第4話 12月25日 午前0時57分

 

 折りたたみ式のローテーブルの上に置かれた2人分のカレーの間に、さっき仁奈がコンビニで買ったサラダをが皿に移して乗せた。クリスマスらしさは微塵もないが、仁奈にとってはとても神聖な食事に思えた。


「いただきます」


 未和が手を合わせ、パクパクとカレーを食べ始める。豪快に切られた野菜がごろごろ入った典型的なおうちカレーを前に、仁奈は手を合わせた。


「いただきます」


 夢にまで見たカレーを口に運ぶ。ひとくちふたくちと、無言で味わっていると、未和が手を止めてを覗き込む。


「いままで失敗ばっかりだったんだけど、今回のカレーはわりとうまくいった気がするんだー……まあ、今までに比べれば、だけど……」


 どこか不安げな未和をよそに、仁奈はひたすらカレーをもぐもぐと食べ続ける。


「ニナちゃん、おいしい?」

「おいしい」


 仁奈が独り言のようにつぶやくと、未和が満面の笑みを見せた。


「よかったー! 変な味しない?」

「しない。うまい。2日目のカレーの味がする」

「放置してたら寝かせたカレーの味になったみたい。でもカレーって冬でも冷蔵庫に入れといたほうがいいんだって」

「そうなんだ」

「冬でも常温で置いとくと菌が繁殖して食中毒になりやすいんだって」


 12月も下旬を過ぎ寒い日が続いているとはいえ、いま仁奈が食べているのは常温で一晩放置された食中毒の危険があるカレーなわけで、あまり知りたくない情報だったが、しかしその事実を知っても仁奈は食べるのをやめなかった。


「ニナちゃん、なんか顔がこわい……ほんとにおいしい?」

「……控えめに言っても、生きていてよかったと思う」

「マジで!」


 そんなに? と目を白黒させる未和をよそに、仁奈は泣きそうになっていた。カレーが食べられるこの世界に、未和に感謝してじっくりと味わいつつ、命拾いした、と本気で思う。

 もうこれ以上わけのわからない衝動に振り回されて消耗するのも限界だったし、ただでさえ疲労困憊なのに、あのままカレーを食べられず風呂にも入れないまま悶々と夜を過ごして朝になってから米を買いに行く労力を考えると、未和のカレーのおかげで命を救われたといっても過言ではない。この聖なる夜に、このカレーのせいで腹を壊したとしても本望だ。このカレーがなかったら、世界に絶望したまま朽ち果てていたかもしれない。毎日こんなに神経をすり減らして働いているのに、カレーが食べたいというささやかな望みすら叶えることができないなんて、世の中が狂っているとしか思えない。……この激しいまでのカレーへの渇望は、この社会に対する怒りと哀しみのなれの果てなのかもしれない。


「ニナちゃん、本当にカレー好きなんだねえ」


 我ながら何を考えてるのかよくわからなくなってきたところで、未和がしみじみと話しかけてきた。


「……好きは好きだったけど、こんなにカレーを欲したのはおそらく生まれて初めてだと思う。食べたすぎて頭がおかしくなりそうだった」

「マジで! ……もしかしてそれ、疲れカレーってやつじゃない?」

「なにそれ」

「疲れマラってあるでしょ、疲れすぎて生命の危険を感じた身体が本能で子孫を残そうとして生殖機能がバグるやつ。それの一種だって! 未可ちゃんが言ってた!」

「……疲れカレーなんて聞いたことない……そのミカちゃんとかいう人にだまされてない?」

「でも未可ちゃんも、疲れたときカレー食べたくなるって言ってたけどなあ」


……そんな症状に陥ったことはこれまでのところなかったのでよくわからないが、まあ確かにこの抗いがたい欲求は理性では抑えきれない本能と呼べるかもしれない。なぜカレーなのかはともかく。


「……ミカちゃん、って、未和ちゃんのバンドの人だっけ?」

「ううん、お姉ちゃんだよ。実家の喫茶店で働いてるの」

「実家、喫茶店なんだ」

「そうだよ、昭和レトロな喫茶店。手伝えって言われてる」

「ひとりでやってるの?」

「もうひとりの妹が手伝ってるよ。だからわたしがいなくても平気だと思うんだけどね」

「未和ちゃん、妹いたの?」

「うん。写真見る?」


 未和はスプーンを置いてリュックの中からのスマホを取り出し、スクロールしながら仁奈に画面を見せた。よく似た顔の女性がふたり、犬を抱いた未和をはさんで映っていた。


「左側が未可ちゃんで、こっちが妹の和可わか。みんな顔同じってよく言われるんだけど、そんな似てないと思うんだよね」

「この犬は?」

「うちの犬。モリオンって名前なんだ」

「なに犬?」

「雑種。女の子だよ」


 カレーを食べる手を止めて、他愛のない話をしていたら、未和がスマホをテーブルに置き、じっと仁奈を見つめてきた。

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