隅田川

吉平たまお

いとしかなしの宵闇に

 天気雨がぱらついたその日、安積志朗は以前から想いを寄せていた彼女と、隅田川の花火大会に行った。

 二人で見た花火は美しく、『花火に照らされる彼女は世界一美しい』と彼は強く思い、あまりにも心臓の鼓動がせわしなく響くので、心臓の使い過ぎで死ぬんじゃなかろうかと考えた。けっして死にたいという自殺願望を抱いた訳ではない。此処で死んでも構わないとその瞬間思っただけである。だが、神はその願いを聞き届けてしまった。彼は、花火大会の夜、交通事故に遭って死亡した。




 志朗は終業式後、高校の校舎裏で幼馴染の彼女に告げた。「貴方と花火大会に行きたい」と。

 拳を握り、緊張で震えながら懸命に告げる彼に、彼女は「私でよければ」と恥ずかしそうに応えた。

 死んでから、彼はこのとき彼女に想いを告げなかったことを後悔する。それこそが、彼を死してなお現世に繋ぎ続ける楔である。




 隅田川周辺を彷徨う彼は、様々なものを見た。

 川を泳ぐ河童――鴉と縄張り争いをしていた。

 帽子を探して泣く子ども――自身が溺れ死んでいると知らずに。

 空を渡る龍――鬼に八つ裂きにされ雨となった。

 彼は隅田川にて何十年もの時を過ごした。

 彼が何度、隅田川の花火大会を迎えたかわからない。ただ、彼女の面影だけはいつまでも彼の心から離れることはなかった。

 何度も何度も、彼は彼女の面影を求め、そして叶わなかった。幽霊となった身では、話すことも、人間に触れることも出来ない。それでも、彼は彼女を探し続けた。彼女に似た女性を見かけるたびに、もしやと思い、近づいた。彼は落胆することに慣れ、それでも彼女を追い求め続けた。彼女に伝えたいことがあったから。





 出会いは、いきなりやってきた。


「おにいさん。

 ねえ、おにいさんてば」


 幼い声に振り返ると、きつねの面をかぶった7歳くらいの子どもが立っていた。

 志朗はぼんやりと自分を人差し指で指し示した。


「……私のことか?」

「他に誰がいるのさ」


 確かに、と頷く。丑三つ時の隅田川に、人気はない。


「私が見えるのか」

「見えなかったら声なんてかけないよ」

「人なのか」

「さあね。おにいさんは人なのかい?」


 口を噤む。人と言いたいが、自信はなかった。


「なんでもいいじゃないか。そんなの」


 くくっと笑うきつねの面。


「それよりさ、おにいさん、ひまだよね。手伝ってよ」

「……何を」


 相手は子どもだ、と自分に言い聞かせて、聞き返す。だんだんと、きつね面が得体の知れない何かに思えて、怖ろしくなってきたのだ。目を逸らした先、隅田川の水面に映る月が揺らいだ。今夜は河童も騒いでおらず、妙に静かだ。


「さがしもの」


 セルロイドでできたきつねの面が、にやりと笑った。


「交番に行け」


 そう返すと、呆けたような間ができた。


「……おにいさん、それは冗談かい?」


 馬鹿にしたような口調で問いかけてくる子どもに、「常識だ」と返す。


「お前は人に見えるから、探し物なら交番に行け。

 私のような幽霊や、妖怪なら、まあ、地道に探すしかないが」

「……おにいさんは、天然ってやつだね。

 いいよ。面白い。ねえ、困っている哀れな子どもに協力しておくれよ」

「だから交番に……」

「人間にはわからないさ。顔を見せろと言ってくるかもしれない」


 子どもはきつねの面を撫でて、肩をすくめた。


「ボクのことは、そうだね、きつねとお呼びよ」

「きつねって」

「いいだろう? 呼び名なんてなんでもいいけれど、ないと困るからね」


 くっくっと楽しそうに笑うきつねに、志朗は溜息をついた。幽霊になってから初めての溜息は「幸せが逃げちまうよ」と人外であるきつねに人間らしい反応を返された。生憎と幸せなどとうに見失っている。志朗はきつねに、仕方ないといった声音で問いかけた。


「何を、探してるんだ?」

「――手伝ってくれるの?」

「察しの通り、暇だからな」

「ありがとう、おにいさん!

