side.O
初めまして。
あっ、俺の名前ですか? 知っているでしょうに。一応の確認のために必要? はぁそうですか……王谷です。今日はあのひとのことを聞きに来たんですよね。ですよね。良かった。いや最初はどっちのことか分からなくて、もしそっちじゃなくて逆のほうだったら、断ろうと思ってたんです。今さら話すことなんて何もなくて、今までに何らかの形で伝えたことがすべてだからです。そんなにかしこまったしゃべり方はしなくても、って? 昔会話する時、ICレコーダーをこっそり忍ばせてるひとがいましてね。それ以来、特に初対面のひととしゃべる時には気を付けてるんです。昔取った杵柄ってやつですかね。ちょっと違いますかね。すいません。馬鹿なんで。それにしても今日は暑いですね。結構クーラーの温度は下げてるんですけど、こいつも俺と一緒でガタが来てるんですよ。きっとね。汗が止まらないや。
汗の臭い大丈夫ですか? 臭くないですか?
ガキの頃、俺、臭いっていじめられてたんです。
好きな子から臭いって言われたのが始まりでした。関係ない話は大丈夫だって? まぁいいじゃないですか。時間はあるんだし、せっかくなんで聞いていってくださいよ。
三年生の頃に親が離婚して今の名字になったんですけど、それまでみんな俺のことを名字で呼んでたのに、子ども心に触れちゃいけないと思ったんでしょうね……その日の最初に俺の名を呼んだ奴に影響されるように、クラスメートたちが俺のことを下の名前で呼ぶようになったんです。
コウジくんって。
別にそれだけでいじめられてたとか言わないですよ。そんな繊細な人間でもないのは、まぁ見てれば分かりますよね。だけど本当に暑いですねぇ。暑いし、じめっとしてるし。今日来る時、天気どうでした?
雨でしたか……そんなのカーテン開けろ、って話ですよね。でも外の景色って嫌いなんですよ。あぁ雨でしたか。梅雨は本当に嫌ですね。
ここは俺が住んでいた地元よりもずっと都会ですから、学校も大きくて子どもも多いです。あんだけ多いと良いですよね。関わる人間が多ければ、ひとりひとりとの関係性は薄くなっていきますから。
すみませんね。話がのんびりしてて、いらいらさせちゃってたらすみません。
そう、そうでした。臭い、の話でしたね。
別に本当に自分が臭かったかどうかは分からないんですけど、まぁ臭かったらしいんです。不思議ですね。ちゃんと風呂には入ってたのに。
好きな子……。
なんであんな平気でひどいこと言う子を好きになったんだろう、って思うかもしれませんが、俺だってそれまでは彼女が良い子だって信じて、疑ってなかったんです。
良い子ってなんなんでしょうね。俺、子どもの頃からずっと、悪い子、悪い子、って言われ続けてきました。そのたびにそう言ってるお前のほうが悪い奴なんじゃないか、って思って生きてました。でも世間は絶対に俺を悪にして、奴らを善にするんです。
奴らって? 別に誰か特定のひとがいるわけじゃないですよ。敢えて言うなら俺を目の敵にする者すべてです。
でも俺はこんな風に善悪への違和感に悩みながらも、彼女に対して良い子って思ったように、俺も平気で善悪を区切って世の中を見ているんです。
で、俺自身、別にそれを悪いとは思っていない。こういうのなんて言うんでしたっけ。あぁそう、ダブスタ、ダブルスタンダードでしたっけ。ちょっと違いますか? まぁ似たようなことでしょう。頭の良い奴ってすぐこういう言葉使うでしょ。見下し半分に横文字で、俺みたいな学の無い奴を馬鹿にするんだ。嫌になるな、まったく。
そんなに焦れないでください。煙に巻いているわけじゃないんです。
臭いってどういうつもりで言ったのかは分かりません。誤解のないよう言っておくと、俺は両親の離婚で裕福とは言えない生活を送ってましたが、毎日の風呂が入れないほどのものじゃありませんでした。
だから嫌がらせで言われただけで、本当はそんなに臭くなかったんじゃ、とも思ってるんです。
臭いですか? やっぱり臭いですかね?
あの子にあぁ言われてから、こんなにおっさんになっても、いまだに自分の臭いが気になって仕方ない。最近転職したんですけどね。過去が過去だから中々、同じ仕事が続かないんですよ。女の事務員がそこにいるんですけど、俺が同じ室内にいると明らかに顔をしかめてるんです。
三年生の夏休み前でした。体育の授業の後の教室で、ちょうど彼女は席が隣だったんです。
彼女が俺に近付いて、俺にしか聞こえない声で、
コウジくん。臭いよ
って言ったんです。
もちろんショックでしたよ。でもそれからの苦しみに比べたら大したことじゃありませんでした。それからです。やけに視線を感じるようになったんです。離婚したばかりで名字が変わった当初もよくそういう、避けながらも注目されている、っていうんですかね。そういう目は感じていましたけど、ちょうど落ち着いていた頃で、それがぶりかえしたというか、みんなが俺のことをやたらと見るんです。
信じてもらえないかもしれませんが、その頃の俺は自分でも言うのもなんですが、すごく大人しい子どもだったんです。品行方正とかそういうことじゃなくて、ただ気弱なだけの、無害なことしか取り柄のない男の子でした。
だから黙って、見て見ぬ振りをしていました。
離婚の時と同じように時間が勝手に解決してくれるって。
だけどなんかそういう時に限って終わらないんですよね。いつまで経っても終わらない。子どもってバカのくせに頭が良いから。あぁもちろん俺もですけどね。うんざりするんです。小賢しいというか。人間関係ができた瞬間からもう本能的に人間ってのは人の傷付け方を知ってるんですよ。人間関係を築く前から人の傷付け方を知っている、っておかしな話だって思うでしょ。もう人間は赤ん坊の頃から他者との交流を築けないその幼い目で人間社会のあらゆる負を瞳に焼き付けているんですよ。
怒らないでくださいよ。えっ、怒ってないって。俺ね。昔からひとの怒りには敏感なんですよ。大丈夫。そこまで時間は掛かりませんから。もうすこし付き合ってくださいよ。久し振りにこんな話ができるのが、嬉しくてね。
遠くからね。女子たちがひそひそ話しながら、鼻を抓んで俺を見たり、とかね。
どんどん露骨になってきました。
言葉にはしないけどね。心は傷付いていました。まぁ心って何かもよく分かってませんけど。言葉にするのは大切なことなのよ、って担任の先生がよく言ってたな。美人だけど、ちょっと冷たい感じのする先生だった。優しいって慕ってる生徒も多かったし、俺も嫌いじゃなかったですけどね。まぁ美人の先生ってだけで、小学生男子としてはそれだけで嬉しいもんです。
相手の心を分かってあげるのは大事なことだけど、みんながみんな相手の心を分かってくれるわけじゃない。だから言葉は大切で、それは口に出さないと意味がないの。
そう先生は言ってました。普段は人の名前なんてすぐ忘れちゃうんですけど、和音先生っていう変わった名前みたいな名字が特徴的で、よく覚えてます。
だけどあの先生に今だから物申したいのはね。言葉に出せるのなら出してる、っていうことです。言葉に出せないから俺は困ってたわけです。
あの時期、クラスのみんなが敵に見えていたわけですけど、たったひとり敵ではない生徒がいました。でもだからと言って味方でもない。俺のほうが逆に避けてる奴でした、あいつは。
自分が避けられてることに悩みながら、自分も誰かを避けている。ねっ、さっきも言ったでしょ。俺はね。そんなどうしようもない人間なんです。でもこんなの意識的に直せるもんでもない。
額の汗がすごいですよ。ちょっとクーラーの温度下げましょうか。まぁあんまり頼りになるクーラーでもありませんが、何もしないよりはマシでしょう。後、あんまり怒らないほうがいいですよ。
怒ると暑さも増して、つらくなるだけでしょう?
すみません。話を戻しますね。
あいつは物静かで口数がすくなくて、みんなが右を向いている時に左を向けるやつでした。でもそれが不思議と嫌な感じを周りに与えないっていうのかな。うん。好かれていたと思います。
でも、ね。その目の奥にある感情が笑っていない、というか。言ったでしょ。俺はひとの怒りに敏感なんです。本当にちいちゃい頃から両親の喧嘩を見て、その顔色ばっかり伺ってましたから。相手の怒りから自衛するにはひとの顔を見続けるしかないんです。すごく曖昧な言い方で悪いんですけど、あいつは怒りをつねに持ち続けていたのに、それを一切外に出すことなく、周囲にばれないようにしていた。
今までの俺の人生の中でも、指折りの薄気味悪い奴です。あいつは俺が置かれている状況にまったく興味がないように見えた。
まぁあいつのことはとりあえず置いておいて、後で関係してくるところもありますが、今は、ね。
えっと、どこまで話しましたっけ。あぁそうそう。クラスのみんなが敵に見えてた、って話でしたね。そう、でもそんな状況にも終わりが来ます。別にそれは時間が解決してくれたわけじゃなくて、俺が変わっただけです。
俺を変えてくれたのも、その俺の好きな子でした。
確か遠足の時だったかな。公園で食べる時にグループを作るんですけど、俺は一人で食べてました。無理してグループに入れられるくらいなら一人で食べたい。そう思ってて、先生も俺の気持ちを察してくれたみたいで、俺はすこし離れたベンチに座ってコンビニのおにぎりを食べてました。
グループにいなかったのは俺くらいでしたね。たとえばずっと話に挙げてるその好きな子は、あいつと一緒なグループにいましたしね。
強がりじゃなくて本当に一人は気楽なんですよ。自分に無理して合わせてくれそうなメンツの中に無理やり放り込まれて、相手も無理やり合わそうとしてくれて、こっちも無理やり合わせなきゃいけない。それって誰も得しないじゃないですか?
