満月の夜に。
碧木 蓮
第1話 別れと出会い。
「美羽(みう)、俺……好きな人が出来たんだ。だからさ、別れよう」
「うん……分かった」
私……雪野美羽は、好きだった先輩の田中光太さんに別れを告げられた。
仕事から帰ってきて、その夜……電話で。
突然の事だった。
好きな人がいたなんて、全く気付きもしなかった……。
だって、先週だって普通にデートで楽しんでいたし。
1年目の記念日をやろうねって言ってくれていたのに……。
「突然何言ってるの?そんな急に言われても無理だよ!」……って何故言えなかったんだろう。
物分かりの良い女、重くない女に思われたかったのかな。
高校の時から好きで、遠くから見ていただけでも幸せだった。
スポーツ万能で、いつもキラキラしていて、意地悪な所もあったけれど、そこもまた魅力の一つで。
今勤めている会社に入社した時、先輩がいたって知ってこれは運命かもしれない!なんて勘違いしたりもした。
「あっ、君……確か○○高でバドミントン部にいたよね?」
「は、はい」
「やっぱり。何処かで見たことがあるなって思ったんだよ。後輩が社内にいるって嬉しいもんだね」
そう声を掛けてくれたのがきっかけで、食事に誘ってくれた。
それから何度も会うようになって、お付き合いする流れになって……。
こんな幸せがあって良いのかなって、毎日通勤するのも楽しかった。
これが社内恋愛なんだって思うと、ドキドキ度も増して綺麗になっていった気がしていた。
「雪野先輩、営業の田中さんと付き合ってるんですか?」
「えっと……、はい」
「そうなんですか~!凄い、イケメンですよね~、羨ましいです」
入社してきた新人に社内案内をしていた時、その中の1人……大野 瑠花(おおの るか)さんから聞かれて、嬉しくて正直に答えてしまった事もあった。
彼女は、何処に配属されたんだろう……。
あの時以来、食堂で会う度に光太さんの話を色々とした気がする。
その時に、「ノロケですね~」とか「雪野先輩を見習いたいです~」とか言われて、照れたり謙遜したりして。
「幸せオーラ出まくりですね」とまで言われて、本当に幸せなんだなって実感していたのに……。
「明日……仕事行きたくない」
そう呟いても、一人暮らしのアパートには返事をしてくれる人は居ない。
こんな時、大泣きして、目を腫らして、翌日会社に行けない……なんて心配をするだろうに。
なのに、涙すら出ない。
ショックが大きすぎたのか、先輩をそんなに好きじゃなかったのか。
ただ何をする訳でもなく、呆然と通話を終わらせた携帯の黒い画面を見ていた。
そして、何が起きても朝はやって来る。
眠ったのか、眠っていないのか分からない重い体を起こし、いつものように朝御飯を食べて、会社へと向かった。
「長野主任、おはようございます」
「雪野、今日は来客が多いぞ。しっかりチェックして、抜かり無く案内しろよ」
「はい、わかりました」
出勤して早々、主任から連絡事項を受けた。
来客ボードを見てみると、確かに午前も午後もびっしり埋まっている。
総務部の事務員だけど、うちの会社はそんなに規模が大きくないから部署が少ない。
受付も兼ねてるし、お茶出しだってやるし、電話受けも、事務処理も……。
こういう時は電話番は男性社員に任せ、総務部事務員の中の女性4人の連携プレイも必要になってくる。
失恋を引きずって落ち込む暇はなかった。
「雪野さん、午前中のお客様は貴女が案内して」
「わかりました」
「相原(あいはら)さんはお茶の準備をセットしておいてちょうだい」
「はい」
「斉木(さいき)さんはフォローをお願い」
「わかりました」
私達に指示をしているのが、総務部の鬼のお局様と呼ばれている橋田純子(はしだ じゅんこ)さん。
来客があると、こうして指示を出す役目。
相原夕美(ゆみ)さんはやっとできた事務所の後輩で、のんびりやの新人。
斉木紀子(のりこ)さんは、私の1つ歳上で頼りになる先輩。
食事に行ったり、仲良くしてくれている。
「雪野、具合悪い?」
「いえ、大丈夫です」
寝不足がバレたのか、斉木さんが私の顔をまじまじと見ていた。
慌てて否定したけれど、それが余計に怪しく見えたかもしれない。
「そう?顔色悪いけど……。とりあえず、来客案内終わったら、休憩しておいで」
「斉木さん、お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫なので」
「無理しない。それじゃ、お茶出し終わったら二人で休憩ね」
「はい」
斉木さんは、私が一人で休憩なんてしないと知っていて、わざと一緒に行こう誘ってくれる。
観察力が凄いというか、気遣いが出来るというか、尊敬できる先輩だなぁっていつも思う。
「先輩~、私も一緒に休憩して良いですか?」
「相原は終わったら事務所に戻ってて。私達が先に休憩行くから」
「はい、わかりました……」
相原さんは斉木さんに言われて渋々了承した。
彼女はのんびりやで空気が読めない子。
休憩に行かせると中々戻ってこないし、マイペースすぎて斉木さんや橋田さんをイライラさせる名人でもあった。
「お客様がいらしたわよ」
「「はい」」
ここから私達の連携プレイの見せ所。
いざ、出陣!
