episode0-2
男たちが完全に去っていくまで、イリアは一歩も動けなかった。
それは1分ぽっちだったのか、それとも1時間だったのか、あまりのも長い時間、イリアは体を固まらせたまま、その場にうずくまっていた。しかし、煙の香りがイリアの鼻孔をくすぐったあたりで、やっと我に返った。そうして震える足を叱咤して、机の隙間から転がるように出れば、赤いカーペットにはべっとりと母の血が付いていた。その血は転々と、イリアと母が来た方向へと続いていた。
おかあさま。
イリアは確かにそう言った。
そう言ったはずだった。
それなのに、口元から出たのは、言葉でも声でもなく、震えた吐息だけだった。
イリアは喉に手を当てる。激しく嗚咽を漏らしながらも、涙をこぼす。母の血が着いたカーペットに額を擦り付け、泣いて、泣いて、泣き叫んだ。
けれど、イリアの喉から声が出ることはなかった。
母を呼ぶ言葉、魂の叫びは、声となって形とならず、ただ小さな吐息が、切なく、それでも激しく、喉奥からこぼれ落ちる。それだけだった。悲しみ、苦しみ、痛み、それら全てが一体となって、イリアの心と身体に襲い掛かる。それでも、お母様を助けなければ、という一心から、イリアはよろよろと立ち上がり、振り返った。
そんな、とイリアは愕然とした。炎の渦が壁となり、もう戻れなくなっていた。むしろ今にもイリアを飲み込もうと、龍にも虎にも姿を変え、焔はイリアに牙を向いていた。
いやだ、お母様──と、イリアは呟く。
しかし、それは言葉とならずにこぼれ落ちるだけだ。イリアは子供が駄々をこねるように頭を振る。ふと、その瞬間──イリアの胸元で何かがはねた。
それは、ひんやりとした紅色の水晶だった。
「ローズクォーツの欠片」──フィエール王家の秘宝にして、母から託された最後の願い。母の今際の顔が浮かぶ。微笑んだ母に、優しい父に、平和だったこの世界に、あいつは──セルジュ・オダシウスは、なにをした?
炎は勢いを止まない。いずれはイリア諸共、全てを飲み込み食うだろう。
大切だった場所が、不躾に侵食されていく。
幸せだった物語が、第三者の介入によって、不幸せになっていく。
許さない。
許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。
イリアの頭が、セルジュへの怒りと憎しみで満たされていく。
奪われた者の痛みを、恨みを、このままになど、してやるものか!
イリアはきっと虚空をにらみつけ荒っぽい動作で涙をぬぐった。
今や炎の渦となった、母の最後の姿を見たその場所で、座り込む。
そして、深深と地面に額を擦り付けた。
忘れない。決して、忘れない。
この恨み。憎しみ。怒り。
我らが受けた理不尽を、許してなどやるものか。
セルジュ・オダシウス。
私は、貴方を、絶対に許さない。
イリアは立ち上がり、そのまま走り出した。幼い頃から暮らしていた、勝手知ったるこの城の近道を思いつくことなどたやすかった。
イリアとレティシアの私室。
お母様お気に入りの温室。
お父様の仕事部屋。
レティシア姉さんが大好きだった談話室。
イリアとレティシアの秘密基地。
思い出が詰まりすぎた愛しい城を、イリアは唇を噛み締めながら走った。
途中で多くの死体と遭遇した。
ばあやのオレリア、執事のアベル、仲良しのメイドのアネット、庭師のダニアン、みんな、みんな、死んでいた。悲痛に歪んだ彼らの死体を見て、またイリアの心が壊れていく。ガラガラと音が立てて死んでいく。けれど、それだけでは終わらない。イリアは彼らに願い、誓う。彼らが死後シエルに行けるように。神の御本にたどり着くように。そして、彼らの死を決して無駄にはしないと、泣くのを堪えながら誓う。
多くの遺体を越え、やがてイリアは城の門の外へと辿り着いた。いつもは賑わっているその場は、血で赤く染まり、炎が燃える音以外は静まり返っていた。その残酷なまでの鮮やかな焔の音に、イリアはがくんと膝を打った。ガーベラやパンジー、赤薔薇や白薔薇に炎が移っていた。美しかった花弁が炭になり、メラメラと燃えて往く。花が燃えると、焦げ臭さよりも生臭い香りがするなんて、知らなかった。
ざりと、地面に爪を立てて、イリアは瞳を上げた。淡い桃色の煉瓦が、鮮やかな赤に染まっていることに気付いた。メラメラと燃え踊る焔とは別に、粘着質な鉄錆の匂いがするそれがべったりと壁一面に着いている。熱い、痛い。苦しいのと熱いのと同時に、喉奥から焼けるような鈍い苦痛を感じる。
頬に汗と涙が伝う。けれど、それすらも焔によって焼かれ蒸発してしまった。じりじりと肌が焼かれる。
ふと、母の言葉を思い出した。
「イリア、貴女だけに、この城の秘密を教えてあげましょう。淡い桃色の煉瓦は、母が好きな色なんですよ。ですから、陛下がこの色に変えてくださったのです」
穏やかに笑む母の顔が脳裏に浮かぶ。
またじわりと涙が浮かんだ。
嗚呼、どうして。
世界は、こんなにも赤くなどなかった。
こんなにも、熱くなどはなかった。
私たちはただ、平凡な幸せの中で過ごしていた。
それだけなのに。
どうしてこんなにも、世界は、平等で、不平等なのだろうか。
重たい灰褐色の空から、雪が降ってきた。
どうせならば、雨を降らせてくれればいいのに。
ああ、神よ、わが主よ、どうして、あなたはこんなにも残酷なのですか。
焔を消してください。
炎を、消してください。
手を伸ばす。空っぽの手の中に、雪がひとつ落ちてきた。
今の私に掴めるものなど、たったひとつもありはしない。
母を助けることも、姉を助けることすらもできなかった。
ただ、母に助けられ、ぬくぬくと母に守られ、生き延びてしまった。
今の私に、価値などない。
イリアは荒れ果てた髪を一束つかむ。そうして、近くに落ちていた血で汚れたナイフを引っつかみ、ざくりと自身の髪を切った。ぱらぱらと足元に髪が舞う。腰まであった長い髪は、「女」であることの証だった。
けれど、もうそれすらも要らない。
私は、『イリア』を捨てる。
何もかも、全てを、失った。
今の私は、底辺にいる。
イリアは鋭い瞳で、燃える我が家を──城を見上げた。
ならば、あとはもうこのどん底から、這い上がるだけだ。
イリアは燃え上がる城に背を向けた。
彼女の足取りに、迷いはなかった。
「ハッピーエンドに唾を吐く」
これは、始まりの前の物語。
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