第2話 黒猫の名前。
「ほら、夕飯出来たわよ」
「おぉ、サンキュー」
「どういたしまして」
帰宅してすぐに浴室で黒猫の体を洗った後、自分と猫の夕飯を作って食事を始めた。
猫は水を嫌うっていうけれど、体を洗ってあげる時大人しかったな……。
「そう言えば、お前の名前って何て言うんだ?」
「美羽。雪野美羽だよ。黒猫君の名前はあるの?」
「ん……まぁ、あることはあるけど」
「秘密主義?」
人に聞いておいて、勿体振っているの?
それにしても、凄い勢いで食べてる。
そんなにお腹が空いていたのね……。
「美羽が名前を付けてくれる?ここに住むからには、呼び名が必要だろ?」
「ちょっと待って。いくら夢でも、これは話が飛躍しすぎでしょ?ここはペット可のアパートだけど、私はどちらかというと猫より犬派だし」
猫を飼ったことも無いし、家の中に動物を入れたことなんて1度も無いし……。
「それじゃ……俺を追い出すのか?」
「追い出すっていうか……お腹が空いたって言っていたから食べさせてあげただけでしょ」
黒猫は食事を終えると、目をうるうるさせてお願いオーラを放ってきた。
こ、これは……反則でしょ。
だけど、そんなものには屈しないんだから!
「美羽~、一生のお願いっ。俺がいると役に立つよ?一人暮らしは何かと危ないだろ?番犬ならぬ番猫をやってやるからさ~」
「番猫って……」
「だから、俺に名前をくれ。いや……下さい」
はぁ……何だろう、この夢なのに妙にリアル感満載のこのやり取りは。
そしてこの目の前にいる黒猫は、両手を合わせて私にお願いポーズまでしているし。
「これ、夢なんだよね?」
「夢……?いや、現実だけど」
「はい?」
「だから、これは現実だって」
現実なのに、猫がしゃべってるの?
あぁ……ダメだ、頭の中が混乱してきた。
そうだ、きっと寝不足がいけないんだ。
「よし、もう寝よう。明日になれば、この奇妙な夢から目覚めている筈」
「おい、待てって」
よろめきながら寝室へ歩いていく私の後ろを、黒猫が呼び止めながらついてくる。
だけど私はそれを聞かずに、ベッドへダイブした。
そしてそのまま眠りに落ちてしまおうと、目を閉じた……。
「何だよ~、寝るなって~。俺は美羽を選んだんだぞ。引き止めないと後悔するぞ~」
何やら戯言を言い続けている黒猫は、私の背中に乗って起こそうと頑張っていた。
しかし私はそれを気にもせず、睡魔の誘惑に負けてあげたのでした。
「美羽起きろ、朝御飯出来たぞ」
「ん……?」
ベッドサイドに、見たことがないレベルのイケメンさんが座っている。
艶やかな黒髪、魅力的な瞳と唇、そして……綺麗な指。
何故こんな綺麗なイケメンさんが、私の部屋にいるのだろうか……。
「美羽、これは夢だから気にするな。ほら、俺が朝食を作っておいたから食べるんだぞ」
「うん」
リアルな夢だな……。
イケメンさんが私の頬を触る指の温度や感触まであるなんて。
「俺は食べたから少し寝るから。ベッド借りるぞ」
「うん……」
私がベッドから降りて着替え始めると、イケメンさんは私が寝ていたベッドに潜ってしまった。
着替えを終えて振り向くと、さっきのイケメンさんの姿はなく、誰もいなかった。
やっぱり夢だったんだ……。
昨夜から変な夢ばかり見るのは、疲れがたまっているせいだなと勝手に納得し、寝室を出た。
「あれ……これって」
食卓には、朝食が用意されていた。
しかも、出来立てで美味しそう。
焼き鮭に厚焼き玉子にお味噌汁、胡瓜とキャベツの浅漬けにご飯まで炊いてある。
まさか、私が寝ぼけて朝食を作った?
