち着く、悪く言えば味気ない壁。その見慣れきったその壁さえも、今の彼らには心を逆撫でする存在だった。




「給料ドロボーですよね僕たち」

「上等じゃねえかよ!」


 ―――――――そんな会話が、もう半年以上繰り広げられている。志高くこの職業を選んだはずなのに、今の身分は給料ドロボーと言うに等しい。

 肩身の狭さと来たら、もうそれがいいのだとか公務員だとかごまかす事でしか糊塗できないほどであった。



 誇り高き銀色の服に、赤い車。銀色の服はあの時から一度も袖を通されず、赤い車は四回しか飛び出していない。


 この一ヶ所で一万人以上の住む区域を担っているはずの存在だと言うのに、まったく置物と化した自動車。壁に備え付けられた全ての設備が、まるで人類が滅亡した後に残された建物のように空しくたたずんでいる。




「駅ビルから徒歩四分、藤本歯科の目の前で男性が胸を押さえて倒れています!」


 たまに連絡が飛んで来た所で、こんな物しかない。


「駅ビルから徒歩四分、藤本歯科の目の前で男性が胸を押さえて倒れています」



 繰り返す言葉も、棒読みで力弱い。


 そんな事のためにここにいるんじゃないのに、それでも助けを求められている事に変わりはないのだしと割り切って車に乗り込み、エンジンに点火するその男性、長江樫男の顔にまったく覇気はない。




「ったくこの人ったら、私が勿論悪いんですけど、だからと言ってカバンが胸に当たったぐらいで救急車を呼ばなくてもねえ……」


 慣れてしまった。慣れたくないのに、慣れてしまった。


 先ほど四回飛び出したと述べたが、その内三回がこれと同じような事態である。

 軽い疾患で救急車を呼び付け、タクシー同然の用途で使おうとする不埒な輩。


 その輩に向けて消防車が差し向けられる事が、最近増えていた。もちろん消防署自らの判断ではなく、119番と言う病院と共通の電話番号でかかって来るゆえの判断である。

 緊急車両扱いではあるから、信号も構わず突っ切って来てくれる。


「とりあえずうちに来てくれます?呼んだからにはもう大丈夫だなんて通用しませんからね」

「いたたた……!」


 呼んだ方も呼んだ方だったとは言え、長江樫男の物言いも相当だった。樫男はたかが胸の打撲だけで救急車を呼ぼうとした人間を強引に助手席に押し込み、消防署に連れ帰った。







「ただいま!」


 まったく退屈な時間を終えて家に帰って来た樫男だったが、答える声はない。

 わかりきった事ではあるが、そのわかりきった事実もまた樫男の心を踏みにじる。この3LDKに自分以外で唯一入って来られる人間の事を考えて気を紛らわそうとしても、うまく行かない。


「この前は力任せな辛さばかりが目立ってたからな、今度は砂糖を小さじ一杯ぐらい入れてみるか、それともはちみつでも入れてみるか……」


 あまりにも暇を持て余した結果、樫男は独身時代でさえまともに取り組まなかったカレー作りに熱を入れていた。


 最近三ヶ月、樫男が作った料理の半分がカレーになっている。いっその事調理師免許でも取り、消防士などやめてやろうと思った事もあった。




「お帰りなさい、ってまたカレー?」

「勘弁してくれよ」


 やがて、妻の文子が帰宅して来た。


 夫の電話番号が119番なら、妻の電話番号は110番である。


 捜査一課に配属されて数年、人並に頑張り昇進もした。樫男も公務員であるように、文子も公務員であった。

 三十路の収入の安定した夫婦だが、子どもはまだいない。最近両親からの持てと言う圧力がうるさくなっているから二人で眠れる時は常にその事を考えまた実行しているのだが、しょせん十月十日の日月を待たねばならない話である。


「この国はどうなっちまうんだろうな」

「おいしいわね、この前のは何かいやらしい辛さがあったけど」

「話を聞けよ」

「お皿片付けておいて、明日久しぶりに休みなんだから今夜は寝かさないから。あなた明日も暇なんでしょ?」


 お互い、暇であればそれに越した事はない。火事なんぞ起きない方がいいし、殺人事件なんぞない方がいいに決まっている。しかしいつ何時、火事や事件が起きないとも限らない——————そのはずだ。




「今日久しぶりに車を動かしたよ」

「火事?」

「いいや、代わりの代わり。救急車とタクシーの区別もつかないバカの面倒を見るのって大変で大変で」


 火事と言う単語が二人の周りから消え去って以来、どれだけの時間が経つのだろうか。


 最後に消防士として樫男が真っ当な働きをしたのは、一ヶ月前の火災予防運動のアピール活動である。その活動を見に来た人間は、半年前の数分の一にまで減っており、見に人間たちも大あくびをしながら見ていた。