 いやぁ、ものはためしだね。ああ、らっきぃだ」


 きつねはぴょんぴょん飛び跳ねて喜んだ。……もしかしたら自分はたいそうな厄介事に首を突っ込んでしまったのかもしれない、と志朗は内心で冷や汗をかいたが、自分が既に死んでいることを思い出すと、冷や汗は引っ込んだ。死んでいるのに厄介事も糞もない。


「鏡をね、探しているんだ」

「鏡?」

「そう。漆の、朱色の手鏡さ。去年、落っことしちゃったんだ。神様からもらった、一族の大切な失せもの探しの鏡だからね。おっかさんはもうかんかんでさ、『見つけるまで帰ってくんなーっ』て家を追い出されちまったんだよ」

「それは……大変だったな」

「ボク、がんばって探したんだよ。いろんなところを探しまわって、これは宵闇祭りで落としたに違いないってことがわかったんだ。手伝ってくれるよう友達に頼んだけど、結婚式の準備で忙しいって断られちまったんだ」

「結婚?」

「そうさ。幼馴染が友達んとこへ嫁入りするんだ。明後日。なんとしても、それまでに鏡を見つけなきゃあいつらに顔向けできないんだよ」


 しょんぼりとうなだれるきつねに、志朗は励ますように言った。


「きっと見つかるとも。宵闇祭りってのは今日はないのか?」

「明日だけなんだ。それも、隅田川花火大会の間だけ。

 宵闇祭りってのは、お稲荷様を祀った、妖怪や幽霊のお祭りだよ。道を知ってなきゃ来れないけど、たまに人間の子どもが迷い込んでくるって話もあるね」

「そんなものが……」


 今まで何十年とこの地にいたがまったく知らなかったと呟くと、きつねは「あたりまえさ」と笑った。


「だって、おにいさん、人間の女の人ばっかり見てるじゃないか」


 志朗は赤面したが、きつねはそんなこと意にも解さなかった。


「ね、おにいさん。約束だよ。

 明日の6時に、宵闇祭り。忘れないでよ」

「ああ、明日の6時に此処で」


 志朗はきつねと指きりをし、きつねが駆け去るのを見送った。

 きつねが念を押すように、何度も何度も振り返るので、そのたびに志朗は安心させるように「わかってる」と頷き、軽く手を振った。


 花火大会で賑わう隅田川。

 志朗は時間が来るまでぼんやりと、屋台や通り過ぎる人々を眺めた。

 もちろん、そんな志朗に気付く人は誰もいない。おそらく生身であったとしても、通勤ラッシュのような人混みでは、誰もが恋人や家族とはぐれないようにするので精一杯で、ぶつかりでもしなければ気付かないだろう。


「おにいさん!」

「わっ」


 きつねに背後から飛びつかれ、志朗は2、3歩よろめいた。


「きつね、いきなり抱きつくな。危ないだろう」

「ごめんよ、おにいさん。

 こっちこっち、はぐれないでよ」


 悪気なく謝るきつねに、志朗は少しむっとしたが、子どものやることだと諦める。

 きつねに手を引かれて、志朗は歩き出した。

 志朗が、もう何十年と感じることのなかった、誰かの手の感触にうっかり涙ぐみそうになったのはきつねには秘密である。はぐれないように、と自分に言い訳して、何度も小さな手を握り直したのも。

 5分ほど歩き、きつねは1本の木の前で足を止めた。どこにでもありそうな木だ。きつねは「御神木なんだ」と言った。


「此処が入り口だよ。神様が彼方と此方を繋げてらっしゃるんだ」

「神様?」


 誇らしげに胸を張るきつねに、志朗は信じられないと木に触れた。その瞬間、


「おにいさんっ!」


 きつねの叫びとともに、世界が反転した。

 木に飲み込まれ、ぐるん、と視界が歪む。死んでから感じることのなかった吐き気が志朗を襲った。きつね、と叫ぼうとした。遠のく意識に、2度目の死を、覚悟した。不意をついた志朗の行動に、ざっと音を立てて青ざめたきつねの行動は早かった。「おにいさんの馬鹿!」と慌てて追いかけ、木に飲み込まれた志朗に飛びつき、気を失った志朗を抱きしめて「掛巻も恐き稲荷大神の大前に、恐み恐みも白く、過犯す事の有むをば、神直日大直日に見直聞直座て、夜の守日の守に守幸へ賜へと、恐み恐みも白す!」と簡略化した祝詞を一気に唱え「ごめんなさいー!」と叫んだ。気持ちが届いたのか、ぺいっと木から吐き出された其処は、狐火や人魂飛び交う宵闇祭りであった。

 だが、


「うう、気持ち悪い……」


 何十年かぶりに強烈な酔いを体感した志朗は、それどころじゃなかった。吐きこそはしないが胃のあたりを押さえこみ、しゃがみこんで呻く。そんな志朗に向かってきつねは容赦せず怒鳴った。


「あたりまえだろ! 迂闊だよ、迂闊すぎる!

