【痕】

「いってきます」

 朝、登校のために家を出ると、いつも通り橘が電柱に背中を預け待ってくれていた。中学時代の朝練が災いして未だに目覚めが早いらしいが、先輩として、後輩をこう毎日待たせるのも気が引ける。

「おはよう」

「おはようございますっ先輩!」

 気は引けるんだけども……低血圧で朝が弱い私が、彼女を迎えに行く日はまだまだ遠そうだ。

「しゃきっとしてない先輩、本当に可愛いッスねぇ……学校なんか行かずに連れて帰りたい気分ッスよ」

いてもないのに何言ってんのよ。……少し歩いたら起きてくるから……」

「ずーっとそのままでも良いんスよ? 二度寝する先輩を眺めながら……自分も……ふふふ……ふ、ふふ? ふ? え、ちょ、ま、は? な、え?」

「急に何よ」

 気味の悪い笑みを浮かべたかと思えば、今度は何度見だってくらい視線を泳がし、明らかな挙動不審に陥る橘。

「……なんスか、先輩……それ……」

「どれ?」

「これっすよ……首の……絆創膏……」

 わなわなと震える指先を、触れるか触れないかくらいの距離までおずおずと伸ばし、橘は決して見てはいけない何かを目撃してしまったかのように呟いた。

「ああこれ」

 これが一体どうしたというのだ。普通見ればわかるだろう。

「蚊に吸われちゃったのよ。私アレルギーだから結構腫れちゃって。それで恥ずかしいから隠したのと、塗った薬が落ちないように……橘?」

 私が話している間に橘は足を止め、振り返って見ると……瞳からすぅっとハイライトが薄れていく。

「…………本当、ッスよね?」

「ほ、本当も何も……他に何があるの?」

 橘の視線は(普通に怖いのはもはや当たり前で)偏執的で、どこか妬ましさも滲ませている。

 もしや蚊に嫉妬しているとか? いや、それは流石に……いくら何でも……。

「……ちょっと確認、させてもらっていいっすか?」

「ええっ、イヤよ」

「……隠すんすか?」

「だから、隠すも何も今言った通りだって「キス痕! って、ことは……無いんスかねぇ」

「はぁ……?」

 この後輩は真剣な顔をして、私の両肩を運動部特有の力で握りしめ何を言っているんだろうか。

「無いけど。あったとしたら誰よ」

「知らないッスけど、その誰かさんの葬儀が今月中に執り行われるのは確かッスね」

「妄想の癖に段取り組み立てるの早すぎるでしょ……」

 浮気そんなことを疑っていたのか。全く、橘のヤキモチ焼きにも困ったものだ。

「ねぇ、橘。あなたと付き合ってる私が、他人からそんなもの付けられるって本当に疑ってるの?」

「疑ってま………………………………せんよ! ません! 無いっす! だけど……先輩、先輩程素敵な人なら無理やりとか……そういうこと考えちゃうんスよ!」

 死ぬほど長考したわねこいつ。超疑ってるじゃない。

「ひと目、ひと目見せて貰えば安心できるんス!」

「だから、みっともなくなってるから人に見せたくないの。わかるでしょ?」

「自分は先輩のどんな姿でもどんな部位でもどんな部分でもどんな症状でもみっともないだなんて思わないッス! お願いします!!」

 運動部特有の気持ち良いお辞儀と発声。どう考えても他のことに活かした方がいい。

「……はいはい」

 ここまで懇願されると、見せない自分がむしろバカバカしく思えてきた。絆創膏の粘着部分を半分剥がして患部を見せる。

「ほら、結構腫れちゃってるでしょ」

「……あっ、はい。ありがとうございます……。その……痒そう、ッスね」

 拍子抜けだったのか、そんな当たり障りのない反応で一連を終わらせようとした橘。

「……そんなに心配なら……橘が付けてみればいいんじゃない?」

 あれだけ責め立てられてこのまま終わりなんて面白くない。今度は私がからかう番だ。

「…………へ?」

「だから、そんなに心配で嫉妬するくらいなら、自分のものっていう証を残せばいいじゃない」

「……っと、それは……つまり……」

「ほら、どこでもいいわよ。シャツが邪魔? それともわざと見えるところに付けたい?」

 ネクタイを緩めて、シャツのボタンを一つ開けて、鎖骨まで晒す。

「ちょ、そんな……先輩……」

 ふふ、純情ぶって目をそむけようとするも結局は血走った視線を飛ばしてくる橘。耳まで顔を赤くして生唾を飲み込む音がしたあたりで――

「はーい終わり。もう変な絡み方しないでね?」

 ――そろそろ学校だ。乱れた服を直そうとすると――

「先輩」

「へ?」

 突然引っ張っられ、猫しか通らないような狭い路地に押し込められる。当然のように密着するカタチで。

「……ちょっと、橘……」

「良いんスよね、先輩が言ったんスからね」

 拒絶する間もなく、首の付根に橘の唇が押し付けられた。

「まっ……だから冗談だって……橘……えっと…………くすぐっ、たい……」

「ひゃ、ひゃれ?」

 キス痕について一家言あるわけではないが、結局のところあの痕は局所的に圧迫して内出血を起こした結果に過ぎない。つまりそれを残すには、相応の痛みもセットなわけで。現段階ではくすぐったいだけだ。

 もしかしてこの後輩は……思い切り吸わないとキス痕はできない、ということを知らないのだろうか。なんだ……焦って損したな。

「ほら、やり方がわからないんでしょ、また今度でいいじゃない。今は離れて……」

「~~~~」 

「っ…………ぁ……」

 適当になだめて引き剥がそうとした瞬間、脳まで痺れるような刺激が全身を駆け抜けて――思わず足の力が抜ける。

「せ、先輩! すみません! 自分……思わず……あの、大丈夫、ですか……?」

「…………ええ。へ、平気よ、気にしないで」

 崩れた体を抱きしめられて、本気で心配する声を聞いて、自分がされたことにようやく気づいた。

 さっきまで橘の唇があった部分に指を這わすと、軽い凹凸の感触。

「……ばか、これじゃキス痕じゃなくて……噛み痕じゃない」

「ご、ごめんなさい! 自分、あの、先輩を傷つけたかったわけじゃなくて、ごめんなさい」

「だから」

 あの一瞬でここまで克明に残っているということは、それなりの力で噛みつかれたのだろう。

 怒ってしかるべきだ。突き放して、なにすんのよ! と叫んでもおかしくない。

 それなのに、どうして私は、こんなにも――

「いいって言ってるでしょ。そもそも私がすればって煽ったんだし」

 ――胸が高鳴っているんだろう、耳まで熱くなっているんだろう。

 ダメだ。たぶん今、私は、橘に見せちゃいけない表情をしている。

「……先輩?」

「いいから、もうちょっとだけ……このままでいて」

「……。はいっす」

 狭い路地で橘に抱えられながら、火照りが冷めるのを待った。

 けれど、私を包む体温が、香りが、圧力が、痕をうずかせて――いつの間にか、眠気なんて霧消している。

「次は……私がやり返すから」

「嬉しいッス。いつでも、どこにでも、どんな痕でも付けてください、先輩」

 私の高鳴りを感じ取ったのか、橘の声音も上気しているようだった。

 そして見なくてもわかる。彼女の瞳のハイライトは、きっともう――完全に――。

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