第4話
――ドアが開いた病室のベッドで、何やら童謡を口ずさむ長い髪の少女が、あやとりをしていた。
「千代。松枝はんが来てくれたで」
キヨのその言葉に、少女がゆっくりと顔を向けた。途端、
「ヒェーッ!」
松枝が悲鳴を上げた。
「あやとりしまひょ。ねぇ、あやとりしまひょ」
松枝を誘った。
「ち、ち、ちゃう!うちちゃう。うちは殺してへん。いゃーっ!」
松枝は、訳の分からないことを
そんなある日。聡は浩一郎と差しで話をした。
「……結婚したい人がいます」
聡は真剣な顔つきを構えた。
「千代菊か」
浩一郎がズバリと当てた。
「あ、……はいっ」
咄嗟に浩一郎を視た。
「あかん。嫁に芸子はあかん」
「どうしてですか。田所の名誉ですか」
聡は何年か振りに熱くなっていた。
「そのとおりや。千代菊は
「分かりました。そしたら、田所と縁を切らせてください。それから、会社も辞めます」
聡は覚悟を決めると、ソファから腰を上げた。
「ちょい待て!本気で言うてるんか」
浩一郎が
「ええ、もちろん本気ですよ。息子の見る目を信じられない親に、ついて行ける訳がないでしょ?」
聡は
「うむ……。勝手にしなはれ」
浩一郎は面白くない顔をすると、横を向いた。
「三十二年間、ありがとうございました」
聡は頭を下げると、居間から出ていった。
当座の着替えを旅行
千代菊との愛の巣に到着すると、何だか
「お帰りなさい。あら、旅行?」
提げた鞄を視た。
「……家出してきた。今日からここが我が家だ」
聡は腹を決めた。
「ほんまに? うれしいわ」
料理は苦手な千代菊だが、料理本を見ながら、聡のために心を込めた。
「すき焼きと、ほたての
千代菊は心配そうに、聡の食べる顔を眺めていた。
「うむ……。うまい」
「えー、ほんまに? うれしいわ」
「千代菊は、東京弁と京都弁がごっちゃになってしまったな」
「そやかて、折角、聡はんに東京弁教えてもろうてるのに、使わな勿体ないもの」
すき焼きの焼き豆腐を口に運びながら、千代菊が上目
「それは構わないが、なんだか
「いけずやわ。もっと上手になるさかい、待っとって」
「ああ、期待してるよ」
教え子ができたみたいで、聡はくすぐったかった。
一方、あれほど出歩いていた松枝は、部屋に閉じこもり、独り言を呟いたり、訳の分からない童謡を歌ったりと、
キヨは、千代に会わせた時の松枝の言葉が気になっていた。
「うちは殺してへん」
一体、誰のことを指して言ったのか。……まさか、善蔵のこと? だか、菅井は不治の病だと告げた。
菅井に確認することにしたキヨは、徒歩二十分ほどの〈菅井医院〉へ行った。〈菅井医院〉は、亡夫の亀吉の主治医で、菅井の父親の代からの付き合いになるが、善蔵の死後は菅井とは会っていなかった。
待合室には誰もおらず、院内は
「ご
キヨが深々と頭を下げた。
「こらこら。お元気そうで何よりどす」
当時は黒々としていた髪も、
「……善蔵のことで――」
キヨのその
「……善蔵はほんまに不治の病やったんでっしゃろか」
「どないしたんどすか? 今頃になって」
菅井は手を動かしながら、キヨを見ないで訊いた。
「へぇ。なんでか知らへんけど気になるもんどすさかい。……殺され――」
「いぇ! 不治の病どす」
キヨの話が終わらないうちに、そう、強く断言すると、キヨを
「当時の医学では病名が分からんかった。そやから、不治の病とだけ告げたんどす。すんまへんけど、患者はんの予約入ってますさかい」
菅井はそこまで言うと腰を上げて、キヨに背を向けたまま棚の資料に指を置いた。
「……突然にすんまへんどした。ほな」
菅井の背中に挨拶をした。
……あの、
信じていたものが、音を立てて崩れた。不安と
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます