side.K

 泡沫の夢の記憶をかすかに残しながら、目覚めると頬から涙が伝っている。今でもときおり夢に見る光景は私にとって、もっとも濃密で、そして苦い記憶だった。当時、私は学年にクラスがひとつしかない小学校の教師で、彼らの担任を受け持ち始めた頃はまだ、大学を卒業したばかりの新米教師だった。


 教壇に立つ私は周囲から見れば浮き足立っていたと思うし、それを生徒にばれないようできる限りの去勢を張っていた。


『偽善者』


 いつもその夢の中で私は、一人の少女に怒りを向けられている。その夢のせいか、強い口調で耳に飛んできた言葉が、十年経った今も、フラッシュバックするように突然よみがえる。


 紗季ちゃん……。

 あの子はいま、どうしているだろうか? 何人かの生徒とは今でも繋がりがあるけれど、彼女とは、彼女が卒業して以来、一度も会っていない。すこしだけ会ってみたいという好奇心が顔を覗かせても、過去の想い出がそんな感情を黒く塗りつぶしていく。


 彼女と仲の良かった有紀ちゃんとは今でもたまに連絡を取り合っていて、有紀ちゃんを通して彼女が関西のほうに住んでいることは聞いていた。気配り上手な有紀ちゃんと私には手に負えない問題児だった紗季ちゃん。ふたりは変わらずに関係を続けているらしく、それは意外な気もしたし、どこか腑に落ちるような感じもした。あの子くらい気が遣えないと紗季ちゃんの相手は難しいだろうな……、


 と、そこまで考えて私は溜息を吐く。


 十年近く前の、もう会うこともない小学生のことにこんなにも頭を悩ませているなんて馬鹿みたい……。私はもう学校の先生ですらないのに。きっと私は今、自嘲気味な笑みを漏らしているだろう。だけどその表情を誰かに見られることもない。


 長い独り暮らしに、結婚どころか、相手が見つかる気配さえない私の生活に小馬鹿にしたようなまなざしを送る雰囲気は、この田舎町ではまだ根付いたままだった。


 嫌な夢のせいか、身体を起こす気力が出ない。ちょうど手を伸ばしてぎりぎり届くか届かないかという位置にあるスマホの着信音には気付いていたけれど、意識的に無視していた。


 それでも鳴り続ける音のうるささに、

 思わず舌打ちが出る。


「あぁ、もう!」

 と身体は起こさないまますこしだけ移動して取ったスマホを耳に当てた私の聴覚を刺激した明瞭な声は、先ほどまで頭に浮かべていた人物のものだった。


「先生」

 と今とは違う肩書きで私を呼ぶ、有紀のその明るい声が羨ましくなる。もう当時の私と変わらないくらいの年齢になった彼らの存在が、私自身の年齢の経過を感じさせる。


「どうしたの有紀ちゃん」

「ちゃん付けはもうやめてくださいよ、和音先生。子どもじゃないんだから」


「ごめんごめん」でもね。あなただって先生って呼んでるじゃない。……と心の中で苦笑しながら。「それで、どうしたの?」

「実は今日、小学校の頃の昔馴染みで集まろうと思ってるんです」


「へぇいいじゃない。誰が来るの」

 私は呑気に有紀ちゃんが挙げていく名前を聞いていた。懐かしい名前が挙げられていく中で、「紗季」という名前が耳に入り、私は思わず「えっ」という声を上げてしまった。


「どうしました?」

「紗季ちゃん、来るんだね」


「はい……? たまには休み取りたいって愚痴ってるのを聞いたんで、じゃあ休みでも取ってこっちに遊びに来たらって、こっちから言ったんです。だから今日の夜の主役は、彼女です」

「そうなんだ……」動揺をばれないようにしながら、私は答える「人数も、それなりの数になるみたいね」


 彼女のマンションを頭に思い浮かべると、それなりの数と言ってもじゅうぶんに余裕がありそうだ。私の小さなマンションの一室とはわけが違う。そもそも彼女の自宅にはパートナーが頻繁に出入りしているわけだから、広いほうが良いに決まっている。


