第26話
ミシャは静かに椅子に座っていた。
この部屋には国王がいて、その傍らにはキース王子が立つ。
「ミシャ、ごめんね」
キース王子が言う。少し哀しみを湛えているが、その中に冷徹な意思も見え隠れする。青い瞳に無邪気な少年っぽさもなく、姫王子と揶揄されるような王子には到底、見えなかった。
エステリア王国の海洋貿易を担う交易の大型船が、海賊に拿捕された。乗組員は三十人を超える。その乗組員の遺体がひとつずつ、毎朝小舟で、港に送りつけられていた。
残りの乗員を助けたければ、ミシャを差し出せ、という要求があったのだ。
何故そこまでして、ミシャを海賊が欲しがっているのかわからない。だが、彼女一人のために受けている被害が甚大で、王はついに決断した。
「余は、一人が死ぬか百人が死ぬかなら、一人が死ぬ方を選ばねばならぬ」
「知っています」
ミシャは同じ言葉をディルクから聞いていた。そしてディルクはその一人になっていて、今度は自分が、その一人になるだけ。
話の通じる相手ではなかった。他の交換条件を一切飲まず、とにかくミシャを寄こせの一辺倒。彼女を一旦渡して、乗員を開放し、ミシャの救助は後日改めて、という事になっていた。
これまでの状況から、殺すつもりはなさそうである。生きているならいくらでも助ける方法はあると、そう判断されたのだった。
ミシャは夕刻指定の場所で、迎えの小舟に乗せられた。少女は、ジルのくれた木彫りのリスを、大切にその手に持っている。
彼に傍にいて欲しい、でもさすがの彼も海の上まではついてこれない。国王もそれを許さないだろう。
だから、これを持ってきた。
彼のくれた、大人になった日の記念品を御守りに。
あの安らぐ森の気配を、心の
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遠くに、エステリア王国の僅かな灯が見える海上の海賊船の上。
ミシャは敵の真っただ中に、ただ一人。
海賊船から、拿捕されていた交易の船が離れて行く。海賊が素直に約束を守ったのが意外にも思えたが、去り行く船の帆先の上に、少女の知った顔が見えた。
「ハーシー……?」
船の縁に捕まって、遠く去って行く船を見送っているミシャの背筋が、突然ゾクりとした。恐る恐る振り返るとそこに、アッシュブロンドの青銅色の瞳の女が、両隣に海賊を従え、立っていた。ジルでさえ恐れた父母の
何をされるのかと怯えるミシャに、女は歓喜の表情で駆け寄り、抱き着いて来た。
「間に合った……」
少女は驚いて、固まってしまった。
女はミシャの手を、優しく引いて、船室に誘った。想像していなかった対応に、ミシャは狼狽するしかない。父母を惨殺した犯人。ディルクの命を奪った男と同じ姿形の女。
ミシャは椅子に座らされ、温かいお茶を手渡された。女は歓迎の意思が強いように見て取れるが、そんな女にどういう態度で挑めばいいのか、今は混乱する状況。
「私はリュシエンヌ。ミシャは、私の魂の半身。探し求めていた魂の
「え?何ですそれ」
お茶を飲む気がせず、ミシャはそのカップをぎゅっと握っている。
「貴女は何も知らないのね、私は、何百年、何千年とずっと苦しんだのに」
女の声に、少しだけ苛立ちが添えられた。
リュシエンヌは、自らを白呪術師であると言い、過去も未来もすべて精霊から聞いて知っているとも。そして世界の秘密も。
一つの世界になるべく生まれた世界は、何をきっかけとしたのか、双子になってしまった。魔力の存在する世界と、ない世界に二分されて。
「双子なのに、男と女に分かれた、私達兄妹みたいにね」
女は自嘲するように笑う。
レナルドは銃を使っての世界の支配を夢見ていた。銃さえあれば世界を牛耳れると信じた、愚かな兄。
リュシエンヌはそれとは違う目的を持って、世界を乱して来ていた。
魔力を持った魂は大きな粒、持たない魂は小さな粒。この世界は大きな粒で満ちた。だが粒が大きいと、世界に入る個数が少なくなる。
本来、双子の世界として、同じ個数の魂を持つはずだったのに、二つの世界で魂の数に大きな違いが出てしまった。