「マスコミは一応口をつぐんでくれているけどな、このまま進むといよいよ危なくなるぞ」

「そうよね、おとといやってたドラマは見たでしょ、ああいう風にねえ」


 その二時間ドラマでは、犯人の男性が幼少時に火災により両親を失うシーンが描かれていた。

 その凄惨な死に様と家屋の焼けっぷりはあまりにも強烈であり、子どもにトラウマを植え付けるには十分だったはずだ。


「あれあなたの高校時代のお友達が書いた作品が元ネタなんでしょ」

「ああそうだな、でも俺はあまり面白いとは思わなかったけどな。どうなんだよ警官から見てあのトリックは」

「あなたさんざんあの人は推理小説家じゃないからとか言ってたじゃありませんか、そう考えてみればまあこの程度って感じですよ」




 樫男が高校一年生の時可愛がってもらったのが、二つ上の浅野治郎だ。

 その時から既に文芸雑誌に作品をいくつか投稿し、七年前にデビューして新進気鋭の作家として謳われた時は自分が消防士になった時の次に嬉しかった。


 まったくタイプの違う人間のはずなのに、実に話が合う。浅野の咀嚼力に満ちた文章は樫男にもよく響き、樫男は今でも彼のファンの一人を名乗っている。

 と言っても浅野の作品は恋愛小説か時代物のどちらかが主力で、推理小説自体これが初だった。


「最近中国やアメリカで火事が多いらしいな」

「あなた」

「言ってみたかっただけだ」

「もうこれ以上ぐだぐだしててもしょうがないですから、さっそく始めませんか」

「だな」


 文子の方から求めて来たと言うのに、いざ事が始まると樫男の方が強く文子を責め立てていた。燃え上がるような感情をむき出しにして、文子にぶつけた。


「今度こそ、今度こそ!」

「せっかち過ぎますよ」

「大丈夫だ、俺は消防士なんだぞ!肉体が資本なんだぞ!」


 筋骨隆々という単語が似合う肉体だけに、精力は凄まじいはずだった。

 だが最近は気力の低下と共に精力も萎え気味で、なかなか持たない。それでも気合を入れて妻を抱き、まるで自分が相手と同じように翌日休みであり壮健な肉体の持ち主であるかのように全ての力を叩きつけた。










「おはようございます」


 あくびを抑え込んだ涙を流しながらの挨拶。二十四時間戦えますかなどと言う言葉は既に死語になって久しいが、消防士と言うのはそういう職種である。

 あくびを抑え込んだ樫男の姿は、情けないと言うより痛々しかった。


「いつ本番が来るとも限らんのだからな、決して用意を怠るなよ」


 メンテナンス作業で一日が始まり、そして終わる。いざと言う時に備えてのトレーニングが行われるが、そのいざと言う時が来ない。


 大火事になれば隣の地区から要請も来る物だが、その隣の地区からも来ない。


「じいさん怒るかな、僕のこんな姿を見てたら……どうなんですか隊長」

「俺は隊長じゃねえっての、副隊長だよ」


 せっかく一人前になったはずなのに、学校時代とやる事がまるで変わらない。新米消防士がそんな不満をこぼしたのもごもっともだ。


 そしてこの日勤務していた五人の中でもっとも年嵩である樫男に向かって愚痴をぶつけ、そしてこう反論される。これが最近の恒例行事になっていた。


「にしても隊長、本当に大丈夫なんですかね」


 待機室の中にデンと構えられている、大きな机。その机の椅子はすっかりホコリが積もっている。その机の上にはにこやかながらもたくましさを感じさせる顔が映っている写真が乗っかっており、その机が誰の物であるか雄弁に示していた。


「隊長は疲れてるんだ、少し休ませてやらなきゃいけない」

「そうですね」


 あれから七ヶ月、正確に言えば十一ヶ月。この笑顔は戻っていない。二ヶ月前に一度期待した事もあった、がその顔はまるで変わっていない。







「そうかい」


 その四文字以上の返答を樫男はいまだに聞いていない。怒りとか悲しみとか言うより無気力、無関心。それから上の空。

 そういう言葉を擬人化したような目つきでただ座っていた。


「いつまでも私たちは待っていますから、その気になったらまた声をかけてください」

「うん」


 そんな事がひと月近く続き、上から無期限の休養を命じられたのがちょうど半年前。未だに復帰のめどすら立たないまま、時間ばかりがダラダラと流れている。


 仕事に熱中でもできれば少しは気力も戻るのだろうが、ひと月もの間座っているだけの生活で病巣がその心を容赦なく蝕んだのかもしれない。


 消防署の隊長が座ってする仕事などたかが知れている。そのたかが知れた仕事を片付けると何もすることがなくなり、そしてそのまま時間が終わってしまう。


 その現実がその男の気力を根こそぎ削いでいる事を、樫男はよく知っていた。

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