 パートナー……。その響きに胸がかすかに痛む。


「あの、先生も来ませんか。なんか先生もいたら同窓会みたいでいいじゃないですか」


「ありがたい話だけど、今日体調が悪くて、ごめんね」まるで小学生の仮病みたいな言い訳だな。「遠慮しとく。六人で楽しんできてね」

「六人?」


「あれっ六人じゃなかった?」

「うん? あっ、ごめんなさい。入れるの、忘れてました……。今日は彼も来るんです。先生も会いたくないですか? 来てくださいよぉ」


 彼、と有紀ちゃんが言った人物の名に、思わずどきりとする。

 きみの顔を久し振りに見たいような気もするけれど……。


「ううん。やっぱりこんな体調で行っても迷惑かけるだけだから」


 電話を切る直前の、

「そう言えば紗季、近々こっちに戻ってくるみたいですよ」

 と言った有紀ちゃんにしてはすこしめずらしい、うんざりとした色がすこし気に掛かった。


 カーテンのすこし開いた窓へと目を向ける。


 その曇天模様に、雨の降りだしそうな気配がした。その天気が感傷的な気分を強めるのか気付けば私はあの頃を回想していた。




     ※




 あれは私が教師になって六年目、彼らの小学校生活と併走するように教師人生を送っていたので、彼らもいつの間にか、という感じで六年生になり、その顔付きに成長を見て感慨深い気持ちになる。


 たとえ苦手な相手がいても同じ教室内で同じ顔触れが六年間揃い続ける環境が変わることはなく、子どもたちの狭いコミュニティによる人間関係のトラブルは日常茶飯事だった。ストレスによる強い負担でもうこの頃には、私には合わない仕事だ、という気持ちが抑えきれなくなっていた。私が彼女たちの卒業後、すぐに教師を辞めたのは必然だったのかもしれない。


 六年間も成長を見ているのだからどの生徒にもそれぞれ思い入れはあるが、特に印象に残っている生徒というのもいて、紗季ちゃんときみ、そしてコウジくんという名前のヤンチャ盛りの男の子のことはいくつものエピソードと一緒に記憶の大事な部分に強く焼き付いている。


 その中でも強烈だったのが、〈鉛筆突き刺し事件〉だった。あんまり良い名称とは言えないが、実際に当時の教職員はこの出来事をそう呼んで共有していた。


 強烈、と言っても事件自体はそれほどのものではなかった。ただその後に起こった出来事も含めて今となっても残る不快感があった。


「あなたたちはとてもいけないことをしている」


 ある時期からコウジくんがクラス内で腫れ物を扱うかのように、浮いた存在になっていることには気付いていた。見ない振りをすることだってできたけれど、教師という肩書きがそれを咎め、私は露骨にコウジくんを避ける生徒には積極的に注意した。正義感というよりかは義務感でしかなかった。


 その言葉を吐く時、いつも私の唇は震えていたはずだ。そう言っている私がいつもこの言葉に自信がなく、生徒たちの目に怯えていた。


「偽善者」


 実際にそんな言葉を投げ掛けられたこともあり、いまだに夢に見るくらいの苦い記憶になってしまっている。あれもあの事件の直後に聞いた言葉だった。


 私にとっての〈鉛筆突き刺し事件〉の始まりは、放課後の職員室前の廊下で、ちょうど帰ろうとしていたところだった。


 遠くから悲鳴が聞こえ、慌てて声のほうへと向かうと、それは六年生の教室がある階層の男子トイレ前だった。


 ふたりの生徒を中心にして数名の生徒が囲んでいた。ふたりの生徒が誰なのかはすぐに分かった。


「何してるの!」

 と大声で言った私のほうへ、中心になっているふたり以外の顔が向く。その顔触れの中に顔をすこしだけ赤くした紗季ちゃんを見つけて、私は不穏のかたまりが胃に落ちたように心がざわつく。紗季ちゃん……やっぱりあなたも関係しているの?


 私は彼女を意識して無視しながら、生徒たちのゆるやかに開けた道を通って、きみとコウジくんの間に入る。


 きみのことも気にならないわけじゃなかったけれど、まずは座り込んで泣いているコウジくんの心配をするのが先だった。すねの辺りからすこし血が出ている。コウジくんのそばには先の折れた鉛筆が転がっていて、その先端部分の黒が出血している場所から飛び出ている。


 泣いている彼に違和感を覚えたけれど、その正体について考えるのは後にしよう、と私は普段から常備していた絆創膏を貼ろうと、鉛筆の芯を抜こうとした。その時、さらに違和感が増した。血は出ているけれど、その傷は浅い。


 それは口にはせず絆創膏だけ貼って、

「あなたがやったの――?」

 ときみに聞いた。


「はい」


「どうして?」


 それは本心……? 