だからこの世界は異世界から、足りない数の魂を取り込み始めたのだ。
そしてこの世界に開いた穴は、小さな粒しか通さない。
「それが異世界人……」
世界が双子になる事が決まった時に、魂も二つに別たれていた。魂は常に、
別たれた魂が、一つの世界にあればよかったのだが、魂はどちらの世界とつかず、ランダムに散ってしまった。落ちた世界を故郷として輪廻を繰り返してしまい、出会わないままになってしまうものが出てしまったという。
「それが私達よ。だけどついに、あなたがこの世界のどこかに来たのがわかったの。でも探し出すのに随分とかかってしまったわ。だから見つける前にあなたが死んで、元の世界に魂を返してしまわないように、世界を分離しようと思ったの」
「え……?」
「魂は肉体を離れる時に、器の中の魔力を解き放って空っぽにするの。解き放たれた魔力は、世界に圧力をかける。それが多ければ多いほど、圧力は増して、繋がった世界は離れていく。世界が離れれば、もう魂は行き来しない。本当は、ゴートワナ帝国の帝王に働いてもらって、分離が完了するはずだったんだけど、邪魔が入ったわ」
ミシャは、小麦の種を受けた日に見た夢を思い出していた。あれは未来の世界の姿、精霊が見せた、起こる可能性のある未来。引き裂かれた世界の、生々しい悲鳴が耳に残る。
「仕方ないから、代わりにイラリオン王国を滅ぼしたのよ。その過程の圧力で、小さな粒を向こうの世界に少し押し戻してしまったけど、ミシャは大きな粒だもの、貴女が戻らないなら些細な事ね」
彼女は人の命を、ただの物質として捉えていた。
ミシャは顔色を失い、あまりの事に言葉を続けられない。
「世界の分離には、もっと魔力を解き放つ魂の数が必要だから、次はこの国にしようと狙いをつけたら、あなたがいたんだもの、驚いたわ」
リュシエンヌは、笑いながらミシャの頬に手を触れ、少女はびくりと体を震わせた。氷のように冷たい手が、体温を奪いながら心まで凍みる。ミシャの心を凍えさせる。
「私と魂の契りを。そうすればもう、あなたはこの世界に留まり続ける。あなたの魂の故郷はこちらになる。あなたが受け入れてくれたら、私は、世界を分離する未来を作らなくて良くなるわ。次に出会った時に、魂は完全な一つになれる。その目印をつけておきたいの」
ミシャは瞬きすら忘れて息を飲む。
この女は、魂の半身を手に入れるために、多くの人を殺めて来たのだ。百人を救うためにその身を差し出す者がいる中で、自分一人のために何万人もを殺める事が出来る女。それがミシャの魂の半身というのだ。
「間に合った、って、どういう意味……?」
最初に女が口にした言葉が気になった。
「だってあなたの魂の光は、精霊に吸われちゃって、こんなにもやせ細ってるじゃないの。あといつまで、魂が肉体を支えられるかわからないわ」
「精霊が光を吸う?」
「ああ、誰もあなたに教えてくれなかったのね。あなたは私と同じ、白呪術師なのよ、魔導士なんかじゃない」
魔獣は魔力に惹かれる。だから魔獣は魔力を削って使役する。精霊は魂の光に惹かれる。だから光を削って使役する。
魔獣は魔力を取り込みたがる。精霊は魂の光を取り込みたがる。彼女はそう、言うのだが。
「あいつらは寄生虫みたいなものよ」
リュシエンヌは憎悪を籠めて吐き捨てた。
「私も随分、吸われちゃったわ。もう長くはないわね」
「あの子たちはそんな事しない……」
フレイアの家にいた精霊たちは、むしろミシャを助けてくれていた気がする。
女はミシャの言葉に対し、煩わしそうに髪をばさっとかきあげた。
「魂は原初の光の元で、光を蓄えて生まれ変わるのだけど……光を削られてやせ細った白呪術師の魂は、蓄えるのにすごく時間がかかるのよ。ずっとその間、寂しくて苦しかったわ」
魂は記憶を運ばない、はずだった。だが極稀に、運んでしまう事があり、それは悲劇としか言いようがない。記憶を持ったまま生まれ変われたらいいのに、などと願うなんて、愚かな事だとリュシエンヌは言う。あの寂しさと苦しみの記憶がなければ、永遠の輪廻の中でも、気長に半身と出会う日が待てるのに。