 もうっ、もうっ、ばっかじゃないの!? 

 信じられないよ! 呆れて物も言えないね!!」

「言ってるじゃないか……。はぁ、死ぬかと思った」


 ぐったりする志朗に、きつねは「もう死んでるじゃないか」と冷たく言った。


「確かに。……綺麗だなぁ」


 眼下に広がる幻想的な光景に、志朗はぽつりと呟いた。

 志朗たちがいる丘をぐるりと囲むように、迫りくるような濃い闇を明るく照らす赤や青、緑や黄色をした提灯を吊るす屋台が軒を連ねていた。食べ物も売っているのか、良い匂いが微かに漂っている。あれに見えるのは鬼か、妖怪か。人間がいないことは確かだな、と志朗は心の中で独り言ちた。怒りがおさまったきつねが志朗に向かって手を差し伸べる。


「行燈があるけど、暗いから転ばないようにしておくれよ。

 ほら行くよ、おにいさん。絶対にはぐれちゃだめだからね」

「ああ」


 志朗はひとつ頷いて、きつねの手を握り、宵闇祭りに足を踏み入れた。




 1時間ほどかけ、ぐるりと祭りを練り歩く。ひしめきあうように立ち並ぶ屋台の、売り物や商人の物珍しさゆえに志朗の心は弾んだ。だが、だんだんと機嫌が悪くなり、ピリピリするきつねに、自然と空気が重くなる。さっぱり、見つからないのだ。知り合いだという猿や河童に尋ねたり、見えないものが見えるという双眼鏡を試したり、送り犬に匂いを嗅いで探してもらったりしたが、とんと見つからない。そう簡単に見つかるものではないと思っていたが、過ぎる時間に気が急かされる。同時に不安も募ってきた。志朗はだんだんと歩く速度が増すきつねの足を、手を引っ張ることで止めて、尋ねる。


「何処に落としたんだ?」

「それがわかったら苦労はしないさ」

「まさか、もう誰かに拾われたってことは……」

「隠しの呪いがかけてあるから、それはないと思う。たとえもし見つかったとしたら、すぐに取引を持ちかけられるはずさ。それに、一見ふつうの手鏡だからね。きっと誰も気にしやしないもの。……とにかく、探すっきゃないんだ」


 きつねはぴりぴりとした焦燥に、落ち着かなげに耳をいじった。


「ああ」


 返事をした志朗の目がふと、異様なものを捉える。御神木のそばに、ぼんやりと立ちつくしている5歳くらいの少女。どことなく誰かに似ているような気がした。いったい誰だろうと考えたところで、はっとしてその子どもの足元を見ると、影があった。人間だ。


「きつね。あの子、人間だ」

「は?」


 きつねは歩き出そうとしていた足をひっこめた。


「人間? そん、な……うそぉ」

「嘘じゃない」

「わかってるよ。ああもう、嘘ならどれだけ良かったか……」


 きつねは呻いてその少女を観察した。

 よく見ないと、妖怪の子どもかと思うだろう。艶のある黒髪はおかっぱに切りそろえられており、赤い浴衣に黄色の帯を締めている。座敷わらしにも似た、昭和の雰囲気を持つ少女は、左手に青いヨーヨーを、右手には、あろうことかきつねがずっと探し求めていた、大切な鏡を持っていた。


「な、なんで…?」


 二度見どころか三度見して、それが間違いなく一族の大切な手鏡であることに、きつねはぷるぷると震えた。鏡が見つかった喜びか、人間の少女が持っていたことに対する驚きか、これからどうすればいいんだろうという困惑か、もし人間が触ったなんておっかさんにバレたらどんなお仕置きを受けるかという恐怖か、とにかくきつねは「こんなのあんまりだ」と泣きたくなった。もう何もかもから逃げ出したいというのが正直なところであって、志朗の「大丈夫か」という声に「大丈夫じゃない…」とかろうじて答えるのが精一杯であった。

 そんなきつねに志朗はどうしようか悩んだが、時間がもったいないのも事実で、少女に近寄り「こんばんは」と声をかけた。


「どうしてこんなところにいるんだ?」


 少女は近づいてきた志朗に、少し後ずさり、驚いたように黒目がちの瞳を見開いた。


「す、透けてる!?」


どうやら幽霊を見るのは初めてらしい。「幽霊だからな」と志朗が答えると、少女はきゅっと唇を一文字にして、志朗を見つめた。幽霊に出会ったのは初めてで、どうしたらよいのかわからない。そんな顔をしていた。