 その言葉がのどまで出かかったけれど、それが口から出ることはなかった。この場で、生徒たちが聞いている前で言うべきではないだろう。だからきみの口から出る、

 否定の言葉を望んでいた。


「何、言われたのかは知らない。だけどコウジくんの普段の行動だってもちろんそうだけど、あなたの行動だって許されるものじゃない。怒ったのなら言葉にすればいいだけ。暴力を振るっていいわけがない。あなたがやっているのは最低のことよ。何か言いなさい」段々ときつくなっていく口調は自覚していた。途中、紗季ちゃんにちらりと目を向けると、私を睨んでいた。敵意に満ちていて、うんざりする。だって仕方ないじゃない……。「なんで言葉にしてくれないの?」


 実際に放たれた言葉が虚構であると分かっている以上、私にできることはただひとつ、放たれなかった言葉の本心を引き出すしかないのだ。きみはどう思うか知らないけれど、これはきみのためなの。


 だけど……、

 別の先生が到着したことで私たちの会話は中断し、その先生にお願いしてコウジくんを保健室に連れて行ってもらった。彼の怪我は心配ないだろう。それ以上に心配なのは、きみのほうだった。


「あなたは職員室に来なさい!」

 と厳しい口調で言ったのを申し訳ないとは思いつつも、他の生徒の手前そうするより他になかった。私はコウジくんの先生でもあり、そしてまだ事実がはっきりとはしていなかったからだ。


「さて、と……」

 職員室でお互いに座って向かい合い、きみは私に不安そうな目を向けていた。


「すみません……」

 と頭を下げるきみにほっとした。周囲にコウジくんや他の生徒がいないことで重い口がすこしは軽くなってくれたようだ。


「正直に聞くけど、あの鉛筆、コウジくんが自分で刺したんだよね」私の言葉に目を見開いたきみの表情を見て、私は自分の考えが間違っていないことを確信した。「どう? 間違ってる?」


 きみが首を横に振った。


「合ってます」と言葉を添えて。


 私だってコウジくんがきみに、本当に鉛筆で足を刺されていたとしたらあんなにも冷静ではいられなかっただろう。外側から見る痛々しさに比べて、実際に怪我はそれほどでもなかった。以前から目立つために、頻繁に危険な行為や自傷行為を繰り返していたコウジくんなら自ら作った浅い傷でひどく騒ぎ立てるくらいのことは平気でやる。今回もそういった類のものだと私は決め付けていた。


 残念ながら生徒だからと言ってかばいたくなる気持ちはひとつもなかった。


「原因って、やっぱり紗季ちゃん」

「うん」


 ただその複雑さをどこまで理解しているかの違いがあるだけで、子ども社会は大人のそれと同じか、あるいはそれ以上に複雑だ。


 好きな子に嫌がらせをする男の子というものは私が小さい頃から、いやそれよりも昔から多くいたけれど、コウジくんの行動は過剰……という言葉では収まりがつかないほど常軌を逸していた。紗季ちゃんへのその想いが恋心だったのか、それとも狙い定めた標的への執着だったのか。正直なところは分からない。始まったのは三年生の頃で、それは卒業する時まで続いた。「ブス」と連呼することは当たり前、背中を蹴りつけたり、髪を引っ張ったり、女子トイレに侵入して個室にいる彼女の頭に水を掛ける、という惨事もあった。


 コウジくんを腫れ物のように扱う生徒たちには注意できるのに、私はこの事実からは目を背け続けていた。


 見ない振りをしていた。

 怖かったのだ。


「コウジくんのこと、どう思っているの? あんなにひどいことされて」


 過去に一度だけ紗季ちゃんに尋ねたことがある。


 怖かったのはコウジくんじゃない。

「嫌、です。だけどコウジくん、みんなにも同じことやってるから……」


 どうしてそんなこと聞くの?

 と、そんな風に不思議そうに首を傾げて紗季ちゃんは私を見ていた。


 ねぇあなたの目には何が見えているの。お願いだから、で私を見ないで。


 他の女の子と紗季ちゃんに対するコウジくんの態度の違いは端から見ていれば明らかで、本人だけが気付いていないような表情をいつも浮かべていた。


 どっかに消えてくれないかな、この子……。


 何よりも怖かったのは、

 彼女と、そして彼女への恐怖が憎しみへと転じていくことへの自覚。見ない振りをせざるをえなかったわけではなく、私は自ら望んで見ない振りをしたのだ。その感情を自覚していくことが怖くて仕方なかった。


