episode-1



「イリアス〜!!!手紙届いてるぞ!!」


ゼノは、赤い薔薇の封蝋がされた封筒を片手に全速力で駆けていた。


埃っぽい道を走る途中で、多くの人に「ゼノ!合格おめでとう!」「イリアスに手伝ってくれてありがとう!って言っておいてくれ!」「あとイリアスにいつ婿に来るんだとも伝えておいてくれ!」等々、ほとんどイリアスのことについて話しかけられつつも邪魔されつつ走ってきたので、すっかり息が上がっていた。


長閑な田舎道を抜け、穏やかな風が通りすぎる森林を抜け、鹿たちが途中で休憩をしていた小川を飛び越え、やっとのことで家に着いたのは、手紙を受け取ってから30分程経ったあとのことだった。


イリアスと呼ばれた背の高い青年は、馬に乗っていた。

切れ長でターコイズブルーの瞳を持った涼しげな目元の彼は、ゼノの叫びにくるりと振り返った。肩より少し伸びたくすんだ茶色の髪は、赤いリボンで緩く結んでいる。


ゼノを見つけるや否や、彼は静かに微笑み、馬から降り立った。

ゼノは息を整えつつもイリアスに近付く。額から滝のように落ちてくる汗を拭っていると、苦笑したイリアスがハンカチを差し出してくれた。


「ありがと、悪ぃな」

「………」


にこりと微笑んで首を振ったイリアスは、男性というにはあまりにも中性的で美しい。どこか儚げで、それでいて凛々しい彼に若干見蕩れていると、イリアスが口を動かした。


『それ、どうしたの?』


ゼノは唇が読める。失声症のイリアスと共にいるようになって、不思議と身についた特技にはとても助かっている。イリアスの指摘に、ゼノは「あっ!そうだった忘れてた!!」と慌てたようにイリアスにあの封筒を差し出した。

目をぱちぱちとさせたイリアスに、ゼノは頬をぽりぽりとかきながら促す。


「ほら、早く開けろって!」


ゼノに急かされイリアスは、首をかしげながらも頷いて封蝋を開けた。ぺりぺりとはがし、中の便箋を取り出して、読み始める。その前でうずうずとしているゼノに、読み終わったイリアスは苦笑しながら顔を綻ばせた。


『……ゼノは当然受かってるよね?』

「ふふんトーゼンだろ! ま…俺は筆記はギリッギリだったけどな…。つーかイリアス! 見ろよ、お前首席とかやべぇじゃん!」


イリアスの便箋には確かに首席という2文字がキラキラと書かれている。ゼノの指摘に、イリアスは苦笑しつつも照れたように微笑んだ。


『それは、ゼノが剣技を、エレンさんが勉強を教えてくれたおかげだよ』

「いーや! お前が血のにじむような努力をしたからだろ!!! ほんとに、イリアス、お前よく頑張ったよな……」


なぜかゼノの方が瞳を潤ませはじめ、イリアスは慌てたようにゼノの肩を撫でた。


『なんでゼノが泣くのさ』

「うっ…だって、俺、おまえがめっちゃ頑張ってきたことを知ってっからよ……っ」


本格的に泣き始めたゼノに、イリアスは困ったようにしながらも嬉しそうにしていた。


イリアスは10年ほど前、急に母が連れてきた親のいない迷い子だった。


火事にでもあったのか、彼は酷い格好だった。

けれど、薄汚れつつもぱっとみで高級そうだとひと目でわかる服装に、ざっくりと切られた短い髪。いわく付きそうな彼に、最初のうちは警戒心を露わにしていたゼノだったが、イリアスの瞳に轟々と燃える炎に気づき、呆気に取られ、なぜか彼を受け入れてしまった。

自分でもなぜ彼の瞳を見て彼を受け入れたのかはわからない。ただ初めて会った時、彼の瞳は確かに死んでいた。彼の瞳からは、光が消えていた。虚ろな瞳は何も写しておらず、彼はただゼノのことを真っ直ぐに見つめているだけだった。