「ねぇ、君。その鏡どこで拾ったの?」


 気を取り直したきつねが、志朗の後ろから少女に声をかけた。

 少女はいきなり現れたきつねのお面にびっくりしたようだが、一見、人間に見えるきつねにほっとしたらしい。「花火大会に来たら、木の根っこに挟まってるの見つけて、きらきらしてたから拾ったの。……そしたら、お母さんいなくなっちゃったの。ここどこ? 暗くて怖いよ。帰りたいよう……」と話し出し、途中でぐずぐずと泣き始めてしまった。きつねは「よしよし、怖かったね」となだめて言った。


「実はその鏡、ボクの大切なものなんだ。お母さんのとこへ連れてってあげるから、返してくれないかな。それがないと、とっても困るんだよ」

「おにいちゃんの鏡なの?」

「そう。ずっと探してたんだ。

 ……まさか御神木の根っこに挟まってただなんて、思いもよらなかったけど」

「おにいちゃんのなら、返すね」


 小さな手で手鏡を差し出した少女に「ありがとう」と言って受け取り、きつねは鏡を、今度こそなくさないようにズボンのポケットにしまった。


「これでやっと家に帰れる……」


 ああよかった、ときつねは安堵のため息をついた。


「よかったな、きつね。それじゃ、戻るか」

「そうだね。ほら、行くよ」


 きつねは右手で志朗の手を、左手で少女の手を掴んだ。そのまま御神木に一礼し、祝詞を唱えた。唱え終えると、来たときのようなトラブルはなく、3人は現世に帰ってきた。


「さ、お母さんとはどこではぐれたんだい?」


 きつねが少女に尋ねると、少女は目を丸くしたまま「わかんない」と言った。


「……お母さんは、どんな人なんだ?」


 志朗が尋ねると「いつもは優しいんだけどね、怒ると恐いの。にんじんが嫌いでね、でもあたしがピーマン残すと怒るの。でも、いい匂いするし、お掃除が得意で、大好き」とよくわからないことを一生懸命話された。喋っているうちに寂しくなったようで、少女の目にまた涙が溜まり始める。それを見て、きつねと志朗は慌てた。小さい子の扱いなどあまり縁がなかったので、どうすればよいのかわからない。とにかく早く少女のお母さんを見つけようと、少女を慰めながらアイコンタクトを交わすのが精々だった。




 花火大会の喧騒のなか、一人の人間を探し出すことはとても難しい。だが、きつねが狐であったことが幸いした。犬ほどではないが、狐も鼻が利くのだ。それほど時間がかからないうちに、少女の母親を見つけることができた。


「お母さん!」

「花音! もう、どこ行ってたの! 心配したんだからね。もし誘拐なんかされてたらと思って、気が気じゃなかったんだから。離れちゃダメって言ったのに」

「ごめんなさい」


 抱き合う親子に、きつねはほっとしたが、志朗は少女が無事母親と会えたことに安心するどころではなかった。

 その母親は、志朗の愛したかつての幼馴染だったのだ。あの頃のような爛漫とした明るさは歳を重ねて落ち着きに変わったのだろう。母親の顔をしている彼女は、だが面影は志朗の知る彼女そのものだった。なぜ、気づかなかったのだろう。少女を見たとき、誰かに似ているような気がしたのだ。まさか、彼女の子どもだったなんて。


「どうしたのさ、おにいさん」


 志朗の様子がおかしいのに気づいたきつねが、志朗の服の裾を引っ張るが、志朗はただ静かに母親となった幼馴染を見つめた。

 そうか、と志朗は微笑んだ。彼女は、幸せそうだった。

 あの頃も、今も。本当に欲しかったのは、そこにあった笑顔だけだった。


「ありがとう」


 そっと、呟く。

 幸せに生きていてくれて、ありがとう。






 隅田川に、花火が咲いた。

 わあっと歓声があがる。

 きつねが打ち上げ花火に見とれて、ふと隣を見ると、


「……水臭いじゃないか、おにいさん」


 志朗は、もうそこにはいなかった。

 きつねはやれやれと首を振って、手鏡を覗き込んだ。

 隅田川を、小さな灯――魂が流れていく。ゆらゆらと、あの世へ向かって。

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隅田川 吉平たまお @tamat636

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