いやいや、そんな訳は無いしそんな能力もない。
とりあえず、時間もないしありがたく朝食をいただくことにした。
「おはよう」
「あ……田中先輩おはようございます」
少し前までは会って嬉しい人だったけれど、別れを告げられてから会うのは気まずくて避けていた人。
まるで私を待っていたかのように、タイミング良く出勤してくるなんて……。
「元気?」
「はい」
「そう、良かった」
別れを告げた相手に、元気?って聞くのはどうかと思う。
だけど、貴方のせいで元気ではないと答えるのも何か腹が立って、気丈に振る舞ってしまった。
「それじゃ、頑張って」
「ありがとうございます」
何を頑張るの?
仕事?恋愛?
好きな相手と付き合えるようになったから、上から発言するなんて酷すぎる。
普段なら流せる会話なのに、段々性格がひねくれていく自分がいる。
ここは会社の中だから……と、その感情を無理矢理押し込め、自分の職場へと歩みを早めた。
「斉木さん、おはようございます」
「雪野、ちゃんと寝たみたいだね。でも、何かあったみたいな顔だけど」
「あはは……」
斉木さんって、本当に鋭いな。
とりあえず誤魔化してみたけれど、後で田中先輩と別れたこと話しておこう……。
「雪野、ちょっと会議室に来てくれ」
「はい」
朝から長野主任に呼び出されてしまった。
主任が事務所を出る時に斉木さんをチラリと見たけど、何の話だろう……。
「えっ……、斉木さんとお付き合いしていたんですか」
会議室に呼び出されたから、仕事の話だと思ったのにそんな告白をされるなんて。
それにしても、主任と斉木さんが……驚きだ。
「最近付き合い始めたばかりだけどな。まだ公には言っていないから秘密な。それで、雪野に頼みがあるんだが」
「はい、何でしょうか」
「斉木と飲みに行く話が出た時、さりげなく俺を誘ってくれないか?」
「はい、わかりました」
「頼むな」
主任はそれだけ言うと、さっさと会議室から出ていってしまった。
何故、飲みに行く時に主任も誘うのかな?
付き合っているなら、堂々と誘える筈なのに……。
「あっ、もしかしてカモフラージュの為?」
部内の人に見付かったとしても、私がいればただの上司と部下の飲み会になるからか……。
こんな事を私に頼むなんて、斉木さんを本当に好きなんだ。
私の恋は終わってしまったけれど、始まったばかりの二人の恋を応援できるなら頑張ろう。
「雪野、何してる早く仕事に戻れ」
「あ、はい」
のんびりしていたら、すっかり通常モードの主任に呼び戻されてしまった。
主任、切り替え早いです……。
「雪野、主任に呼び出されたけど大丈夫だった?」
「あ、はい」
斉木さんが呼び出された私を心配してくれていたみたいで、わざわざ給湯室に来てまで駆け付けてくれた。
自分達の事で呼び出されたと知ったら、きっと呆れるかもしれない。
社内恋愛禁止ではないけれど、やっぱり同じ部内の人同士だと気まずいのかな。
「斉木さん、私……彼と別れたんです。だから、ちょっと落ち込んでました」
「そっか、だから様子が変だったのね」
「はい。でも、もう大丈夫ですから。斉木さんの恋を応援しますね」
「あ、ありがとう」
私の話から急に自分の話題に変わって、斉木さんは照れていた。
すごく幸せそうで、少し羨ましかった。
「ただいま~」
「お帰り~、今日は早かったな」
「!?」
いつものように誰もいない部屋に帰ってきた筈、それなのに返事があった。
しかもお気に入りのソファで、昨夜会った黒猫が寛ぎながらこっちを見ていた。
「何を驚いている?まさか、本当に夢だと思っていたのか?」
「……夢じゃなかったの?」
「現実だって言っただろ。」
実感させる為に黒猫が側に近寄ってきて、ほら触ってみろとか言ってくるし。
また疲れがどっと出てきたかも……。
「とりあえず着替えて来るから……」
なんだか目眩がしてきた……。
確かに黒猫の体温や毛並みを感じたりは出来た。
でも、猫と話せるようになった原因を考えると、思い当たる事は1つだけ。
失恋から脳内が変になってしまったから……としか思えなかった。
「美羽、いつまで部屋にいるつもりだ?早く夕飯食べないと冷めるぞ」
「夕飯、まだ作ってないよ?」
ドアの向こうから声がしたけど、今の声は……誰?