「お前、あいつのこと好きなんだろ、ってコウジくんが言ってきて。その後ちょっと口喧嘩になって、そしたらコウジくんがいきなり胸ポケットに入れてた鉛筆で……」


 紗季ちゃんとコウジくんに挟まれて、きみは本当に可哀想だった。きみから事の経緯を聞きながら、私の脳裡には先ほどの漫画のように頬を赤く染めた紗季ちゃんの表情が浮かんで、私はきっと自分では見えないが漫画のように苦虫を噛み潰したような表情をしていたことだろう。


 私のために争わないで、

 と、頬を染める彼女は自身を取り合うふたりの姿を見ながらお姫様でも気取っていたのだろうけれど、そこは現実で、そんなことをのんびりと考えていられるような状況でもなかったはずだ。実際に彼女がどう感じ、どう思っていたか、なんて私には知る由もないけれど、私の想像の中で作られる彼女はただひたすら不気味で嫌悪感があり、それは外れていない自信があった。


 彼女のきみへの好意もそうだ。端から見れば明らかなのに本人だけが自覚していないように私には思えた。


 


「ねぇ、きみは紗季ちゃんのこと嫌い?」


 きみが私の顔を見ながら、頬をぽりぽりと掻いて「うーん」と困ったような表情をした。それ以上は何も言わなかったけれど、きみの表情から私は確信していた。当然だろう。あんな子のことなんて、誰も好きになるはずがない。


「嫌いだったらね。ちゃんと嫌いって言ってあげるのも、優しさなんだよ」

「なんか、いつもの先生らしくない」


「そんなことないよ。いつも言ってるじゃない。自分の本当の気持ちを、はっきりと言葉にして伝えるのは大切だって。誰も心の奥なんて分かってはくれないよ。だからみんな言葉にしていくの」


 人の心を分かるようになる。そんな私の好きな言葉とは矛盾するけれど、まぁいいだろう。かりそめに使い続けた空虚な言葉よりも、今、本心から言ったこの言葉のほうが私にとって実感のあるもので、しっかりときみの心に届くだろう。


「でも……」


「じゃあ、ね。先生が魔法の言葉を教えてあげる」きみは、そして紗季ちゃんはこの言葉の意味を知っているだろうか。知っていたならそれはそれでいいし、知らなかったとしたらのちのちそれは毒となって彼女の心に侵食するかもしれない。どんな形で効果を発揮するかは分からないけれど、何か効果はあるはずだ。


 教師は俗に聖職者と言われる。私も心のどこかでそれを信じ続けている一方で、教職に就いてからの現実にそれまでの人生よりも感情がひどく濁っていくのも自覚していた。ただ人間には、どれだけ濁った水が満ち心臓に重く圧し掛かってくるのを実感しようとも、その濁りに交わらない真水が一滴は必ず存在する、と最後の良心だけは崩さないようにしていた。それまでは。


「自意識過剰。紗季ちゃんにそう言ってあげなさい」


 悪意の抱擁はどこまでも温かい。


 きみを帰らせた後、私は保健室の先生から一応コウジくんの怪我に問題がないことを確認して正門玄関から帰宅しようとすると、雨の景色に混じって立つ紗季ちゃんの姿に気付いた。


 まだいたんだ……、と溜息を吐きそうになった。紗季ちゃんと目が合う。その眼は間違いなく私を睨んでいた。最初はきみが私のことを漏らしたのか、と不安に駆られたけれど、無口で紗季ちゃんに苦手意識のあるきみが、彼女にそんなことをわざわざ伝える場面がどうしても想像できなかった。


 私は紗季ちゃんを無視するように傘を広げ、彼女の横をそのまま通り過ぎようとした。


 そんな私に彼女が、

「偽善者」

 と言った。


 コウジくんの執着には鈍感で、きみへの恋心には盲目で、私を見る眼差しだけはどこまでも鋭い。


 その声を雨が洗い流してくれることはなかった。




     ※




 たとえ古くても、苦い記憶を回想するのはひどく疲れる。回想を終えた私は、ぐったりと肉体的にも精神的にも疲れた気分になってしまった。ふたたび寝てしまったみたいで、目覚めると夕方過ぎになっていた。せっかくの休みを無駄に過ごしてしまった……。私は朝食なのか昼食なのか、それとも夕食なのかがまったく分からないような食事を終えた後、ふた回りくらいの年上の同僚から「久し振りに観てたらすごく面白くて、あなたも観て」と押し付けるように渡された森田芳光監督の「失楽園」をぼんやりと眺めていた。何が面白いのかも分からず、そもそも不倫や浮気といった感情の揺れにも興味が持てなくて、ただただ退屈で、心の中で、その前に彼氏も旦那もいねぇよ、と呟いていた。