人間関係は損得じゃないって言うひともいますけどね。いつも鼻で嗤ってます。
まぁそんなこんなで俺は一人でそれに満足してたんですけど、急にね。その好きな子……うーん。この好きな子って言い方も変な表現ですね。もう過去の話なんだから、好きだった子にしましょうか?
えっ、名前教えてくれって? ふふ。世の中にはね。プライバシーってもんがあるんですよ。ははっ。
その好きだった子が、ね。
急に俺の座る横に腰掛けたんです。
正直俺、困惑しちゃいましてね。心臓がどきどきしましたよ。その時の鼓動はね、もちろん恋愛感情のどきどきなんかじゃないですよ。不安ですよ。また臭いなんて言われたらどうしよう、ってね。
そしたらなんて言ったと思います。
いじめられなくなる方法、教えるよ、って。
ひどい話だと思いませんか? 聞いた時、耳を疑いましたよ。だって彼女の言葉がすべての元凶なのに。なんてこと言うんだ、って思いましたよ。
彼女、それから続けてなんて言ったと思います?
みんなから一目を置かれる存在になるのと自分より下の人間を作る。このふたつさえ実行できれば、もう誰もあなたのことなんていじめないよ、みたいなことです。あの頃はお互い子どもでしたからこんな固い言い方じゃなくて、もっと曖昧な言葉でしたが、要はまぁそういうことです。
いじめられる側が嫌ならいじめる側に回れ。
つまり彼女は俺にそう囁いたんです。
甘い響きでした。
何をすればいいのか分からない俺に、彼女が薦めてきたのは、これです。この手首の傷はもっと後にできたものですが、こうやってね。自分を痛めつけるんです。するとみんなが心配してくれます。最初は教室で椅子から転げ落ちてみたり、そんな他愛のないものでしたけど、こういうのってどんどん癖になってきて、過剰になっていくんですよ。
二階の窓から飛び降りて、足を挫いたこともあります。今だったら怖くてできませんがね。
みんながね。俺を注目するんですよ。
一目を置かれるってこういうことを言うんでしょうね。畏怖の対象って言うんですか? 王様になった気分でした。まぁ褒められた人間じゃないのは重々承知してますが、責めるなら裏で暗躍していた彼女を責めてください。ははっ。まぁもう無理な話ですが。
下の人間も作りましたよ。
クラスの女子生徒で、ちょっと斜に構えた感じの女の子……この子を標的にしました。理由は、ね。いけ好かないというのもありましたけど、一番はあいつに片想いしていたところです。
いじめの内容ですか?
聞かないほうがあなたの精神的にも良いと思いますよ。開き直るわけじゃありませんが、碌でもないことばかりしてきましたからね。
その子の名前ですか? 紗季と言います。
好きだったか、って?