そっとドアを開けて様子を伺うと、食卓の方から良い匂いが漂ってきていた。
「そんな所で何をしているんだ?早く食べよう」
「えっ、あ……うん。今、行く」
呼びに来たのは、黒猫。
さっきの声の主らしき人はいなかった。
「しっかり食べろ」
「うん」
食卓には、ご飯、サンマの蒲焼き、温泉卵、胡瓜の浅漬けに、豆腐と油揚げのお味噌汁があった。
全部美味しくて完食した。
これって……誰が作ったんだろう?
「あぁ、美味かった。美羽、お前のはどうだった?」
「すごく美味しかった。ね……これ、誰が作ってくれたか知ってる?」
「あぁ、知ってるよ。だけど、教えない。教えて欲しければ、俺の名前付けてくれよ」
それだけで良いの?
「黒猫だから、『クロ』はどう?」
「却下」
却下って……黒猫だからベストだと思ったんだけど。
「それじゃ……『ネコ』は?」
「……お前、考える気無いだろ」
だって、クロ以外思い付かないんだもん。
ていうか、人にお願いしておいて態度が大きすぎませんか?
「わかった、『タマ』にしよう!」
「……ありがちだな」
「タマが嫌なら出ていってもらう」
猫ならタマでしょ、それ以外は思い付かない。
黒猫はすごく不満そうな顔をしている。
でも、他の名前を付けろというなら、本当に出ていってもらうからね。
「わかった……タマで良いよ。その代わり、俺はここに住むからな。それと、しっかり番猫してやるから」
「う……、わかった。それで交渉成立ね」
「OK。美羽、今日からよろしくな」
「うん。タマよろしくね」
話が終わると、タマはまたソファに戻っていった。
まだ2日しか経っていないのに、すっかりここの住人のように寛いでいる。
私は食器の後片付けをし、タマが寝ている事を確認しすると、浴室へ行きゆっくりと湯船に入った。
「はぁ……なんか色々あったな」
田中先輩と別れて、タマと会って、夢でイケメンさんに会えて、主任と斉木さんの交際宣言まで聞いてしまった。
すぐに恋愛をしたいとは思えないけれど、人の恋路を聞くと恋って言いなって思える。
どちらかというと、主任の方が斉木さんにベタ惚れっぽいけど。
二人には上手くいって欲しいな。
恋のキューピッドにはなれないけれど、応援くらいなら出来るし。
「美羽、あまり長く入っていると倒れるぞ」
「うん、今出るよ」
タマ、寝ていた筈なのにいつ起きたんだろう?
姿が見えないから、心配してくれたのかな。
まるで同居人がいるみたいで、嬉しい。
……猫だけどね。
「タマ、心配してくれてありがとう」
「名前付けてくれたしな、主を守るのは当然だろ」
「主だなんて、大袈裟だよ」
あんなに生意気発言をしていたのに、急に頼もしく見えてきた。
これから一緒に暮らしていくんだから、仲良くしていかなくちゃね。
「まぁ、確かに美羽は主って感じじゃないけどな。何なら、俺がこの家の主になってやっても良いぞ」
「……猫のどや顔、初めて見た」
「おい、俺の話を聞いているか?」
「おやすみ~」
タマはソファから降りると、寝室までついてきてブツブツ文句を言っている。
居候なのに、やっぱり偉そう。
大人しければ、可愛い黒猫なのにね……。
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