 途中で画面を消して、無音になった世界で、

 私は細かに降りだした雨の音に気付いた。不快な記憶として残るエピソードを振り返ると、いつだってその時々には雨が降っていた。


 あの日だって、そうだ。


 きみと再会したのは、きみが高校に入ってすぐの頃で、その時にはもう私は件の小学校を辞め、新たな職場として今勤めている会社で働いていた。近くの本屋に立ち寄った時、後ろから「先生!」と声を掛けられ、びっくりしながら振り返ると、そこには身長も伸び、色白で端正な顔立ちになったきみが立っていた。


 外見から大人びて見えるきみと話していると、その無口で、物静かな態度は幼い頃とあまり変わらず、それがさらに大人びて見えた。きみの姿、その仕草に妙に気を取られる私が、彼と定期的に会うことを望み、肌を重ね合わせるようになったのは必然だったのかもしれない。


 誤解がないように言えば、合意の上で決して無理やりではなかった。すくなくとも私はそう信じている。


 倫理観のたがなど教師時代の内にもうすべて捨てている。罪悪感はわずかほどしかなく、頻繁に会うようになり、快楽に身を委ね続けた。愛を囁くのはいつも私の側で、きみが私への想いを言葉にしてくれることはなかった。それでも私の一方通行ではない、という自信はあった。だからこうやって私と会ってくれるんでしょ。きみは嫌そうな顔をひとつもせず、にこやかな笑みも絶やさなかったし……。


 その日もやっぱり雨だった。窓に当たる雨が聴こえない程度の小雨が降っていた。


 馬鹿みたいに男子学生との日々を享受しながらも、その一時の快楽から離れた瞬間、年齢や仕事といった現実的な悩みが急激に押し寄せてくる。きみとの日々は幻に見え、その幻こそ現実にしたかった。


「私のこと好き?」

 と投げ掛けたその言葉は、私がそれまでずっと避けてきたものだった。言えばきっと、きみは頷いてくれるはずだ。そう思いながらも、もしかしたら……そんな感情が挟み込まれ、言葉に出来ずにいた。


 そんな私に、

「自意識過剰」

 と、きみがほほ笑み、過去から罪が追い掛けてくるように私の恋は終わった。






 あぁ思い出すんじゃなかった……。頬に手を当てると、その手のひらは濡れている。


 もう今日は駄目だ。もうお風呂に入ってさっさと寝よう、と立ち上がった私の意識を苛立たせるようにスマホの着信音が鳴り響く。


『先生。起きてます?』

 有紀ちゃんの声だった。電話越しに騒ぎ声などは聞こえず、時間から察するにもう同窓の集まりは終わっているのだろう。


「まだ寝るような時間でもないでしょ。どうしたの?」

『どうしたも、こうしたも』

 と有紀ちゃんの声はいつもより冷たく、不機嫌そうだった。


「何か怒ってる?」

『あ、あぁ、いえいえ。慎司と、ちょっと』


 慎司くんというのは私も一度も会ったことはないけれど、有紀ちゃんと同じ職場で働く、彼女の婚約者だった。彼の話は有紀ちゃんから何度も聞かされていて、仲が良いという惚気話ばかりだったので意外だった。……というよりも、不機嫌を隠さない有紀ちゃん自体がとてもめずらしい。


「もう飲み会は終わり?」

『はい。さっき最後に、紗季がふたりで帰っちゃいました……』

 と、きみの名前を添えながら有紀ちゃんが言った。きみの名前を言う時、明らかに怒りが込められていた。


 あぁそうか……。確か彼女は紗季ちゃんと付き合っていたんだっけ。高校時代、同じ学校に通っていたふたりが交際していたというおぼろげな噂を思い出す。誰だっけ、それを教えてくれたの。ひとりしか思い付かない。そうか、きみか。


 婚約者もいるのに嫉妬なんて馬鹿みたいだね。過去の失恋に泣く女とどっちが馬鹿みたいだろう、と自嘲気味な笑いが思わずこぼれてしまった私はもう彼女の声なんて聞いてなかった。


 ねぇ有紀ちゃん、私が紗季ちゃんから奪ってあげようか……?

 知ってる。これは自意識過剰女のただの世迷い言だ。


 

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