「お疲れさまでした」
「また明日~」
無事に仕事が終わり、皆が帰っていく。
私はまだ事務処理が終わらないから残業へ突入中。
「雪野、先に帰るね。お疲れ様~」
「はい、斉木さんお疲れさまでした」
私以外の女性事務員は帰ってしまった。
残っているのは、長野主任と梅野(うめの)部長だけ。
山田課長は出先から直帰らしい。
処理しなくてはいけない仕事がある筈なのに、余裕だなと思ってしまう。
そんな他人の心配をしている場合では無いよね。
明日辛くならないように、未処理仕事をやらないと……。
「雪野、程々にして帰れ。早く帰してやれと斉木から頼まれたんだぞ」
「そうですね。今日は疲れただろうし、もうそろそろ帰った方が良いですよ」
長野主任は、『逆らうなよ。俺が斉木に怒られる』と、視線で命令。
梅野部長は、優しい口調で帰るようにと命令してきた。
二人から言われたら帰るしかない。
「はい。それではこの辺で帰ります……。お先に失礼します」
「お疲れ様」
私は机の上を片付けると、そそくさと事務所を後にした。
「夜はまだ肌寒いな……」
今は冬から春になってきた頃で、日中はポカポカと暖かな日差しが窓から感じられたが、夜はまだコートが必要な気温。
さらに夜の闇が、忙しさで忘れていた彼と別れたという事実を思い出させていた。
『美羽の少しぽっちゃりした所が可愛いんだよな』とか『照れ屋な所がまた良いんだよ』とか……今まで言われたことの無い私の魅力を教えてくれた彼。
「もう私の側には誰も居ないんだ……」
そんな私の一人言も闇に吸い込まれてしまい、ただ私の靴音だけがコツコツと響いていた。
「おい、そこの人間。俺を飼わないか?」
「誰!?」
男の人の声が聞こえた気がしたのに、周囲を見ても誰もいない。
寝不足だし気のせいだったんだと思い、少し早足で家路へと歩き始めた。
「無視するなって」
「!?」
再びした声に驚き、歩みを止めたその時……私の足元に黒猫が近寄ってきた。
「俺が見えるだろ?こんな可愛い俺を見捨てて帰るなんて酷い女だな」
「え……」
さっきの男性の声が、黒猫から聞こえている。
猫が話す筈がない。
寝不足に残業疲れも加わって、とうとう幻聴まで聞こえてしまったみたい。
「家で何か食べさせてくれよ~。俺、お腹すいてるんだ」
黒猫は本当にお腹を空かせているのか、しょんぼりした表情で私をじっと見ている。
だけど、猫が人間の言葉を話すなんて有り得ないよね……。
「私、本当に疲れているみたい。もしかしたら、歩きながら夢でも見てるのかな……」
「この際、夢でも何でも良いだろ。早く家に帰って夕飯食べさせてくれ~」
「そうね、そうしましょ。私もお腹が空いてるし、早く帰って夕飯にしましょ」
空腹に負けた私は、今起きている出来事が夢だと信じ
、道端で出会った黒猫と共に帰宅したのでした。
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