そんな彼を見た瞬間、ゼノの心を占めたのは強烈な庇護欲だった。

10歳にも満たないような、自分よりも小さな壊れそうな子供を前にして、『守らなければ』と思った。


彼が一体誰で、どこから来たのか、母は何も言ってくれなかった。母はただ汚れた彼の身体を洗い、清潔な服を着せ、食事を取らせ、眠らせた。初めのうちは、食べることすら拒み、食べては吐いてを繰り返していた。母に食べてみなさいと言われ、おずおずと口にすれば、次の瞬間口に手を抑え、部屋の外に消えていくのだった。そんなことをすれば、当然のように身体は細くなっていく。心配するゼノにも、母のエレンはいつもの柔和な笑みを浮かべ、イリアスの心と穏やかに向き合っていった。


ある日突然、イリアスが食事を取るようになった。食べる量は少なかったが、それでも前と比べれば、大きな進歩であった。驚きつつも喜ぶゼノに、エレンは「ゼノのお手柄よ」と、どうしてか何も分からないゼノの頭を撫でてくれた。


はじめ、ゼノはイリアスは寡黙なだけだと思っていた。しかし、あるときゼノとイリアスがいつものように剣技を磨きあっていると、イリアスの一本がゼノの首に当たってしまった。打ちどころが悪かったのか、ぐらりとふらつき、倒れたゼノに駆け寄ったイリアスは声も出さずに唇を震わせ、泣きそうな顔をしていた。


ぐしゃりと顔を歪め、眉を八の字にさせ、今にも泣いてしまいそうなのに、なぜかイリアスは声を出さなかった。だから、そのときになってはじめてゼノは、彼が声を失っていたことを知った。


イリアスの頬を撫でた。大丈夫だよ、と力なく笑えば、彼は首をぶんぶん振って、ゼノの手を取って自分の額にくっつけた。彼の身体は震えていた。相当怖がらせてしまったのだな、と思ったゼノは、イリアスの手を取ってまた笑った。


「お前がなんでそんなふうになっちまったのかなんてさ、俺はわかんねぇけどさ。でも、俺は、いまのお前が好きだよ」


そんなふうに言えば、イリアスは驚きに目を見開かせたまま、唇を震わせた。

でも、結局あいつは最後まで泣かなかった。


10年間、イリアスとゼノはまるで義兄弟のように過ごしてきた。

村の人たちも初めのうちはイリアスの存在を訝しんでいたが、次第に美しくも心優しいイリアスに、みんな魅入られるかのように受け入れていった。


イリアスは本当に美しい人だった。陶器のようにつるりとした肌。バラ色の唇。涼し気な目元はすっとしていて、切れ長のターコイズブルーの瞳はいつも静かに凪いでいた。女性のような嫋やかさと、男性のような勇ましさを併せ持った中性的な彼は、いつもどこか物憂げで、それでもゼノや村人たちが話しかければ穏やかに微笑んでくれた。女性に対しての気配りも完璧で、頭もよくスマートだったし、声は出せないとはいえ、村で一番頭が良かった。商人たちがときたまイリアスに助言を求めに来ていることをゼノは知っていた。


それでいて、イリアスはとても剣が上手かった。村で1番剣術が優れているのはゼノであったが、ゼノによって鍛えられたイリアスも当然のように上手かった。ゼノの剣技が嵐のような風のようなものだとすれば、イリアスの剣技は水のようでいて、大波のようだった。村の男たちがゼノとイリアスに挑み、ズタボロにされるのはもはや村の恒例行事であった。


村人たちはイリアスが大好きだった。どこから来たのか、みなは何も知らなかったが、それでもイリアスを村の一員として、もうとっくの昔に認めていた。


そんな2人に、とある領主から推薦状が届いた。かつて、フィエール王家が治めていた莫大な量の領地を治め、ここいらの領主の中で、いま一番力を持っていると言われているセルジュ・オダシウスが治める中央国から、王国専属軍のテストを受けに来ないかという内容だった。この小さな村で、そんな話はかつて一度もなかった。村は総出でこの吉報を喜び、ゼノもイリアスも同じように喜んでテストを受けた。


そして今日、その結果が出たのだった。


未だに泣くゼノの肩を抱きながらもイリアスは、またどこか遠くを見つめていた。

そんなイリアスを横目にしながら、ゼノは不安そうに顔をしかめた。


最近、イリアスはよくこの目をする。

初めに会った時のあの死んだ目ではない。もっと、強烈で、燃え上がるような、ジリジリと焼かれるような、熱い、痛い、なにかだった。

そう、イリアスの瞳は燃えていた。海のように静かに凪いでいたはずのターコイズブルーの瞳が、焼け付くような熱を伴って、何かを焦がしていた。

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