第五章 闇に光は眠らない
第17話
ミシャはまた、夢を見る。
木漏れ日に満ちた森の朝。鳥のさえずり、小川のせせらぎ。
疲れ切って、泥のように眠ってしまった事を青年は知る。彼女は青年の起床をどうやって知ったのか、パタパタと階段を駆け上がる音がして、ノックの音がした。扉の外から声がかけられる。
「おはようございます、ゆっくりお休みになられました?」
「はい、とても心地よく」
「朝食のご用意が出来ておりますので、降りて来て下さいまし」
「ありがとう」
青年は着替えると、階段をゆっくり降りた。
この宿はとても気持ちが良く、心がどんどん癒される。暖かな雰囲気がとにかくよかった。ここを切り盛りしているのは、この娘一人なのが不思議だったし、このような場所に宿があるのも不思議だった。
彼女が作った朝食は、ハーブや木の実を使ったサラダ、ドライフルーツを混ぜ込んで焼かれたパンケーキ、ぽってりとしたジャガイモをすりつぶしたスープで、体にも良く、美味しそうだった。
彼の体が欲している栄養素が、揃えられているようだ。
朝食をすすめながら、二人は会話も楽しむ事にした。
「わたくし、ゲルトラウトと申します。あなた様は?」
「ガイナフォリックスです」
「普段から、お家の名前を名乗っておられるのですか?」
「ええ。……そうですね、この場所では、あまり相応しくないですね。アドウェルと呼んでください」
「アドウェル様ですね」
「そうです、ゲルトラウトさん」
「呼び捨てにしてくださいまし?」
「ゲルトラウト……」
「はい」
少女は春の陽だまりのような笑顔を見せた。その笑顔が心を温かくさせる。心に光が満ちて来るようだ。
「私は魔導士です」
「何から逃げておいでですか?」
青年はその緑の瞳を見開いて、心から驚いた様子を見せた。
「何故それを」
「わたくし、おしゃべりなお友達が多くて」
「まさか、白呪術師」
「……そう呼ばれる事もありますが、使役はしておりませんの」
「そんな事が出来るのですか」
「主従はないのです、みんな、お友達ですわ。一人ぼっちのわたくしのために、みんなが傍にいてくれているのです」
少女はその瞳を閉じて、優しさに満ちた微笑を湛えた。
なるほど、精霊ですらもこの少女を支えてあげたくなるだろうなと、ガイナフォリックスは思った。
緑の瞳を持つ魔導士の青年は、食事の後に最後に差し出された紅茶のカップを両手で包み込み、静かに告白を始めた。
「ゲルトラウトは、王都の事情はご存知でしょうか」
「ええ」
「私はこのたび、魔導士団長という立場になる事が決まったのです」
「それは、お辛いですわね」
「まさかその秘密までご存知とは。精霊はこの世のすべてを知っているというのは、本当なのですね」
「上も下も、左も右も、後ろも前も。過去も未来も、お友達は見ているようですわ」
「私は、逃げ出してしまいました。だが、戻らなければならない事も承知してはいるのです。代々続いた家系のために、子も成さねばなりませんし」
「血にも縛られておいでなのですね」
同情ではない、心からの労わりを感じて、青年は心がどんどん落ち着いて来るのがわかった。このような人が生涯、傍らにいてくれれば、どんな苦難にも立ち向かえそうであるのに。
「貴女は何故ここに」
「……わたくしも、縛られておりますの」
「精霊と共に生きる白呪術師の中には、結界の中でしか魂を維持できない者がいると聞くが、まさかゲルトラウトがそうなのですか」
少女は悲し気に頷いた。
「生まれながらの白呪術師は、剥き出しの魂で生きておりますので、わたくしがここから出る事が出来るのは、魂になった時だけです」
「何という事だ」
二人は切なげに見つめ合った。
「それに夢がございますの」
「夢ですか」
「お友達が教えてくれた、悲しい未来を、変えてみたいと思うのです。わたくしがこの世界に、命を授けられた理由を、そこに見つけたいのです」
ゲルトラウトはこれから五十数年後の未来を語った。
隣国の王による古代魔法の発動で、世界が一気に原初に引き戻されるという、恐ろしい未来。ガイナフォリックスは息を飲んだ。
「わたくしにできる事は些細な事ですわ。その古代魔法のために利用されるだけの、悲しい魂を救ってあげたいのです」
「私の悩みなど、些細でしたな」
ゲルトラウトはお茶のおかわりを注いだ。香りのよい花を混ぜて焼いたクッキーも、その横に置いた。
ガイナフォリックスはその一つをつまんで、口に入れた。
甘すぎず、適度な塩気が食べやすい。花の香りが体に染みていくようだ。
「このような話を、今するのは相応しくないと思うのですが、私はいわゆる一目惚れというものを、ゲルトラウトにしてしまったようなのです」
「わたくしもなのです。魂の、
二人は再び見つめ合う。魂が引き合うような、出会うべきして出会った半身。
「未来は変化します。精霊は毎日、その言葉を変えるのです。絶対的な未来というのはないのかもしれません」
「だが確実にできる事はあるでしょう」
「ここから出られず、そして長くは、この体で生きられないわたくしと、約束をしていただけますか」
「約束を果たすという未来は、意思の力で作る事ができる絶対的なものです」
「五十年後、ここで再び会えますでしょうか」
「その時には足枷をすべて外して、必ず」
「わたくしと、魂の契りを。一人で待ち続ける、勇気をくださいませ」
二人の密やかな婚姻を、精霊たちは祝福をした。
魂の欠片を交換しあい、永遠の約束が成された。
別れるべき朝。別れがたき朝が来てしまった。
「わたくし、小麦を育てようと思います」
「小麦?」