彼女は魂が生じたその瞬間からの、永遠にも思える記憶を持ち続けて今日まで来てしまっていたのだ。
「でも、それがやっと終わる」
女はミシャを立ち上がらせて、ベッドに誘い、そっと押し倒していく。ミシャは、抗う事が出来なくなっていた。自分が拒否すれば、この女は絶対、世界を分離しようとする。もしミシャが死んで、魂を元の世界に戻してしまえば、リュシエンヌは再び半身を求めて苦しみ続けるのだ。自死すら
「私、精霊なんて使役してない、呪術なんて知らない」
「あなた、そんな事言って、魂を見た事があるのではなくて?魔導士に、魂は見えなくてよ?」
ミシャは、ロレッタの声を取り戻すために、彼女の魂を見ている。自らの魔力を取り戻すために、自分の魂も見た。
「そうね、あなたは精霊と、持ちつ持たれつって感じなのね。でも意識して使役しなくても、あいつらは光を吸っていくのよ、言ったでしょ、寄生虫だって」
ミシャの服を脱がしながら、その体に指を這わす。魔力を失いつつあるミシャの体は、古代の魔法陣が維持できず、その模様を薄めていた。
ミシャの中の小麦の魔力が、今の彼女の体を支えている。
「私、魂の契りの方法なんて知らないです」
ミシャは震えていた。何に怯えているのか、自分でもわからない。ミシャの手に、木彫りのリスが握りしめられているのを見て、リュシエンヌはそれを、取り上げる。
「何これ?」
「捨てないで、宝物なの」
「そう、大事にしたらいいわ」
リュシエンヌはそっと、ベッド脇のテーブルにその木彫りのリスを置いた。
「魔力の器は魂にあるのでは?こんな事をしなくても、魔力のある私なら、元の世界に戻らないのではないです?」
ミシャは質問攻めにして、嫌な事を後回しにしようとした。
「バカね、なんで魔力量が遺伝すると思ってるのよ。魂は入れ物を持ってるだけだわ。器のサイズは血で決まるのよ。原初の光の前では器は空っぽで閉じていて、魔力が溜まるかどうかは、割り振られた世界で決まる。今のままでは貴女の魂は、故郷に戻ってしまうの、いい加減、理解して」
女は会話を続けながら、手は止めない。もう、待ちたくないのだ。ずっと半身を求め続け苦しんで来た。もう一時すら耐えがたい。
船は、揺り籠のようにゆっくりと揺れる。
抗う事もできず、成すがまま。
次々と首筋に、独占の刻印が刻まれる。
ミシャはゆっくりと海の底へ、底へと。
愛も、労わりも、気遣いもなく。
ただひたすら、ひとつの目的のためだけに。
諦めと、哀しみと、空虚さと。
魂はちぎり取られ、代わりに相手の魂の破片が押し付けられた。
深海は暗くて重苦しい。
音も聞こえず、光も見えず。
横たわる闇は、一切の揺らぎもなく、ただひたすら、静かに冷たく。
ミシャは世界の奥底に、空気の泡を吐いて、ゆっくりと沈んで行った。
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その頃、封印の専門家であるマクシミリアンがついに、ガイナフォリックス卿の封印の解除に成功していた。ノートは、開かれないまま、魔導士団長に手渡されていた。秘密を知るのは魔導士団長ただ一人であるべきだと、副団長は判断した。
セトルヴィードは、自室の机でそのノートを開いて読んだ。
内容は、精霊が語った世界について。魂について。その未来。
リュシエンヌがミシャに語ったのと、ほぼ同じ内容だった。一つだけ違ったのが、精霊についての事柄だろうか。
銀髪の魔導士は、新しい魔法の開発に着手した。
世界を知るための、調査魔法。彼は攻撃のためでもなく、防御のためでもなく、世界を変える力でもない、新しい魔法を選んだのだ。
変化を知り、見守るための魔法。
人工衛星で気候変動を知るように、この世界を観測する、新たな力。
これがセトルヴィードの生涯をかけて作られる、新魔法となる。
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