いまだにそういうこと聞かれたりするんですけど、そういう興味はまったくなかったんですよね。
まぁもう時効なんでいいや。さっきのいじめてた理由って、実は嘘なんです。本当は俺の気持ちなんてどうでも良かったんです。その、好きだった子、っていつもその紗季と一緒にいてね。表面上は仲良くしてたみたいだけど、裏では……という奴です。その子に頼まれたんです。俺は当時、その子が好きでしたから。裏の顔を知っても、というよりは、裏の顔を知ったから、かな。俺だけが知っている彼女の本当の顔。そういうのってね、やっぱり優越感を覚えたりするんですよ。
その子の名前が有紀です。
あっ表情が変わった。だから言ってたでしょ。関係ない話でもちゃんと聞いておくのは大事ですよ。
すべての言葉に意味はあり、もし意味のない言葉があるのならそれはすべての言葉に意味はないんです。
この言葉ね。昔、あいつから聞いた言葉なんです。当時も今もよく分からない言葉ですが、なんかずっと胸に残っててね。
有紀の憎しみを晴らすための手駒が俺だったんです。
暑いですか? 多分さっきまでよりは涼しいと思うんですけどね。汗がひどくなってますよ。別に無理して聞かなくても大丈夫ですよ。
聞きますか? そんな無理しなくても……。
紗季をいじめるのはとても詰まらなかったです。だって別にいじめたくていじめてるわけじゃないし、反応もないし……。
一番記憶に残ってるのは、あの鉛筆の一件かな。
六年生になってからのことです。俺がいつも通り紗季に絡んでたら、あいつが静かにしろよ、って言って。そういうことって今までにも何度かあったんですよ。さっき紗季があいつに片想いしてるって言いましたけど、実際は両想いだったのかもしれませんね。有紀から、あいつのことは無視するように言われてたんですけど、やっぱり気に入らなかったんです。あいつは白馬の王子様、俺は雑魚の悪役。そんな構図になっているのが、ただただ気に入らない。間違ってはいないんですけど、やっぱり腹は立つ。
トイレにあいつを呼び出して、俺はその前で待ってたんです。
調子に乗るなよ――、
そんな俺の言葉が言い終わるか終わらない内にあいつがいきなり俺の胸ポケットに入っていた鉛筆を取って、俺の眼に刺す振りをしたんです。俺、それで腰抜かしちゃって。情けない話ですけど、元々気弱な人間でしたからね。相手からの急な攻撃には弱いんです。
いつもみたいに自分で刺せよ。
あいつが俺に鉛筆を持たせて、耳元でそんなことを言ったんです。武器を平気で返せるくらい、俺は相手から下に見られてたんでしょうね。
いつもみたいに自分で刺せよ。
もう一回、あいつが言いました。ぞっとするほど冷たい声でした。
それでどうしたかって? 刺しましたよ。自分で自分を。自らの意志じゃない自傷行為は今までにないほど怖かったです。それにあいつが眼でプレッシャーも掛けてくるし。俺は思わず叫んでましたよ。痛みももちろんありましたが、それよりもこの状況から救ってくれ、って感じでね。
見ますか。
今でもその時の足の傷、残ってますよ。まぁそれ以外の俺の傷と比べてもそれほどの傷じゃないですけど、今でも俺に恐怖を与えてくる傷痕です。
嫌、ですか? それは残念だ。
あの一件からですね。俺の紗季への当たりが弱まったのは。有紀との関わりも極力減らすようにしました。もう彼らに関わりたくない。そんな思いが強くなったんでしょうね。
そのまま俺たちは卒業して、同じ中学に行ったのは俺と有紀のふたりだけでした。中学は四クラスに分かれていたので、有紀とは同じクラスになることもなく、関係が進展することもなく、まぁ俺の熱もその時には冷えていたので、関わりがなくなってほっとしてもいました。
あなたには悪いのですが、あんな危ない女もいませんからね。
もう高校が別になってからは会うこともないだろうな、って思ってたんですが、まさかあんな形で会うことになるなんて思ってもみませんでしたよ。
あれは二十歳そこそこの頃だったかな。
失業とギャンブルの借金苦でね。死のうと思ってたんですよ。よくある自殺が一件増えるだけ。だけど、ね。あんなに自傷行為はできてもね。結局死ぬことはできないんですよ。すくなくとも俺には、ね。
そんな俺のもとに急に有紀が訪ねてきたんです。
ねぇお願いがあるの。最近お金に困ってるらしいじゃない、ってね。
悪魔の囁きはあの頃と変わらず、いつまでも甘い響きとして俺の耳に届くみたいです。
俺が話せるのはここまでです。これ以降のことは新聞記事でもネットのニュースでも好きなように漁ればいい。もう俺自身の口ではしゃべりたくないことです。
カーテン開けてもいいですか? いやなんか昔の話をしてたら、ちょっと雨が見たい気分になりましてね。いや雨は嫌いなんですけどね。ふと見たくなったりもするんです。嫌いなものほど目が離せない。
そんなことってないですか?
あぁすこし強く降り出してきましたね。嫌だ嫌だ。雨の日って碌なことが起きないから、本当に嫌だ。
あなたも気を付けてください。
ではさようなら。あぁ最後にひとつ俺から言えるのは、もう今さら何かを知りたいと思ったとしても、すべてが遅すぎるということです。どんどん数は減っていきます。たとえば先日、今の話に出した和音先生が亡くなったそうです。胃がんと聞いてます。もう若くはないと言っても、まだ死ぬには早すぎる年齢だ。
そしてあなたは有紀と離婚して、どのくらい経ちましたか?
そのぐらいの時間が経ってしまったということです。時を戻すことでもできない限り、真実を知る必要なんてひとつもないでしょう。
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