「ええ、小麦です」
「どうしてまた」
「必要になるからです」
少女は洗濯籠を地面に置き、背伸びをすると、ガイナフォリックスに、約束を確認するように最後の口づけをした。
「待ってますから」
二人は長い時間、抱擁を交わしていた。やがてどちらとも知れずに体を離し、青年は振り返らず、強い足取りで去って行った。
少女もそれを強い眼差しで見送る。
「これから、わたくしたちの戦いが始まりますのね」
「ふふ、あなたたちがいるから、きっとやり遂げられますわ」
「最悪の未来が変えられても、次々と、苦難は訪れるのでしょうね」
水色の瞳に哀しみと寂しさとが重なりあって、雫となって落ちる。
「ああ、遠い未来に、また一人、苦難に立ち向かう少女が見える」
「あの子も同じように、苦しみながら戦うのですね」
「わたくしの力は、あの子には及ばない、私が救える魂はただ一つ」
「無力が辛い、弱く生まれてしまった自分が恨めしい」
ゲルトラウト手を捧げ上げる。
「みんなが助けてくれるの?ありがとう」
「助けてあげて、一人で背負うには世界の運命は重すぎる」
次々と精霊たちが、少女の水色の瞳に未来を映し込む。
「ああ、未来が、揺らぐ」
「世界の悲鳴が、聞こえる」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
銀髪の魔導士は、赤毛の短髪で耳の横に小さな三つ編みを作った、黒い瞳の副団長の部屋に来ていた。この部屋も、セトルヴィードの部屋同様、背の高い本棚に本がぎっしりと詰め込まれ、押しつぶされそうな圧迫感がある。滅多に来客がないためか、予備の椅子すらないという。
その部屋の主は魔導士とは思えない、屈強な体躯を持つ。戦士にも思えるその外見ではあったが、彼は封印の専門家であった。
「団長が自らこちらに赴かれるとは」
「すまない、お前の手が借りたい」
驚くと同時に、勧められる椅子がない事に気付き、やや困惑している彼を他所に、セトルヴィードは、封印の施されたノートを、その眼前の机の上に置いた。
「ほう、これはこれは」
「解けるであろうか?」
「これは誰の手によるものですか」
「前団長だ」
マクシミリアンの、眉がわずかに動く。
「ガイナフォリックス卿……彼の人は封印も専門でしたか」
「わからない。私と同じで、これといった専門分野はないのかもしれない」
紫の瞳と、黒い瞳がまっすぐに対峙する。
マクシミリアンは、僅かに微笑んだ。
「団長に専門分野がないなど、おかしな話を」
「実際、これといってないが?」
「ご冗談を。そんな無能者が、魔導士団長の地位になれるわけがない」
副団長の含みのある言い方に、現在の魔導士団長は怪訝な表情を浮かべた。
年若いセトルヴィードは、まだそれに気づいていないのだと、年長である封印の副団長は知った。
「団長。封印と治癒は、すでに起こった過去に向かう力です」
「?」
「攻撃と防御は、今現在、目の前にある事柄に向かう力です」
「何なんだ」
「あなたの専門は、未来に向かう力です」
「……新魔法……」
赤毛の屈強な魔導士は頷いた。
「そう、あなたの専門分野は、新しい魔法です。今までもいくつか、すでに作られているでしょう?」
思い返せば何度も、必要と思われる魔法を作って来た。複数の魔法を組み合わせる程度の新しい魔方陣を構築する事は、銀髪の魔導士には容易い。
そして、前団長ガイナフォリックス卿は、今まで誰も作り上げていなかった、生体魔方陣による分解の魔法を作り上げている。
「魔導士団長の資質は、魔力量だけではないのですよ。魔力量だけなら、他にまだ、いくらでも候補はいるのです」
「そうだったのか」
「この封印も、新種ですね。手強そうです」
「お前にも難しいか」
「やりがいはありますな。しばし時間を頂きたい」
「すまないがよろしく頼む」
部屋を出た、銀髪の魔導士は考える。
自分はいつか、あの前団長の魔法を越える魔法を作らねばならぬのだと。
より良い未来に必要になる、道具となるべき魔法を。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
船の縁に持たれて、アッシュブロンドの女は夜空を見ていた。海から見る空は広く、地上の灯りの影響も受けず、満天の星。
潮風がその長い髪を煽る。
そこに、そっくりな男が現れた。
「リュシエンヌ」
「兄様」
「上手くいかなかったか」
女は青銅色の瞳を伏せた。
「なんなのこの国、イラリオン王国ではあっという間に蔓延したのに」
イラリオン王国で流行った疫病を、この国でも流行らせるために、女は色々と策謀を巡らせていた。しかし、衛生管理が徹底されており、異世界人の技術で上下水道が整っているエステリア王国では、防疫が機能し、全く効果が出なかった。
その病気は、いわゆる黒死病……ペストであった。
ネズミとダニを完全に駆除されては、広がるはずもない。一部区域で流行って、それも完全に、そこだけで防がれて終わった。
「あの王妃、うっとおしい」
親指の爪を噛む。
防疫を指示したのは王妃、そう内通者から知らされていた。
暗殺も何度か企てたが、すべて防がれている。
王子を人質にする計画もあったが、そちらも失敗していた。とにかく国王周辺の防衛ラインが強固だった。
「もう少し人材が欲しいな」
「兄様、まだあの騎士にご執心なの?」
「あれは、かなり役立つぞ」
女はその騎士には興味なさそうだった。女の興味は、また別にあった。
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